吹雪の子守唄
……日が暮れました 鐘がなりました
真白の夜がふかまりました みながみな わたしに抱かれて眠っています
だからあなたもお眠りなさい 悲しい事は全てわすれて 過ぎてしまった 夢を孕んで
おやすみなさい おやすみなさい 坊や わたしの冷たい腕に抱かれて……
校庭を玲瓏と渡ってゆく、美しくも物哀しい魔衣の歌。
巨龍も、相対する夜見の衆も、この場に会した一同すべてが、瞬間、争いを忘れて彼女の歌声に聞き入った。
だが……
「決闘の場に歌などと……!えい鬱陶しい!」
棲舞愚が、吼えた。
いちはやく我に返った巨龍は屋上を仰ぐと、深緑の翼をばさりと羽ばたかせた。
「うわぁ!」
棲舞愚を銛で繋いだ天幻寺の体が、龍に引きづられて、宙に浮いた。
ばさり。ばさり。巻き起るつむじ風に乗って、巨龍が校庭から、飛びたったのだ。
「いかん!魔衣殿!」
地上の電磁郎が狼狽して、巨龍を見上げる。
裂けた口から炎を漏らして、龍の目指す先は屋上の魔衣。
猛火の戦場にそぐわぬ歌声の元を、棲舞愚は先ず一番に断たんとしているのだ。
「消してくれる、その不愉快な音を!」
浮揚した龍の三日月のような眼が、残忍に煌いた。だが……
びゅうう。
突如、巨龍の翼を、酷寒の風が叩いた。
「なんだとぉ!」
愕然の棲舞愚。瞬く間に巨龍の視界を、白い闇が覆った。
なんの前触れも無かった。突如襲いかかって来た雪が、風が、傲然たる猛吹雪が、巨龍の体を押し戻し、校庭に叩きつけたのだ。
「うおぉ!」
巻きこまれた天幻寺、やむなく両脇の銛を手放すと、龍の巨体をかわして校庭に転がった。
「吹雪、まずい!」
棲舞愚の眼に、はじめて狼狽と恐怖の色が浮んだ。
劫火にも雷撃にもびくともしなかった巨龍の体にも、一つの弱点があった。
それは『寒さ』だ。叩きつける雪と氷が、この巨大な冷血動物の体から行動の自由を奪い、前足を、後足を、見る見るうちに凍らせてゆく。
「いったい……何が……?」
エナは、目の前で起きている事が理解できなかった。
飛びたった巨龍の体が、いきなり見えない風に阻まれたかのように勝手に校庭に押し戻されると、これまた見えない網に捕われたかの様に、苦しげに地面で悶えているのだ。
エナにも、電磁郎にも、棲舞愚を包み捕えたものが何なのか、まるでわからないのだ。
「おお魔衣……術を用いたか!」
獄閻斎が屋上の美教師を見上げて感嘆の声を漏らした。
これが、魔衣の秘術、『月光唱歌』だった。
これと定めた獲物を、妙なる歌声によって覚めてみる夢の世界に誘う幻惑の技だ。
だが見ろ。苦悶に呻く巨龍の手足を覆っていく白色の霜を。龍の体を蝕み凍らす氷は、もはや幻ではない。
「あ……!」
エナが驚嘆の声。
今やエナにも電磁郎にも、棲舞愚の体が冷たい死氷に覆われていく様が、その目にはっきりと見えるのだ。
聖痕現象と呼ばれる現象がある。
深い信仰心を持った宗教者の掌や脇腹に、特別な日に自然と生じる切傷や刺傷。
これは、信仰の対象と深く一体化した宗教者の強烈な自己暗示が、現実の肉体にも影響を及ぼす『プラシーボ効果』によって生じる現象だと言われている。
棲舞愚を蝕む氷も、これと同じものだった。
龍の見た生々しい吹雪の悪夢が、現実の棲舞愚自身の肉体を縛り、凍らせたのだ。
だが何故だ。同じ幻惑の歌を聞きながらも、校庭に立つ獄閻斎やエナ、電磁郎の眼には、雪も、風も、まるで見えない。
なぜ魔衣の歌声は、巨龍の眼前にのみ恐ろしい猛吹雪をあらしめたのか。
その秘密は、『可聴域』にあった。
犬や猫は、人間には聞く事の出来ない高周波を鋭敏に聞き分ける。蝙蝠は口から発した人には聞こえない超音波の反響から周囲の物体を感知する。
人間と龍も当然、聴覚可能な周波数は異なっているはずだ。
魔衣は、人間の耳には感知できない、龍の鋭敏な耳だけが聞き取れる高周波領域に、幻惑の技を忍ばせたのだ。
まさに、死を呼ぶセイレーン。夜見の衆の歌姫。昏き魔衣、必殺の子守唄であった。
「ぐがあぁぁあ!」
断末魔の棲舞愚が、苦悶に吼えた。




