風の音、彼女の声 お題:彼女と熱帯魚 必須要素:TOEIC
風を捕まえたいなんて本気で思っていた。
雲は空に浮かべるのに人はその上に立つことができないと知ったのは小学校に入った頃だったか。
当時は今の高層マンションと違う雑居アパートに住んでいて、親も近所の人と仲良くしていた。
ぼくも幼い容貌で愛想を振りまいて、近隣の人に自然と笑顔で接してもらっていた。
でも、そういう子供なりのいわゆる世間渡りの術がまったく通じない人がいた。
難しい名字をしていて、轟という漢字の読み方を初めて知ったのは彼女の表札からだった。
彼女は隣の部屋に住んでいて、おばさんたちの話からすると大学生ということだった。
ある日、そこのドアが空いている日があって、ぼくは好奇心に釣られて無許可で黙って侵入したことがあった。
一人暮らしの女性の部屋。
ぼくは驚愕した。
部屋の四方を取り囲む水槽の数々。
天井から色とりどりのライトに照らされて、水中では小さな魚たちが輝かしい光彩を放ちながらちろちろと泳いでいる。
さらに嗅いだこともないかぐわしいお香の匂い。
まるで水族館のような景色を目にして、ぼくはすっかり舞い上がってしまった。
それは当時、ろくなセンスも持ち合わせていない両親のレイアウトした家の景色と別世界のように違っていた。
部屋の中央にあるテーブルの上には、乱雑した筆記用具と参考書が置いてある。
そのころにはTOEICなんて縁もなく、意味すらも理解できなかったものだ。
そんな時、轟京子さんと出くわした。
「なにしてるの?」
彼女はさして驚きもせずに悠然とした態度でそう聞いてきた。
ぼくが子供だったからだろう。
半時間ばかりも水槽に夢中になっていると、ぼくと彼女は自然と仲良く話すようになっていた。
彼女はどんな大人とも違った。
ぼくが風を捕まえたい話をすると、彼女はそれが当然できることであるかのようにうなずいてくれた。
それどころか
「私は風をつかまえたことがあるよ」
そんなことを言い出した。
一か月もしたころ、ぼくは彼女が大学生というのはうそだと知った。
彼女はまもなく退去して、その去り際に教えてくれた。
「風はつかまえられるんだよ、本当に」
ぼくは、そのことを今でもわすれない。




