涼都哈爾賓の餃子会
哈爾賓:市街地
戦争に勝利したはいいが、当初の目論見が有耶無耶ということもままあるものだ。
都合6年以上も続いてしまった大陸での戦争などは、まさにその最たる例と言えるかもしれない。上海租界を蒋介石の軍勢から守るべく奮戦し、逆襲に転じて南京に武漢、広州と次々と占領、遂には打通作戦すら成功させたと思ったら……いつの間にか治外法権の撤廃と全ての租界の返還が決まっていたのだから。
「何を言っているのか分からないと思うが、俺も何をしているのか分からなかった」
「頭がどうにかなりそうだったよ」
「もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ」
勝った勝ったと提灯行列、大東亜共栄軒の中華丼と浮かれる世論とは裏腹に、かような内容を口にする者もいたりする。
とはいえそれも一面的といえば一面的な見方であろう。物事の決着がつくまでの間に環境条件や優先順位が変わってしまうこともあり得るし、世界大戦ともなれば激変どころの騒ぎでない。あまりに何もかもが流動的な状況の下では、確固たる原理原則でもって動けるというのは稚気めいた幻想で、諸々が片付いた後で大義名分を現実に合わせるしかないのである。
それに新体制なった中華民国は、頼りないところは確かにあれど、今や列記とした同盟国。
聖戦の完遂と大東亜共栄圏の樹立のためには、その国情を勘案して潜在能力を引き出さしめ、戦争遂行に必要な各種物資を生産させねばならぬ。となれば多少の譲歩も必要という判断になるのも致し方ないだろう。記憶力に長けたる人間などは、米英との戦争も元々はといった愚痴を零しはするが、重要なのは目の前の現実に対処することに違いない。さる人物の言葉を借りるならば、それはそれ、これはこれということだ。
「まあもっとも……あれこれ奸計を巡らせるのもいるようだね」
そう分析を述べるは抜山主計少佐。
どうした訳か満洲内陸は哈爾賓なんかに赴任している彼は、地元のロシヤ人が建てた欧亜混淆なホテルの餐館にて、茹だったばかりの餃子を頬張りながら続ける。
「駅周りの空き地に若いのがやたらと屯していただろう? あれは恐らく、元は蒋介石の兵隊だった連中だよ」
「その割には随分とだらしない気がしたな」
首を傾げるは古い付き合いになる花村。
三菱重工業の系列であれこれやっている男で、表向きは経理屋だが、まあそれなりに不可思議なところがある人物だ。
「ああでも、そうでもなければ今頃、ここも蒋介石一派の天下となってるやもしれんか」
「あちらが真面目な兵隊ばかりだったら苦戦どころでなかっただろうが……300万を数えた蒋介石軍の内情といったら、一部の優良師団以外は、馬賊盗賊食い詰め者ばかり。とはいえ彼等にも、今度は対米英戦のため役立ってもらわないといけないのだけど」
「とするとあの一団は……この辺りで関東軍の指導の下、鍛え直しでもするんかね?」
花村は訝しげな顔で白酒をグビリとやり、
「あるいは農作業か採鉱でもやらせるのか? ただこの辺りは将来有望そうな箇所は多々あれど、戦争もあってまだまだ手つかずのままになっている。手っ取り早く資源を増産させるなら、撫順の炭鉱にでも回した方がよさそうだぞ? あそこは露天掘りだから、採掘量が投じた員数に比例し易いはずだ」
「いや、更に手っ取り早くやる方法があるみたいでね」
「ほう、興味深いな」
「つまるところ……こいつさ」
ちょうど運ばれてきた皿を指差し、抜山はニマリと笑う。
ドサリと盛られているのはペリメニという、ロシヤ風餃子とでも言えそうな料理だった。起源はタタール騎馬民族にあるという話だから、姿形が似ているのも自然なことかもしれない。
「ちょうど今まさに、とにかく男手が欲しくてたまらんという国が近所にある。しかも五体満足なら素性は問わぬとのこと。それ故、出稼ぎに行ってもらうという寸法なのだよ。あちらには労働教化なんて概念もあるらしいから、勤労しているうちに学だって身につけられるのかもしれない」
「おいおい、あまりにあくどい冗談じゃないか?」
花村が幾らか顔を歪め、苦言を呈した。
よほどの共産主義シンパでもない限り、それが強制労働を意味する語であることを理解している。
「まあ言ってしまえば純粋なる需要と供給。大陸の人口爆発解消にはいいのかもしれんし、ソ連邦の若いのが対独戦で戦死し過ぎているのも事実だろうがな」
「非公式な推計だけど、既に1500万が喪われたそうだよ」
何かが麻痺したような口調で、抜山はさらりと言ってのける。
それから欧州東部戦線の状況を話題として挙げた。今年に入ってソ連軍は、カフカス方面のドイツ軍を包囲撃滅するべく、東ウクライナで大規模な突破を仕掛けたものの、ハリコフ近郊で袋叩きにされてしまっていた。度重なる空襲のためバクー油田がその生産能力を大きく落としており、しかも陸路を封じられカスピ海経由での油送以外ができなくなった関係で、作戦の要たる戦車師団に十分な燃料を与えられなかったのが敗因であったようである。
加えて決め手となりそうなのが、フィンランド方面の情勢だ。
レニングラード占領によってバルト海を安定化させたドイツ軍は、尻込みしがちなリュティ大統領をどうにか説得し、カレリアへの一大攻勢を発起。外交情報から油断していた気配のあるソ連軍は奮闘虚しく敗退、結果として北極海航路の終点であったムルマンスクは陸の孤島となってしまった。つまり支援物資をロシヤ本土へと持っていくためには、更にそこからアルハンゲリスクへと向かう船を仕立てねばならなくなったのだ。
そして新造航空母艦『グラーフ・ツェッペリン』を基幹とする機動部隊がバレンツ海に出没し始めたので、米英護送船団の運航が著しく制約されることにもなったという。
「これだけの苦境ともなれば、もはやクレムリンに手段を選んでいる余裕はあるまい」
抜山はそう断じ、
「特に唯一残された太平洋航路の命運を握っているのは我が帝国で、必要とあらば中立条約があったとしても、北太平洋方面での攻勢によってその遮断を実施し得ると示した訳だからね。どうあっても、取引に応じざるを得なくなるだろうさ」
「最近、あちこちの紡績工場が妙な活気付き方をしているという噂があったが……なるほどそういうことかね」
花村もまたペリメニをつまみ、15年ほど昔にモスクワでなされた論争について軽く触れる。
つまるところ軽工業分野に資源を配分して安定的な成長を実現するか、それとも重工業分野を一気に躍進させるかというものだ。最終的に権力を掌握したスターリンの主導で後者が勝り、第一次および第二次五か年計画として実現。ニューヨーク発の経済恐慌に苦しむ世界を尻目に、工業生産力を何倍にも増大させた。
そうした決定は、熾烈を極める独ソ戦を見るに正解ではあったのだろう。
実際、ソ連軍は兵器の供給において成功し続けているようだ。だが米英からの支援が滞った場合、傾斜生産体制が国家の脆弱性に転化することも十分考えられ、それ故にアジアの産品を高値で売り込める余地も生じるという訳である。
「だが相手はソ連邦、アカどもだろう?」
花村はあからさまな嫌悪感を漂わせ、
「俺も昔は治安維持法でしょっ引かれたことはあったが、アカじゃなくて国家組合主義だ。それに満洲にいるから、赤軍の脅威は身に沁みている。だから正直なところ、まずソ連邦を打倒しちまった方がいいんじゃないかと思えてならん。それにソ連邦の経済を支援するというのはつまり、独ソ戦の逆側への加担だ。ドイツを裏切り過ぎる」
「彼等は好きにした。バルバロッサ作戦とかね。だから我が帝国も好きにするってだけだよ」
「どういう主語だ、そいつは。まあお前の言うところでは、ナチス党なんてエゴイストの信用ならん連中かもしれんが、共産党だって似たり寄ったりのろくでなしだ。それに米英もソ連邦が脱落してまで戦争を継続せんだろうし、ドイツと袂を分かつにしても、戦争が片付いた後でもいいはずじゃないか?」
「多分だけど、そこが今まさに焦点になっているよ」
抜山は今度は妙に刺激的なる餃子を取り、パクリと頬張った。
やたらと辛い上に熱かったため目を白黒させ、それを見て花村も剣幕を和らげる。
「まあただ直近の人事異動を見てみると、対ソ開戦派に属する佐官級将校がベンガルやニューギニアに赴任しているようだ。とすれば関東軍の主流も対ソ静謐なんだろうと思う。下剋上でぶち壊されてはたまらないからね」
「なるほど……個人的には納得はいかんが、お上がそういう腹なら仕方ない」
「そういう訳だ。お偉方の思惑は、ここ哈爾賓での貨物列車の運行や労務者の集まり具合などに必ず表れてくる。僕等の活動のためにもそういった情報は不可欠だから、色々と見張っておいてほしいのだ」
「なるほど、了解した。従来通りの手筈でいいか?」
「ああ。これで頼むよ」
抜山は鞄からノートを取り出し、花村へと手渡した。
山ほどの符牒が記されているものだった。それを用いて如何にも平易そうな文章を作成し、電話交換局の伝言掲示板に残しておいてもらい、必要に応じて引き出すという斬新な連絡方法である。
それを終えた後は酒盛りで、中学校時代の昔話に花を咲かせ、それからいざさらばと相成った。
もっとも――抜山はそれから暫く、関連情報が届かぬことにヤキモキさせられることとなる。花村が食した餃子にだけ危険な化学薬品が混入していて、彼はそれから何か月間か、生死の境を彷徨う羽目になったからだ。一寸先は闇とはいうものの、いったい何の因果なのか分からない。
次回は5月9日 18時頃に更新の予定ですが……諸事情により20時更新となるかもしれません。更新時刻が乱れ気味で申し訳ございません。
見ての通り……物凄くあからさまなタイトルでした。
なおこの作品は当然フィクションなので、実際の事件とは無関係ですが……流石に涼宮ハルビンとか古すぎてもはや通じないかもしれません。あと哈爾賓、涼都というには寒過ぎかも?




