霧が来る
「あ゛ー、眠みー、だりー、宿題やってねー」
月曜の朝。
いつも通り、遅刻ギリギリで家を飛び出した時城コータは、げっそりした顔で聖痕十文字学園に向かっていた。
母親は、この一ヵ月はロシアに出張中。離れて住んでいる姉のミキは、たまに片付けとコータの『監視』にやってくるが、今週は彼氏と旅行らしい。
つ・ま・り、今はコータのやりたい放題。時城家は、まさに彼の城だった。
昨日も、せめて数学の宿題だけは終わらせようと思ったのに、その前に10分だけと思ってゲームに手を伸ばしたら、はいおしまい。
FPS『ゴッド・オブ・アウト』で5時間は撃ちまくり続けて、ベッドで気が付いたら朝だった。
「うう……まずい……」
眉をしかめてひとりごちるコータ。この間も担任の昏樹魔衣にさんざん絞られたばかりなのだ。
「今日もエナ様にお願いするか……琉詩葉もいないし、大丈夫だろ!」
幼馴染のエナに頼る気まんまんのコータ、そういえば……
トラブルメーカーの琉詩葉が、この三日間学校に来ていない。
コータの災いの種。やることなすこと全て迷惑。そんな琉詩葉も、いなくなってみると何だか拍子抜けだ。
最近、休みがちだよな?
首をかしげながらグダグダなテンションで通学路を急ぐコータだったが、今朝は周りの様子が変だった。
普段ならば生徒の集団と教員の姿でにぎわう朝のこの時間に、通学路を歩いているのはコータだけなのだ。
「あれ……今日って休み……祝日?」
辺りを見回しながら駆け足で歩いて行くコータの背中に、
「コータくん、何してるのよここで?」
聞き覚えのある声。
振り向けば、立っているのはクラスメートで、幼馴染でもある炎浄院エナだった。
どうしたというのだろう、エナの細い体がワナワナ震えている。コータは彼女が肩にかけている細長い袋が気になった。キルト地……バトンケース?こいつ、吹奏楽部じゃなかったっけ?
「エナ、どしたんだよ、お前も遅刻するぞ」
コータは不審に思ってエナに声をかけた。
「どうしたって……学校のお知らせ、見てないの?校舎に危険な破損が見つかったから、今日は休校って……」
「お……お知らせ……」
コータの顔がポカーン。んなもん、見ちゃいない。
「そ……そんな事より!」
切羽詰まったエナの表情。コータは驚いた。
エナが、いきなりコータの手をとって坂道を走りだしたのだ。
「ちょっと待ってくれ、どーしたんだよエナ!」
「ここにいたらだめ!『あいつら』が来る!」
走りながら背中を振り向いたコータは、迫りくる異様に息を飲んだ、
「なんだ……あれ?」
坂道を舐めて、街灯を飲みこんで、二人の背後に迫ってくるのは、まるでそれ自体が生きているかのようにうねり、這い寄ってくる乳白色。
霧だ。霧が来る。
自宅を出た時は雲ひとつない冬晴れの朝だったのに。聖ヶ丘の山腹を見る見るうちに覆い尽くして行く、白い影。
うおおん。うおおん。
霧の中から何か聞こえる。
どすん。どすん。
地面が揺れる。何かの足音。霧の中からコータの背丈の何倍にもなる巨大な影が、二人を追いかけて来るのだ。
「どうして、いったい何が……!」
「コータくん!はやく、もうすぐだから!」
聖痕十文字学園に続く聖ヶ丘の登り坂を、エナとコータは必死の表情で駆け上がっていく。
ずるん。びしり。
突如、霧の中から飛び出してきた何かが、エナとコータの背中を横払いに薙いだ。
「きゃあ!」「うわあ!」
悲鳴を上げて道路に転がる二人。
「あつつ……」
どうにか起き上がって後ろを振り向いたコータは、我が目を疑った。
霧の中から二人を払ったのは、ベタつく粘液を滴らせた、まるで蛸のそれの様なひと振りの触肢。
どすん。どすん。影が、その姿を現した。
「ぐじゅあ~~~!」
吼え狂う『それ』の身長はコータの優に三倍、5メートルはあるだろうか。一見すると朽ちた巨木の幹のようにも見えた。
だが三本の山羊の蹄の様な図太い脚に支えられたヌラヌラの粘液に覆われたゴツゴツとした樹肌の胴体からは、何十本もの粘つく触手が天に向かって生え茂り、蠢いている。
胴体には涎を垂らした巨大な口が幾つも開き、意味の判別できない異境の言葉をのべつまくなしに喚き散らしていた。
それは一体だけではなかった。霧のむこうから、更に二体目、三体目……
おぞましい異形の怪物が、頭部の触手を振り回しながら、道路に立ちすくむコータと尻もちをついたエナに迫ってくる!
「まずい、エナ!下がってろ!」
コータがエナの前に出て、そう言った。
そして、道路に身を屈めてアスファルトに掌を付けるなり、敢然とこう叫んだ。
「時城流土遁の術、『子取り沼』!」
ぼちゃん。とたん、怪物達の踏みだした図太い蹄が、道路に、めり込んだ。
「あ、あれは!」
エナが目を見張る。
これはいかなることか、怪物達の周囲の地面だけが泥沼の如く液状化し、波打ちながら、おぞましい蹄の前進を妨げている。
「ぐじゅあ~~~!」
怪物達は、悲鳴を上げながら底なし沼と化した道路に飲み込まれ、沈んで行く。
「エナ、いまだ、逃げるぞ!」
コータがエナを向いて言った。
これが、コータの『秘術』だった。その手に触れた鉱物の組成、形質を自在に変容させて敵を封じる土遁の術。
遁術とは言え、人間相手の立ち合いでは、危険すぎておいそれと用いることはできない恐怖の技だ。
「コータくん……」
エナが、うっとりとした顔で、霧に曇った眼鏡越しにコータを見上げた。
だが、その時。
びゅるりんっ!
コータの体に、何かが巻き付いた。
「うおお!」
狼狽するコータ。巻きついているのは、先程の怪物のそれの、更に何倍もの太さの巨大な蛸足。
コータの体が、宙に浮いた。
「コータくん!」
悲鳴を上げるエナ。信じられない、エナは蛸足の伸びてきた先を見た。空だ。
霧に隠れてその先は分からないが、二人の遥か数十メートルの頭上のから伸びてきた蛸足が、コータを空にさらっていく。
「エナ!はやく逃げろー!」
眼下のエナにそう叫ぶコータ。乳白色の霧が、コータの口を覆う。息が苦しい、意識が……薄れて行く。だが……
「エナ……」
薄れて行く意識の中で、コータが最後に見たのは、眼鏡をはずして髪留めを取った、怒りに燃えるエナの貌。
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「よくもコータくんを……こいつら、許さない!」
立ちあがったエナが、怒りの焔を瞳に灯して叫んだ。
「風よおぉぉぉぉ!!」
びゅうううううううう。
湿った風が、エナの周りを逆巻いた。




