知らない犬に話しかけるな。
知らない犬に話しかけるな。
ついてくるから。
という文言がある。
この街の至る所に書かれているので、局所的に有名なフレーズである。
どうやら知らない犬には話しかけてはいけないらしい。
近頃越してきた俺としては、別に犬くらいいいんじゃないかな、と思っていた。
不動産でも、『ペット禁止じゃありませんから』とも言われたし。
犬の一匹くらいなら、面倒見れるだろうと思っていた。
「お前の母がどうなったか知りたくないですか?」
夜道で遭遇した犬は、直立したまま、笑いながら言った。
「お前の母がどうなったか知りたくないですか?」
関節がおかしくなった腕をぷらぷらと揺らしながら、犬は繰り返した。
「お前の母がどうなったのか、本当に知りたくないですか?」
犬は犬だった。あらゆる犬の集合体だった。何もかもの犬に見えたし、何の犬でもなかったし、犬だった。
「お前の母、どんなだったか知りたくないですか?」
俺の母は、俺が生まれた時に亡くなったのだと聞いている。
父が悲しい顔をするので、詳しいことは聞いていない。
「お前の母がどんな風に死んだのか、聞きたくないですか?」
聞きたくもない、と吐き出していた。
にたにた笑いながらそんなことを聞く犬に、怒鳴りつけてやりたい気持ちを抑えられなかった。
「知らないよー」
犬は笑った。
手を叩いて笑った。
知らない、知らない、と繰り返し笑った。
部屋についてきた犬は、その後、「お前の母はとてもよく苦しんで死んだ」
と繰り返し、
「お前の母は本当に苦しんで死んだ」
繰り返した。
嘘だ。こいつはさっき、知らないとはっきり言ったのだから、嘘のはずだ。
「お前の母は本当にとてもとても辛く苦しい思いをして死んだ」
嘘だ。
「お前の母はお前のせいで苦しみ抜いて死んだ」
嘘。
「お前の母は痛いよ痛いよ苦しいよと喚いて死んだ」
「痛いよ痛いよ! 苦しいよ!」
犬は毎日母の真似を繰り返し、
繰り返し、
うるさく繰り返し、
「痛いよ痛いよ!! 苦しいよ!!」
うるさい、
「本島さんの家、どうしたの」
「答えちゃったんでしょ。もうねえ、知らない犬は無視しなさいって書きなさいよ」
「でもさあ」
「分かるわよ」
「五年前はあんなんじゃなかったじゃん……」
「分かるけど。どうにもならなかったんだから、仕方ないでしょ」
はじめはなんでも教えてくれる、とってもやさしい犬でした。




