猫の声
一番寒い時期に、若い女性が深夜に腕から血を滴らせて線路に立ち尽くしていたのを保護する。
腕の傷は致命傷ではなく、治療後に精神科病棟への入院となる。
鬱が酷く、入院中も何の反応も示さなかった患者ではあるが、ある日猫の声を聞く。
猫の恋の声は早春の季語ともなっている。
猫の声は女性に何をもたらすのか。
春まだ寒い夜の窓の外では猫の発情した声が聞こえる。
嫌な季節だ。
「猫の鳴き声は嫌い」
病院のベットでつぶやく。
入院してから、ちょうど一ヶ月。
手首を切り、勿論そんなもんじゃ死ねないので、そのまま外に出て踏切で電車を待っていた。
手首の傷からは血が滴りパジャマのズボンを汚したが、死ぬ場所を探すうちにフラフラと歩いていたら止まってしまった。
ああ、貧血にもなりはしない。
私がぼんやりと考えていた。
そうよね。カッターの刃がいけなかったかしら。
刃を左手首に垂直に当てて力を入れると先がめり込みプツっと音がして、じわじわと血の玉が大きくなった。
そのまま、ガッツガッツと皮膚や何かに阻まれながらも、なんとか手首を渡り切った。
皮膚が厚くて丈夫で意外だった。その下の真っ赤な筋肉。絹糸のような神経かな?
それとも筋かしら。ガリっと通り過ぎたとき、中指が跳ね上がった。
あんなに手首を切るのが大変だとは思わなかった。
もっと粘土を切るようにブスッと重みはあっても、あれだけ力を入れれば腕の半分くらいの深さになると思っていた。
カミソリでやるべきだったわ。
血は流れ続けたが、ブシューとではなくパタパタと太ももに血だまりを作る程度である。
無駄に痛いわ。ジンジンと。鼓動に連動して痛みがある。
ああ、痛いのに死ねないのね。
そのまま外に出た。
水色の彼のパジャマだけだと寒いけど、彼はもう来ないしね。
アパートの階段を下りて歩き出す。
どこで死のうかしら。
飛び降りられる橋とかマンションとか?遠いな。面倒くさいな。
電車の走る音が聞こえた。
家の中では気にならなかったけれど、こんな時間まで電車は走っているのね。
ああ、少し歩けば踏切があったはず。
誰かか何かにぶつかったり、したかも知れない。
何か声が聞こえたかもしれない。
でも、裸足の指の爪のペティキュアが剥げているのが妙に悲しくて涙が出ていた。
そう。私が泣いていたのはペティキュアが綺麗じゃなかったからよ。
踏切はほんわりと明るかった。
灯りって、どんな時にも安心させてくれるのね。
だから、電車が轢いてくれるのを安らかな気持ちで待っていたの。
その後は、点滅する光と人の大声と、人の腕がたくさん。引っ張ったり押したり。
いきなりの騒乱に巻き込まれて、そんまま意識が途絶えた。
目が閉じる前に思ったのは、寒いってことだけ。
目を開けたら真っ白な病院にいて、周りで人がパタパタ動いていて煩かった。
誰か、叫んでいたけれど、私の名前だったかも。
誰だったかしら。お母さんかな。ああ、面倒くさい。
瞼が重くて、眠ってしまった。
そんなことが、何度か、何度もあった。
目が覚めて、無理にとろみのある食事ばかりを食べさせられて、そして薬を飲んで眠ってしまう。
夢も見なかった。
そんな一ヶ月を過ごしていたよう。
最近、昼も寝ていたから夜に起きてしまう。
着ていた水色のパジャマはもうない。
彼の匂いが付いていたのに。
左手は動かないけれど、医者は何か言っていた。
リハビリという言葉があったから、頑張れば動くようになるって事でしょうね。
頑張る。頑張る。
あーーー。嫌な言葉。
消灯を過ぎた暗い部屋。
暗いけれど、真っ暗じゃない。部屋の扉は開けっ放しで廊下の薄明かりが入る。
部屋にも小さな電球が灯っている。
ベットに起き上がる。
白地に薄いストライプの病衣を着ている。
手を見る。
白い。
爪が伸びている。
あーーーーん。
外で猫が鳴いた。
夜に目を覚ますようになってから、たまに猫の鳴き声を聞く。
「猫の声」春の季語でなかったかしら?
あーーーーん。
鳴くのはメスかしら。オスなのかしら。
番を求めて身体が疼くのね。
私も身体が女として疼いたのよ。
もう、随分前になってしまうのかしら。
愛されたの。
いえ、あれは愛ではなかったわ。
あーーーーん。
嫌な声。
いやらしい声。
そうよね。SEXしたいと叫んでいるんだもの。
あーーーーん。
そうして、赤ちゃんを産むのね。
ふわふわの玉のような赤ちゃんをお母さんが育てるの。
可愛い子猫。
あーーーーーん。
意外に声が近い。
窓の外かしら。見えるかな?
ギシギシする身体でなんとかベットから出てみた。
窓を覗いてみる。
外は何も見えない。
無表情な私が見えただけ。
黒い窓に私が静かに立っている。
あーーーーん。
あーーーーん。
部屋を出て暗い廊下を歩いてみる。
あーーーん。
どこかしら、猫が迷い込んでいるとか?
まさかね。
個室にトイレがあるし、自動販売機もテレビのホールも興味がなかったから、部屋を出るのは初めて。
廊下の奥の曲がった場所に、冷たく光り輝くナースステーション。
反対側を歩く。
あーーーん。
ネコは好きだけれど、この声は嫌い。
だって、・・・なんでだっけ。
薄暗い病院を歩く。といってもフロアごとに施錠されているので、散歩にもならない。
あーーーーん。
少し大きな声に聞こえる。
廊下の奥まった窓の下。光が届かずそこだけ真っ暗になっている。
あーーーん。
廊下の隅っこの暗闇が凝固された場所。
ぺたりと清潔な床に座り込んだ。
ああ、そうか。
手を伸ばして、暗闇の中から尚黒いものを引きずり出した。
ああ、私の赤ちゃんだったの。
これは、私の赤ちゃんなの。
黒い塊はもぞもぞと身体に抱き着いてくる。
ああ、私の赤ちゃん。
忘れていてごめんなさい。
何で忘れていたのかしら?
黒い塊はプルプルと身を捩る。
喜んでいるのね。お母さんも嬉しいわ。
涙を流して抱きしめる。
ああ、赤ちゃんが冷たいわ。
抱きしめても、抱きしめても、温かくならない。
ごめんなさい。
あの、水色のパジャマだったら、温かかったかしら。
ぎゅうっと抱きしめる。
お母さんが温めてあげるから。
体全部を使って赤ちゃんを包み込んだ。
私は、お母さんだったの。
薄れてゆく意識の中で、妊娠していた過去を思い出し、そのまま眠りの中に落ちていった。
翌朝、精神病院の閉鎖病棟で、起床の確認の際にベットからいなくなっていた女性を探し、廊下の隅ですぐに見つかった。
胎児のように丸まった姿で死亡が確認された。
ベットから出ることはトイレ以外になく、部屋から出たことはなかった。
介助付で少量ではあったが、食事は出来ていた。
深夜の最後の確認は夜の2時で、その時はベットにいたことが確認されている。
起床は6時。4時間だけの空白で、患者はゆるく暖房が効いている廊下で衰弱死をしていた。
まだ若い看護師が死亡した女性のベットのシーツを交換していた。
個室の主だった女性を思い出していた。
言葉を交わすどころか、何の反応も示さなかった。
いったい何故、いきなり出歩いたのかしら。
あおーーん。
窓の外で猫が鳴いている。
もう春が来るのね。
シーツを持って看護士は病室を後にした。
女性の荷物はすでに親族が持ち帰っている。
その病室に女性の居た痕跡は何もない。
そして、この世に何もなくなり、記憶にすら残らずに消え失せるのだろう。
発情期の猫の声が赤ちゃんの泣く声に似ていると感じて書いてみました。
どんな女性か、何があっての自殺の未遂か、すべてを曖昧にして、
鬱状態のぼんやりとした心の機微で綴ってみました。




