第11話 シキの家族は面倒
夜の空気がひやりと肺に落ちる。地下にいたせいか、肌に当たる風が妙に新鮮だ。
振り返れば、屋敷の玄関先にリサがぽつんと立ってこちらを見ている。
別れの挨拶でもあるかと思ったが、ただ小さく手を振るだけで、何も言わなかった。
俺は星流を巡らせ、走ってグレイヴァルド家へと戻る。
屋敷の門をくぐったのは、もう夜も深まってきたころだった。
玄関ホールには、いつもの執事がきっちりと背筋を伸ばして待っていた。
「お帰りなさいませ、シキ様」
「ああ、ただいま」
執事がアーノルドは軽く会釈しつつ、
「旦那様がたが、食堂でお待ちです」
と静かに告げた。
――やっと、親父と直接話せるか。
今まで何かと間を置かれていたから、これでようやく踏ん切りがつく。
「わかった、今行く」
ここ二週間くらいで執事や使用人の態度もだいぶ変わったな。
最初はずっと舐められていたが、今では普通に貴族令息として接してくるようになった。
まあそこまで丁寧じゃなくても俺はいいんだが。
執事が先導する形で廊下を歩き、重厚な扉の前で足を止める。
扉の向こうから微かに銀器の音と、誰かの声が聞こえた。
扉を押し開ける。
食堂の空気は重かった。
煌々としたシャンデリアが天井から照らし出しているが、空気だけは妙に冷ややかだ。
長いテーブルの奥。
当主であり父親のレッド・グレイヴァルドが、真っ直ぐに俺を見ていた。
金髪、鋭い目元、細身だがその佇まいには威圧感がある。
その隣には、義母のクラリッサと、義弟のシリウス。
二人とも金髪。
特にシリウスは女顔と言ってもいいほど整った顔立ちで、家族写真に混ざると俺だけ黒髪で浮く。
亡くなった実母にだけ似た、黒髪。
――魂が死んだシキがこの家で孤立している理由のようだ。
今の俺にとっては、どうでもいい話だ。
「遅かったな」
父親のレッドが、低い声で言う。
その目が、俺の一挙手一投足を値踏みするように光っていた。
「用があるって聞いたんだが」
「まあ、席に着け」
俺は無言で用意された椅子に座る。
クラリッサとシリウスが、わざとらしいほどに距離をとって座っているのがわかる。
気にしないことにした。
ほどなくして、料理が運ばれてくる。
さすがは伯爵家の食卓だけあって、テーブルには見慣れない料理が並ぶ。
前世で生きていた頃の俺には、どれもこれも身分不相応だ。
ナイフとフォークを手に取る。
正直、今でもこういう食器の扱いは慣れない。
それでも腹は減っていた。
口に運んだ瞬間、向かいのクラリッサとシリウスが顔を見合わせて小さく笑う。
「まあ、シキさんったら。食べ方が本当にお下品ですこと」
「兄上、貴族の食事作法をご存じないのですか? 見ていてこちらが恥ずかしいですよ」
わざとらしく、手で口元を隠してクスクスと笑うクラリッサ。
シリウスも鼻で笑いながら、目を細めてこちらを見てくる。
――くだらない。
前世で貴族なんてやってなかったし、身体に染みついた作法なんてあるはずがない。
魂が死ぬ前のシキが習っていたのなら、この身体に入った俺も貴族作法はできるのだろうが。
シキはこの家でそんなものを教わっていない。
家庭教師をつけられたこともない。
「はぁ……」
ため息をつきながら、俺は自分なりに食べ進める。
どうせ、食事のマナーなんて腹を満たすための手段に過ぎない。
綺麗に食べても、下手に食べても、腹の足しになれば同じだろう。
「シキさん、聞こえていませんの!? 本当に無教養でいらっしゃること」
クラリッサが声を上げる。
食事中に、わざわざ大きな口を開けて叫ぶ。
俺はスプーンを置いて、クラリッサを正面から見据える。
「……食事中に大声を出す方が、よっぽど下品だぞ。静かにしてくれ」
クラリッサは一瞬、言葉を失い、顔を真っ赤に染める。
シリウスが慌てて母親の肩に手を置いた。
「兄上、母上にそんな口を……」
「……黙って食えよ。誰もお前の声なんか聞きたくないんだ」
俺が静かに言うと、シリウスは「……っ!」と唇を噛む。
テーブルの空気が冷え込むのがわかる。
シリウスのやつ、魔術を撃つつもりか?
「シリウス、クラリッサ。いい加減にしろ」
父親のレッドが手を上げて制した。
その声に、二人はしぶしぶ口を閉じる。
さすがに当主の威圧には逆らえないらしい。
しばしの沈黙が流れる。
テーブルにフォークとナイフの音だけが響く。
それが途切れた時、レッドが低い声で切り出した。
「シキ。お前に話がある」
俺は口を止め、顔を上げた。
「なんだ?」
「お前、婚約者のエリナに、婚約破棄を突きつけられたらしいな」
レッドの目が鋭く光る。
シリウスとクラリッサが、ここぞとばかりににやにやと笑みを浮かべた。
俺は首を傾げる。
「突きつけられる? 違うな。婚約破棄を突きつけたのは、こっちだ。あいつと結婚するつもりはない」
「兄上、父上にそんな言い草を……! 礼儀というものを知らないのですか!」
シリウスが怒りを露わにして言う。
どうやら俺の言葉遣いが気に食わないらしい。
「お前が関係ない話に首を突っ込むな、シリウス」
俺は冷たく言い放つ。
その目に気迫を込めて睨みつけると、シリウスは一瞬怯えたように身を引いた。
「くっ……」
クラリッサが息子を庇うようにしているが、興味はない。
「それで、だ。エリナ・ベルフェルトとの婚約を、こっちから破棄したい。そう伝えてくれ」
俺は父親の目を真っ直ぐ見据える。
「……そうか」
レッドの目が細くなった。
「だが、いいか? こちらから一方的に破棄するとなれば、世間体はお前にとって最悪だ。エリナ・ベルフェルトは社交界でも悪い評判はない。世間は、お前が原因で破談になったと見る。――私は、お前を助けないぞ。政略結婚を拒否するお前の肩を持つ気はない」
その言葉に、クラリッサとシリウスが目を輝かせる。
隠しきれないほどの歓喜が顔に滲んでいた。
――わかりやすい。
「構わない。助けてもらわなくて問題ない。むしろ邪魔だな」
俺は淡々と言い放つ。
クラリッサとシリウスが目を剥く。
「なっ……!」
「兄上、身の程を……!」
二人が口々に言うが、聞く耳は持たない。
レッドが再び口を開く。
「本当にいいんだな。政略結婚をやめるなら、グレイヴァルドの当主になる道は断たれる」
その言葉に、シリウスとクラリッサの目が見開かれる。
一瞬の間を置いて、顔を綻ばせる二人。
自分、あるいは自分の息子が当主の座を得られると、頭の中で計算しているのだろう。
俺は肩を竦める。
「ああ。そんな無価値なものに興味はない。どうぞ、好きにしてくれ」
はっきりと言い切る。
「無価値、ですって……!」
「兄上……何を……!」
二人の顔が驚愕と怒りに染まる。
俺は、冷めた目で見返した。
「むしろ、そんな地位なんて邪魔だ。感謝してるよ。くだらない荷物を下ろさせてくれてな」
シリウスが机を叩き、立ち上がりかける。
「無能な兄のくせに、そんな戯言を……!」
その時、父親のレッドが、静かに、だが決定的な口調で言う。
「分かった。婚約破棄の件は、私が話を通す。ただし――お前の悪評を防ぐことはしない。そのつもりでいろ」
俺は小さく頷いた。
「ああ、問題ない。感謝する」
それだけ言って、食事を最後まで平らげる。
クラリッサもシリウスも、明らかに怒りと動揺で顔を歪めたままだ。
俺が椅子を引いて立ち上がると、二人の視線が背中に突き刺さる。
食堂の扉を静かに閉め、廊下へと出る。
背後で、誰かが「無能のくせに……」と呟く声が微かに聞こえたが、俺はもう振り返ることもなかった。
食事を終え、ようやく重苦しい食堂を抜け出せた俺は、脱力した体で廊下を歩く。
もう夜も遅い。
今日もいろいろあって疲れたので、風呂に入って早く寝よう。
そう思い早めに風呂に入って上がって、寝間着に着替えた。
着心地は最高だな、さすが伯爵家が用意する服だ。
こういうときくらいは楽に歩きたい。
自分の部屋に戻ったらさっさと寝てやろうと、そんなことしか考えていなかった。
廊下の壁には、古い家系の肖像画が並んでいる。
自分の顔は一つもない。
――まあ、べつに欲しいとも思わない。
部屋までもうすぐというところで、前方に人影が現れた。
金髪の男――シリウスだ。
夜中だというのに、普段着ではなく、何やら訓練用の服を着ている。
腰には、見覚えのある細身の杖。
たしか、魔術の補助に使うやつだったはずだ。
「夜中に何してるんだか」
俺は小さくそう呟いて軽く首を傾げながら、そのまま素通りしようとした。
だが、シリウスが廊下のど真ん中に立ちふさがり、俺を見据えてきた。
「待てよ、兄さん」
低く、険のある声。
俺は足を止めて、シリウスを見やる。
「……なんだ。眠いんだけど」
正直、もう何もかも面倒くさい。
今日は家族の前でいちいち嫌味を言われたばかりだし、今さらこいつの相手なんてする気も起きない。
シリウスは、俺の言い草がまた鼻についたのか、顔を歪めて睨みつけてきた。
「……無能な兄さんのくせに、生意気なんだよ!」
次の瞬間、魔力の籠もった拳を振り上げて殴りかかってきた。
正直、あからさまな動きすぎて、スローモーションにすら感じる。
俺はただ手のひらを出して、彼の拳を受け止めた。
どっ――。
勢いだけは良かったが、簡単に勢いが止まる。
「なっ……」
シリウスが驚愕の顔で固まる。
訓練服の袖が軽く揺れている。
――思ったより強かったが、根本的に弱い。
「……もういいか。俺、眠いんだけど」
あくび混じりにそう言って、シリウスの拳を軽くどける。
余裕ぶった態度が、シリウスの神経を逆撫でしたらしい。
顔を赤くし、歯を食いしばる。
「ふざけるな……! 特訓に付き合えよ、兄さん。いつも通り、ただ的になってくれればいい」
その目は、完全に下に見ている者に向けるものだ。
――ああ、変わってないな。
兄さんと呼びつつ、心の底では見下しきっている。
まあ、今さらどうでもいい。
「面倒だから、明日にしてくれ」
俺はあくびをしながら、横を通り過ぎようとする。
だが、シリウスは執念深く俺の行く手を遮った。
「無能なクズ兄さんが、僕の命令に逆らうなよ!」
怒号とともに、腰の杖を抜く。
その動きは、これまでの彼にはなかったキレと迫力があった。
杖の先端が微かに光る。
「岩よ、我が敵を砕け! ――グラヴィト・バルク!」
詠唱の声が廊下に響く。
空気が振動した。
シリウスの杖から、巨大な岩塊が生み出され、俺に向かって飛んでくる。
サイズは、俺の身長を優に超えている。
これ、さすがに廊下で撃つ威力じゃない。
しかも、見た感じ第三階梯の魔術が杖で強化されて、ほぼ第四階梯級だ。
ここ二週間で第二階梯や第三階梯は学園の授業で見てきたが、その威力を超えている。
――寝間着が汚れるだろうが。
俺はため息をついて、星流の巧星を使う。
身体に流れる力を指先に集中し、流れを反転させる。
魔力の動きを読み取って、力の方向を逆流させる。
飛んできた大岩が、俺の指先に当たって、反転し――。
バシュッ、と乾いた音を立てて、シリウスのほうへ向きを変える。
「えっ……なっ、どうやって――!」
シリウスが焦ったように叫ぶ。
杖を構え直し、何か防御しようと詠唱を始めるが、明らかに間に合っていない。
「ぶへっ!?」
変な声とともに、シリウスの体が廊下の端まで吹き飛ばされた。
広い廊下だが、さすがにあの威力じゃ――。
石壁の一部が崩れ、外壁までも一緒に吹き飛んだ。
夜風が廊下を駆け抜ける。
「……あーあ」
面倒なことをしたな、弟よ。
破壊音が屋敷中に響き渡った。
ほどなくして、複数の足音が近づいてくる。
メイドたちが駆け寄り、気絶して血を流しているシリウスを取り囲んだ。
「シリウス様! お怪我が……!」
「だ、誰か医師を呼んでください!」
騒然とする中、一人の男が歩いてきた。
ガタイのいい執事長だ。
彼が俺の前に立ち、静かに頭を下げる。
「シキ様、こちらは……?」
真面目に聞いているが、目は完全に「あなたがやりましたね」と訴えていた。
俺は肩を竦めて、壁に空いた大穴をちらと見る。
「さあな。シリウスが魔術を暴走させたんじゃないか」
「ですが……これは……」
納得していない様子だが、証拠はどこにもない。
「誰も見てない。俺がやったという証拠もない。これでいいだろ?」
静かにそう言うと、執事長は一拍置いて、
「……承知いたしました」
とだけ答えた。
「俺は寝る。あとは任せた」
俺が言い残すと、執事長は「かしこまりました。おやすみなさいませ」と丁重に一礼する。
廊下の角を曲がるとき、後ろからクラリッサの悲鳴が聞こえた。
「シリウス!? シリウスちゃん! いやぁ……!」
――相変わらずうるさいな。
俺はまったく気にせず、静かに自室へ向かった。
扉を閉めて、ベッドに倒れこむ。
ふう、と息を吐く。
今日は、妙に疲れた。
だが、これでもう家族の顔色を窺う必要もない。
悪評がどうだろうが、当主の座がどうだろうが、俺には知ったことじゃない。
……明日から、またややこしいことになりそうだな。
そう思いながら、俺はゆっくりと瞼を閉じた。
どこか遠くで、誰かが騒いでいる声がしたが――。
そんなことより、今は少しでも眠りたかった。
(本当に、この家は……騒がしい)
俺は、眠気に身を委ねた。




