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後編

登場人物紹介


 太朗 ……主人公、男、普通、青年。

 白  ……女、声が出ない。

 ヒメ ……女、ワガガマ。

 あねご……女、気性が荒い。

 ハカセ……メガネ、知識豊富。

 熊  ……デブ、マッチョ、毛深い。


「ま、眩しい……」


 窓際に横になっていたらしく、

 朝日に優しく撫でられてぼくは目を覚ました。

 しぱしぱする目をこすりながら立ち上がると、

 ハカセさんがぐっすりと寝ていて、

 女性陣の姿は見当たらない。


 まずは用を足してこよう。

 そっとリビングのドアを開けると、

 ふんわりとした匂いが鼻をくすぐる。


「これは、ごはんだ!」


 思わずぼくは、その懐かしさに走り出した。

 一体誰が作っているのだろう? 

 そっとキッチンを開けると、白ちゃんとヒメの姿があった。


「おはよう」


 手を挙げて挨拶すると虚しくも返事は返ってこなかった。

 白ちゃんは喋れない。

 ヒメとはあれっきりぎこちない関係。

 無視されたからって泣かないもん。

 どうせ話しかけても相手にされないので、

 ぼくは片隅で見守ることにした。


 IH台は全部で4つ。2つ使用しており、

 1つはごはんの白い煙が鍋から昇っている。

 もう1つは中ぐらいの鍋で、

 昆布が1枚と頭なしの煮干しが数匹浮いていた。

 白ちゃんはおぼつかない手つきで、

 まな板上の豆腐に包丁を入れる。


「そろそろ火、止めていいんじゃない?」


 以前キッチンに置きっ放しのレシピファイルを眺めながら、

 ヒメは白ちゃんに命令する。 

 傍から見れば、あごでこき使ってるのと一緒だ。

 すると白ちゃんが左手から包丁を放し、

 ごはん鍋のスイッチをオフにする。

 そしてヒメに強く目力を送った。


「次は昆布と煮干しを取って、かつお節を入れる……」


 どうやらみそ汁を作っているらしい。

 今はダシの段階。

 鼻を鳴らすと、磯の香りがして口から自然と唾液が溢れてきた。


「ごはんとみそ汁だけって味気ないね。

 おかず何か作ろっか?」


 ペラペラと流すようにヒメがレシピファイルをめくっていると、

 白ちゃんが戸棚の下からゴソゴソと長方形の箱を出してきた。

 そ、それって!


「カレーはダメ! あたしカレー大っ嫌いなんだから。

 あのカビが腐敗したような悪臭とドロドロの食感。

 想像しただけでも舌が焦げる!」


 レシピファイルを放り投げて、

 自分で自分を抱きしめるような仕草をして、ブルブルと震える。

 首を傾げながら白ちゃんは、ぼくのほうを向く。


「右に同じく。

 理由はわからないけど、カレーと耳にするだけで、

 全身の筋肉が拒絶反応を起こすんだよ」


「人のマネしないでよ!」


 震えを怒りに変貌させ、ヒメがぼくに突っかかってきた。


「同じ物が嫌いなら、ここは同盟を結ぶべきだって」


「ふん! 誰があんたなんかと!」


 カチンときた。

「なんだと、このワガママヒメ! 

 世の中、お前が中心で回ってんじゃないんだぞ! 

 少しは白ちゃんの手伝いをしろよ」


「そっちだってボケーッと鼻の下伸ばしてたくせに。

 このエロエロ魔人!」


 火花を焦がしているぼくたちを尻目に、

 白ちゃんが箱を開けて袋を裂いて、

 カレールーのブロックを沸騰ふっとうした鍋に放り込もうとしている。


「ちょっと待ったあぁ!」


 慌てふためきながら、ヒメがカレールーを分捕ぶんどり、

 戸棚の下の小さなドアを開けて乱暴にぶん投げた。


「カレーはアウト、カレーはアウト! 

 食べたければあたしの知らないところで食べて」


 一瞬の出来事に白ちゃんはコクリと頷く術しかなかった。

 ナイス、これだけは高評価してやる。


「おっ、やってるやってる。

 どうだい? 出出来栄えは」


 ふふふーんと鼻歌を弾ませて、上機嫌なあねごさんがキッチンに現れた。


「こっちはごはんだな、どれどれ?」


 徐に釜を開けようとするとヒメが、


「ダメだって。

 今出来上がってばかりで、蒸らしてる途中なんだから」


「そっか。

 でも自炊って我ながらグットアイディアじゃん。

 あたしってサイコー」


 ギュッと拳を作り自分自身を褒めるあねごさん。

 ちょっと違和感が。気のせいか。


「昨晩、米を研いで吸水してくれたのはあねごだし、

 でもこの量って6人分にしては少なくない?」


「足りなくなったらパンで調整すれば済むだろ。

 デブだったら、その辺に生えている草とか食わせておけばいいんだよ」


 相変わらず熊さんに対しては毒を吐き止まなかった。


「あたしたち、さっきまでおかずどうしよっか相談してたの」


「缶詰で済むだろ。

 なんならみそ汁ぶっかけて、ねこまんまってのもアリだな」


「缶詰かぁ。

 でも白ちゃんがみそ汁作る予定のお鍋にカレールー入れようとして」


「それもアリだな」


 あごに手を添えてニヤリと笑う。

 何でもありなのか、あねごさんって。


「腹減ったし、ぱぱぱっとみそ汁作ってメシにしよーぜ。

 ヒメとあたしで缶詰とごはん装うから、

 白はみそ汁で太朗はテーブル拭いといてくれ」





 ぼくがリビングのテーブルを拭き終えると、

 あねごさんが缶詰を山のように抱えてきた。

 ざっと見て20個はある。


「そんなに必要ですか?」


「1人だけ食うやつがいるだろ」


「熊さんですね」


 するとあねごさんはテーブルの上にあった眼鏡に気づく。


「まだ寝てんのか、あのメガネ」


 ご機嫌だったあねごさんの頭から、にょきっと2本角が生える。


「ぼくが起こしますよ」


 ハカセさんは毛布を腹に敷いて、

 口を開けてまま仰向けで寝ている。

 さすがに起こすのに気が引けるが、

 あねごさんがやると死と結びかねないので率先そっせんしたのだ。

 取りあえず、声をかけずに体をさすってみる。


「うー、うー」


 寝苦しそうにうな垂れるハカセさん。

 どんな夢を見ているのだろう? 


「ハカセさん、起きてください」


 第2ラウンド。

 呼びかけることに。


「ん? ふわぁぁぁぁぁ」


 カバのように大きく口を開けて上半身だけ体を起こした。


「なんだ太朗くんか」


 その声には不満の成分が半分ほど含まれている。


「期待に添えなくて悪かったですね」


「すまない、ところで僕の眼鏡、眼鏡」


「はいどうぞ」


 テーブルから奪ってきた眼鏡をハカセさんに渡した。


「ありがとう。そういえばいい香りがするね」


 ちょうどそのタイミングでヒメと白ちゃんが銀のトレーに乗せて、

 ごはんとみそ汁を運んできた。

 テーブルに並べる。

 懐かしい日本の食卓だ。


「よし、準備完了だな。食うか」


 あねごさんが椅子に座って箸を持つ。


「熊さんの姿が見当たりませんね」


 目覚めたばかりのハカセさんが、キョロキョロと見渡した。


「変ですね。匂いに釣られて来るはずなんですけど」


 昨日みんなで冷やかしたからスネているのだろうか?


「ぼくが探してきましょう。

 ちょうどトイレに行きたかったので」


「お供しますよ」


 尿意のことがすっぽり忘れていた。





 用を済ませたハカセさんとぼくは中央間に戻る。


「まずは1階から潰していこう。

 太朗くんは書斎を。

 僕はあの2つの部屋を巡回していくから」


「はい」と返事して書斎のドアノブに手を。

 昨日まで遺体があった部屋に、熊さんがいるわけがない。

 そーっとドアの隙間から覗く。

 中は厚いカーテンで光を遮っているため、

 夜と勘違いするほどに暗かった。

 熊さんと思しき人影もなく静かにドアを閉めることにした。


「こっちにはいませんよ」


 振り向くと、

 ちょうどハカセさんがぼくが最初に倒れていた部屋から出てきた。


「僕は隣の部屋を見るから、

 太朗くんは2階へ回ってくれないか?」


 素直に返事をして中央階段を駆け上る。

 2階の部屋は全部で6つ。

 真ん中を挟んで3つずつ別れている。

 うろ覚えだが、確か6つとも同じだったはず。


「熊さーん、どこですか?」


 まずは呼びかける。

 だが返事は返ってこない。

 どうしよう? 

 ヤマカンで左に回り端から順番に調べることに。


 1番左端の部屋。

 「熊さーん」

 呼びかけて、コンコンと軽く裏拳ノック。

 返事はない。

 ドアノブを握る。


 「えっ?」

 さほど力を入れてないのにポロッと折れた。

 その反動でギギギギとドアが手前に迫ってくる。

 左半身だけ中に入ると、

 ベッドに毛布の山が出来ている。


「熊さん、朝ですよ」


 反応はない。

 部屋に入ると熊さんは仰向けになって目を閉じている。


「朝食の準備できましたから、起きてくださいよ」


 優しく肩をさする。

 冷たい。まさか!


「熊さん? 熊さん!」


 必死に体を揺らしても応答がない。

 ふと自分の手を見る。

 べったりと赤く染まっていた。

 「えっ?」

 一瞬状況が読み取れない。


「なんで……」

 熊さんを見る。

 腹部に1カ所だけ尖っていた。

 恐る恐る毛布をはぎ取った。

 首から下は紅一色でお腹には包丁が。


「うわあああああああ!」


 尻餅をついたまま後退り。

 ドアにしがみついて大声で、


「誰か! 誰か!」


 もうわからない。

 心臓がバクバクと激しく脈打って、

 口の中の唾液は枯渇し、

 喉はカラカラ。


「太朗くん!」


 ゆっくりと中央階段を上ってきたハカセさんの足が急に速くなった。


「何かあったのかね?」


「熊さんが、熊さんが」


 ぼくは血だらけの指で夢中に部屋を指した。

 ゴクンと息を呑んだハカセさんは、

 ゆっくりと入っていく。

 熊さんの手首を掴んで、


「脈がない、死んでいる」

 静かに下ろした。


「落ち着いて太朗くん。立てるかい?」


 ぼくの両肩を優しく包んだハカセさんは、

 「せーの」の合図で持ち上げる。

 すらっと立ち上がったぼくは、

 ビルとビルの間を綱渡りするように、

 足がガクガクと震え続けていた。


「その足では歩けなさそうだから、

 僕がみんなを呼んでくるよ。

 もし異常があったら叫ぶか、何かを叩いて知らせてくれ」


 ハカセさんがみんなを連れてくるのには5分もかからなかった。


「ひでえな、これ」


 瞳孔を大きく広げながらあねごさんは、

 前屈みになり血だらけの熊さんを覗いている。

 その横ではヒメがあねごさんの服を握りながら目をそらしていた。


 一方白ちゃんは、ぼくの左腕しがみついてちらりと見ているようす。

 またひとつ幼い少女の胸にトラウマが刻み込まれた。


「こりゃ、あたしたちの責任だな。

 デブを孤立させて自殺に追い込んじまったから」


 ポリポリとあねごさんが言った。


「果たして、

 自殺と言い切っていかがなものでしょうか?」


 しゃがんでじっと観察していたハカセさんが、

 細い目つきであねごさんを見上げる。


「お前何ほざいてんだ? 

 こいつ自分で自分の腹刺したんだぞ」


「外傷がもう1つあるんですよ、

 ここ注目してください」


 ハカセさんが差した箇所は左首の辺り。

 そこには鋭利えいりな刃物で裂かれたような傷が、

 一直線に耳の下まで達していた。


「何者かによって頸動脈が切られているのです。

 これがおそらく致命傷でしょう。

 腹に刺されている包丁はダミー、

 つまりあとから刺したものになります」


「なんでわかるの?」


 あねごさんの影からひょこっとヒメが首を伸ばしてきた。


「理由は簡単ですよ。

 あねごさんが見た目で判断したみたいに、

 我々に自殺と認識させるためです」


「他殺かあ……」


 あねごさんは呟きながら、左首の傷をじっと見ている。


「左首に傷があるってことは、犯人は左利きじゃねえの? 

 だってほら、後ろから右手で口を塞いで、

 左手の包丁でズバッて」


「名推理ですね。

 ではこの中に左利きのかたはいらっしゃいますか?」


 すると1本だけ白い手が伸びた。


「し、白ちゃんが……」

 ヒメはビクンと両肩を挙げる。


「まさかお前が……」

 あねごさんが更に追い打ちをかける。


「ちょっと待ってくださいよ、

 たまたま白ちゃんが左利きってだけで、

 犯人扱いするのはおかしいですって」


 咄嗟とっさにぼくは、

 白ちゃんとあねごさんの間に入って壁を作った。


「あたしの推理聞いてなかったのか?」


「じっくり聞いてましたよ。

 そもそも、白ちゃんに熊さんを殺害する動機が見当たりません。

 あねごさんじゃあるまいし……」


「何だと!」


 自分が容疑にかけられたことに腹を立てて、

 ぼくの胸ぐらを両手で握ってきた。

 く、苦しい。誰かフォローして。


「いいか? もういっぺん言ってやる。

 白が背後にまわってデブの口を塞いで包丁で首筋を……

 ん? おかしいぞ」


 胸ぐらを掴んだ手が力を失い、

 徐々にほどけていく。

 ごほっ、ごほっと咳払いをしてぼくは床に正座をした。


「その方法だと明らかに身長が足りねぇ。

 それに白の手でデブの口を塞ぐことってできるのか?」


「もう1つありますよ。

 熊さんと白さんでは力の差がありすぎます。

 すぐに弾き飛ばすことだって可能でしょう」


 悠長にベッドに腰を据えていたハカセさんが付け加える。

 知ってたんだったら、早く助けてくださいよ。


「ってことは、白の容疑はシロってことになるな」


 この期を及んであねごさんはうまいことを言った。

 すると怯えていたヒメが立ち直って、


「熊さんが相手だったら、

 白ちゃんだけじゃなくあたしたち全員無理なんじゃないかな」


「そうでしょうね。

 あねごさんが考えた方法では熊さんを殺害するのは不可能でしょう。

 これを見てください」


 ハカセさんはベッドから立ち上がると、枕元を指した。

そこには大量の血が赤く染まっている。


「つまり熊さんは眠っている時に殺害されたと思われます。

 こうして熊さんにまたがって口を左手で塞ぐ。

 そして左首の頸動脈けいどうみゃくをひと突き。

 こんな感じでしょう」


「つまり右利きの犯行ってことだよね。

 やっぱり白ちゃんはシロなんだ」


 自分で言って自分で納得するヒメ。

 白ちゃんの下りはいらない。


「頸動脈を切ったってことは、

 犯人も大量に返り血を浴びじゃないのか?」


 あねごさんが口角を尖らせながらあごを指で掻いた。


「シーツとかで防御していた可能性はあります。

 多分どこかにあるはずですよ」


 廻りを見渡したハカセさんは、窓を開けて首を回す。

 ぼくたちは、ただその様子を傍観していた。

 どうやらなかったらしく今度はベッドの下に。


「お、ありましたね」


 ゴソゴソとでをかき回して取りだしたのは、

 宣言通り血染めの白いシーツだった。

 ベッドの下に隠すなんて、

 エロ本を隠す思春期の男子じゃないんだから。


「エロ本を隠す男子の定番ね」


 ヒメがクスクスと笑う。

 こいつと同意見かよ。


「デブのやつ、ちゃんと施錠せじょうしておけって念を押したのによ」


「そういえばこの部屋に入るときに、

 ドアノブ握ったらポロリって落ちましたよ」


 あねごさんが吐いたセリフに、頭の豆電球がピカッと光る。

 案の定、ドアノブの部分は、くりぬかれたように無数の穴が貫通していた。


「肝心のノブは?」


「ここに転がってました」


 記憶は曖昧だが、再度差し込んだような気がする。

 そして何らかの衝撃でポロッと落ちてしまったのだろう。

 ドアノブを拾ってじっくりと観察するハカセさん。

 ちなみに2階のドアノブは古いタイプらしく丸くて回すものだった。


「原理はわからないけど、ノコギリかなんかで抜かれてるね」


「別にノブなんかどうでもいいだろ」


「つまりこれは計画的犯行ってことになります。

 急所である頸動脈を切るなんて、一般の人では想定できません。

 酷い話になりますが、

 死体に切り込んだ複数の傷跡があるとしましょう。

 ストレートに考えれば、

 被害者へ『メッタ斬りにしてやる』ってことが考えられがちですが、

 急所がわからなくて、身体中を刺したってケースもあり得るんです」


「一体メガネは何が言いたいんだよ」


 長いハカセさんの説明に、

 あねごさんがマッチ棒のように目を細める。


「つまり……犯人はあねごさん、あなたです」


 ハカセさんがまっすぐに人差し指を、

 あねごさんの眉間みけんに突きつけた。


「はあ? 何であたしが犯人なんだよ!」


 あねごさんは牙と角をニョキニョキと生やし、

 指を骨折するくらいボキボキ鳴らす。


「あれれ? 違いましたか。

 じゃあヒメさんが犯人で」


 おいおい、当てずっぽかよ。


「ひどーい! 可愛いあたしが熊さんを殺して,

 何のメリットがあるのよ!」


 ヒメは鼻の穴を大きく膨らませ、

 ガッチリと腕を組んでいる。


「ハズレなの? じゃあ白さんで」


「……」


 白ちゃんは、あごを高く上げて雪女のような目つきでハカセさんを睨む。


「またまたハズレましたか。

 もう太朗くんでいいですよ!」


「結局、たらい回しじゃないですか!」


 喉の底からハカセさんに向けて怒鳴りつけた。


「途中までメガネの推理当てにしてたのに、

 デブの死因しいんって8人目の仕業か薬の発作じゃねーの? 

 バカバカしい。行こ行こ」


 冷たいまなざしを送り去って行く後ろを、

 ヒメが「べーだ」とアカンベーをして行く。

 するとピタッと停止したあねごさんは、


「そうそう、そのままじゃデブ可哀想だから外に並べておけよ。

 男どもで」


 それって、ぼくとハカセさんのふたりだけで熊さんを運べってこと?


「ふうー、仕方ありませんね。

 太朗くん、がんばりましょう」


「たまに思うんですけど、

 ハカセさんの行動っておかしいですよね。

 それにぼく腑に落ちないんです」


「僕が足を持つから、太朗くんは頭でお願いね」


「……人の話、聞いてますか?」


 結局ぼくたちは熊さんを運ぶのに3、40分くらいかかった。

 玄関からちょうど崖の外れ。

 名もなき死体のそばに並んで眠らせた。

 アンモニアの腐らせたような屍臭が漂っていたので、

 ブルーシートをかけてその場から離れた。


「お腹に刺さった包丁、

 抜いておいたほうがいいと思いますよ?」


 するとハカセさんが、


「僕たちは専門家ではないので、そのままにしておきましょう」


 朝食って気分ではないが、ぼくたち3人はリビングに戻ることに。

 一応白ちゃんも付いてきていたが、

 見てるだけで熊さんを運ぶのに協力はしてくれなかった。





「おかえり」


 ぼくたちを迎えてくれたのは、あねごさんの爽やか笑顔だった。


「いやあ、疲れた」


 まずは椅子に座る。

 テーブルの上には湯気のないごはんとみそ汁、

 それと未封の缶詰がずらり。

 どうやら箸をつけてないようだ。

 朝食どころじゃなかったからだろう。


「で、これからどーすんのよ?」


 ヒメの口がアヒルのように尖っていた。

 不安を隠すための攻撃的な態度だろうか。


「予定は変わりませんよ。

 この屋敷内をくまなく調べることです。

 8人目が存在する可能性がありますので」


 リビンクの空気はピリピリしている。

 のに対して、ハカセさんの口調はどことなく柔らかかった。


「そりゃそうだろうな。

 外部との連絡も取らねえといけねえし。メシにしようぜ」


 あねごさんは箸を掴んで「いただきます」と、ごはん茶碗を持つ。


「信じられない。熊さんが亡くなったあとでよく食べられるよね」


 ヒメは口を押さえながら、あねごさんをチラ見した。

 ぼくも同意。


「もったいねえだろ。

 あたしたち助けが来るまで、ここでしがみついてねえといけねえんだから。

 食料だって限りがあるんだよ」


 確かにあねごさんの意見もごもっとも。

 だが、その言葉だけでは食欲が湧かなかった。


「食べながらで構いませんので、聞いてください」


 ハカセさんがテーブルに右手を添えながら言った

 ガツガツ食べているのはあねごさんだけなんだが。


「屋敷内の捜索ですが二手に別れようと思います。

 なぜか、わかりますよね? 

 そのもしもに備えて、僕と太朗くんは別々になろうかと考えているのですが」


 筋が通っていた。

 もし8人目に遭遇したとき、熊さんみたいにムキムキの男だったら、

 ヒメや白ちゃんでは対抗は無理だろう。

 逆に人質になってしまう。


「それって力ずくで絡まれて時でしょう? 

 ハカセさんと太朗って両方役立たずじゃないですか?」


 うぐっ。生意気なヒメの愚痴がぼくの心臓に刺さる。


「まあ、そう言われると僕としての立場が……」

 ハカセさんも言葉を失っているようだ。


「だったら、女性と男性でチームわけしたほうが早いですって!」


 ヒメとはあまり関わりを持ちたくないので、

 個人的にはラッキーだった。

 男としてのプライドはないんだが。


「太朗くんとあねごさんはそれで構わないかい?」


 長く低い溜息を吐いたあと、ハカセさんは同意を求めてくる。


「はい」「いーよ」


 だが白ちゃんは首を横に振った。

 見るに見かねたあねごさんは、


「おい、なんで否定すんだよ。ひょっとして男なのか?」


 更に白ちゃんは首を左右に振った。


「じゃあ女だって証拠見せてみろよ」


 ぬわにいいいいいい! 大胆発言。

 ここで白ちゃんが脱ぐのか? 

 こ、これは社会勉強の一環として脳裏に収めて置かなければ。


「白ちゃんが可哀想でしょ。

 その辺でやめておきなよ。

 それにあたしら一緒にお風呂入ったの忘れたの?」


 最悪な展開。ヒメがブロックしてきた。


「ははは、冗談だよ。

 からかっただけ。

 なあ、あたしらと同行するよな?」


 あねごさんはフレンドリーに白ちゃんの肩に腕を絡ませて、

 ズリズリと頬ずりをしてきた。

 目を引きずったまま白ちゃんは頷く。

 ちょっぴり残念。


「どっかの誰かさんは、思いっきり期待していたんでしょうねー」


 あさっての方向を向いてヒメが間接的に突いてきた。

 ムダな口論はしたくないので、せき払いをしながら場を流すことにした。





 遅い朝食を終えたぼくたちは、二手に分離し捜索に入る。

 あねごさん、ヒメ、白ちゃんの女性グループは外。

 ぼくとハカセさんは屋敷内。


「どこから見回ります?」


 屋敷内捜査といっても、開かずの間は制覇してしまったし、

 調べる場所なんてないはずだった。


「んー、そうだねー」


 銀の鍵束を左手でくるくる回して遊ばせながら、ハカセさんは考え中。

 そんなぼくたちは中央間へ続く長い廊下を歩いていた。

 ガラス越しに見える青空は、波の消えた海のように澄んでいる。

 今日も暑くなりそうだ。

 下手したら午後に、にわか雨が降りそうな予感も拭えない。


「一通り巡回してみようか? 最終チェックも兼ねて」


「はい」素直に頷いた。

 この屋敷に来て3日目。

 いや、記憶がないだけで、それ以上にいたかもしてない。


 ぼくたちは足が棒になるくらい回った。

 各部屋、書斎、お風呂、トイレ、地下室。

 だがこれといって怪しい場所は見当たらない。

 本当に存在するのだろうか? 8人目は。


「これだけしらみ潰してたら、いないんじゃないんですか?」


 眉間にしわを寄せてハカセさんがうなる。


「あと一カ所だけ確認しておきたい場所があるんだ」


 ぼくたちが向かった先はキッチンだった。

 ここは出入りが激しいから調べる必要はないと思うのだが。

 ハカセさんの考えていることはさっぱり理解不能。

 ハカセさんがドアを開けて入っていく。

 ぼくはその背中に問いかけた。


「キッチンを調べるなんて、隠し扉の匂いでも嗅ぎつけたんですか?」


「違うよ。ここで目を通しておきたいことがあってね、

 食料の在庫を確認したいんだ」


「は?」一瞬、ぼくは喉の奥から甲高い声を出した。


「棚卸しってことだよ。

 あとどのくらい食料があるかって、誰も把握していないと思うんだ。

 下手したら、助けが来るまで僕たちは籠城ろうじょうしなくてはいけないからね。

 これは最重要課題だよ」


「ということは、何かメモが必要ですね。

 書斎に行って取ってきます」


「ひとりで大丈夫?」


「はい、その間に食料を出しておいてもらうと助かります」


「わかった」



 ひとっ走りして中央間に到着。

 脇見もくれずに書斎のドアを開ける。

 厚いカーテンに窓が覆われているせいで、

 昼間なのに中はどんより暗かった。


 さっきハカセさんと来たときは感じなかったが、

 改めてひとりで来ると、不気味さが2割ほど増してくる。

 カーテンを開けるのも釈なので、ぼくは壁際の照明スイッチをパチンと押す。

 もちろん誰もいなかった。

 確か机の上に便せんがあったはず。

 何十分くらいか前の記憶を掘り起こして机上を探る。


 あった、書くものはどこかに……。

 引き出しを上から順番に開けていくと3色ボールペンを発見。

 よし、目標達成。戻るとするか。

 引き出しを押そうとした瞬間、青いノートが目に止まる。


 何だろう? 興味半分で取りだして表紙をめくる。





『1月1日。今日から日記を書くことにした。

 研究に没頭する日々だが少しは気が紛れるだろう』





 日記だった。

 こういうものは鍵付きの引き出しに収めておくのが普通だが、

 ひょっとしたら何か手がかりになるかもしれない。

 人の日記を見るのは失礼なので、心の中で礼をしてページをめくる。

 一言、一言程度で目ぼしいことは書いてなかった。

 そんな中読み進めていくと、見覚えのある出来事に遭遇そうぐうする。





『6月8日、福永が私の書斎に尋ねてきた。

 地下室にある無線機が故障したらしい。

 随分古いタイプのものなので、

 処分してしまえと指示を出すと、地下室から銃声がとどろいた。

 案の定、福永が発砲して無線機に風穴を開けてしまった。

 困ったものだ。

 電話線も引きちぎるし、テレビも映りが悪いと言って叩いて壊してしまう。

 電話はケータイがある。

 テレビは見ないので困らない。

 いずれ修理に出すことにしよう。

 念を押して書斎のパソコンには触れさせてはいない。

 料理のレシピを作りたいからパソコンを貸してください、

 とせがまれたときは血が引いて行くかと思った』





 ……確か福永って、キッチンにあったレシピファイルの持ち主だ。

 男っぽい名前だから当てはまるとしたら、ぼくかハカセさんか熊さん。

 もしかしたらぼくたち以外の人かもしれない。

 それにしてもパソコンってあったか? 

 プリンターも見当たらないんだが。


 書斎を360度見渡すがそれらしき姿を捉えることができなかった。

 もしパソコンを見つけることができたら、

 ネットに繋げられて通信も連絡も可能だ。

 例え繋げられなくても、何らかの情報は蓄えられるはず。

 探して損はない。


 おっかしいなぁー、

 ハカセさんと一緒にくまなく探したはずなんだが。

 まさか、8人目が隠したのか? 

 それともどこかにボタンがあって、隠し扉が開いて。


 一番怪しかった机の下を覗いてみる。

 ここは確かハカセさんが調べたはずだ。

 赤い丸ボタンを発見。

 だが押した後らしく、中までめり込んでいた。

 床にはプラスチックのケースがある。

 手にとってボタンにはめてみると、見事にフィットした。

 きっとふたみたいな役目をしていたのだろう。


 じゃあパソコンはどこに。

 すると机の下の棚に白いタオルを被っている長方形の怪しい物体が。

 指でつまんで一気に剥がすと、

 ビンゴ! 黒いノートパソコン顔を出した。


 おーし、迷いなく机に置いて、

 くの字に開いてリンゴの形をした電源ボタンを押す。

 ウィィィィンと起動する音が。

 よし、壊れてないようだ。

 だが数秒後に悲劇は訪れた。


「パスワードを入力してくださいって、マジかよ」


 ケータイの時の二の足を踏んでしまった。

 もはや、ぼくにとってはただの箱と化してしまった。

 ……まだ日記の続きはあるようだ。

 でもハカセさんを待たせるのも悪いし後からにしよう。





「随分と長居してたようだね」


 キッチンに戻ってきたぼくに、ハカセさんは窮屈きゅうくつそうな声を上げる。


便箋びんせんとボールペンは見つけたんですけど、

 ちょっと寄り道しちゃって」


「隠し扉でも発見したのかい?」


「いいえ、ノートパソコンを見つけて。

 机の下にあったんですよ。

 結局、起動させてもパスワード承認しなくちゃいけないので水の泡でしたけど」


「そこは僕が調べてのに、パソコンなんてあったかな」


「早く始めましょうよ」


「じゃあ食料を1カ所に集めてくれるかな?」


 缶詰を抱えてハカセさんは、1つ1つ調理台に積み上げていく。

 まだ始まったばかりのようだ。

 ぼくも冷蔵庫から食料をかき集めて調理台へ。

 地味な作業が続く。


「結構あるもんだね、これで全部だよ」


 1時間くらいかかっただろうか、棚卸しは無事に終了した。


「どれ、見せて?」


 ハカセさんがメモを覗き込んで読み上げる。


「缶詰26個、お米が2袋と半、パスタ5束、

 ミネラルウォーターが2リットル3本……」


「でも、地下にも倉庫があるので、全部が全部ってわけでもないですよ」


 ピタリとハカセさんの口が止まる。

 なにかまずいことでも言ったかな? 


「太朗くん、1つ疑問が浮上したのだが、

 キッチンの食糧の減り具合ってどう感じるかな?」


「えっと、普通に消化されてると思いますよ。

 意識してませんけど、

 あねごさんと熊さんのツートップでガツガツ食べますけど、

 代わりにヒメと白ちゃんは小食ですから。

 アバウトですけど、1食6人分は消化されてますよ」


「同意見だね。ってことは?」


 さっぱりわからない。

 ハカセさんはぼくに何を求めているんだ?


「すみません、ちょっとピンとこないです」


「6人分しか食糧が消化されていないって、太朗くん言ったよね?

 ってことは?」


「わかりました。

 つまり8人目はいないってことですね」


「いや、あくまで仮想だから断定はできないよ。

 だからと言って安心することはまだ早いね」


 ゆっくりと目を閉じてうつむくハカセさん。

 言いたいことがなんとなく伝わってきた。


「8人目の存在が確認できないってことは、

 ぼくたちの中に熊さんを殺した犯人が潜んでいるってことに……」


「察しがついたようだね。

 どうも監視されている気配がなくて。

 書斎の男と熊さんを殺害した人物は同一ってこともありうる」


 ハカセさんの表情が険しくなってくる。

 でもここでもう1つの疑問がふわりと舞い上がった。


「熊さんは自殺の可能性ってないんですか? 

 ほら、ぼくたち記憶喪失の薬を打たれたんですよ。

 白ちゃん同様に何らかの副作用みたいなものが出て」


「僕が視てた結果としては自殺の可能性は低いね。

 腹部を刺した傷が一カ所しかないんだ。

 自殺の場合は、手首とかにためらい傷が複数発生する傾向が見られる。

 まあ脳に障害が起きて、ズバッと一差しってことも想定できる。

 そしたら頸動脈の傷は? という疑問になるね」


「だったら熊さんを殺した動機はどうなるんですか? 

 なんであの時、みんなのアリバイを聞かなかったですか?」


「落ち着いて太朗くん。

 本来の目的はここから脱出すること一点なんだから。

 実を言うとあの場をぼかしたのは下手に刺激を与えなかった為なんだ。

 今、犯人追求したってここから出られるとは限らない。

 気持ちはわかるよ」


 まるで空気の壁があるように、

 ハカセさんは、ぼくに両手で押し込むような仕草をする。


「すみません、興奮しちゃって」


 頭を下げることにした。

 それにしてもわからない。

 なぜハカセさんは、ぼくに話したのだろうか? 

 もう1つ気がかりな点があった。

 それはハカセさんが熊さんの亡骸なきがらを念入りに調べていたことだ。

 書斎の遺体を運ぶのには毛嫌いしていたはずなのに。

 状況が一変したからだろうか。

 このことを口にすることは止めておこう。


「あー、腹減った。

 なんだよ男どもはつまみ食いか。

 こっちが外回りしてきたのによ」


 蝶のようにふらふらとあねごさんが入ってきた。

 後ろにはお供のヒメと白ちゃんを引き連れて。


「もうそんな時間ですか?」


「ほら見ろよ」


 あねごさんがグイグイと親指を指す先には、

 キッチン同様円盤のアナログ時計が掛かっていた。

 時刻は12時を5分ほど通過したところ。

 ニアピンだ。


「くれぐれも内密に」


 ハカセさんが周囲を気にしながらそっと耳打ちをする。

 ぼくはコクリと声も出さずに頷いた。

 きっと熊さんが他殺を割合が高いってことだろう。


 もしも、今犯人はこの中にいるって真相追求に走ったら、

 もっとギクシャクすることになりかねない。

 いや、バラバラになって孤立しかねない。

 身を守るために殺し合いに発展する可能性もある。

 もしかしてその為に武器倉庫があるのか? 

 だったら施錠する意味がわからない。

 考えすぎだ。

 とにかく今は胸の内に秘めておこう。


「ここで何してたんだ?」


 音も立てずにスーッとあねごさんが寄ってきた。

 声は普通だが顔色が青白い。

 体調でも悪いのか?


「一通り見回りをして、やることなくなってしまったので、

 ハカセさんと一緒にキッチンの食糧チェックをしていたところです。

 それよりあねごさん顔色悪いですよ?」


「顔が悪いだって!」


「顔色って言ったんですよ。

 か・お・い・ろ。ちゃんと人の話を聞いてくださいよ」


「まあいいや、許してやる。

 頭がズキンズキンって痛いんだ。

 やっぱ炎天下の中、歩き回ってきたせいか。

 ったく普通逆だろ。

 男どもが外行くんじゃねえの? 外」


「お言葉を返すようですけど、

 ハカセさんとジャンケンをして、

 あねごさんが勝って選んですからね」


「そーだったかなあ。ハハハ」


 額の冷や汗を拭きながら照れ笑いをする。

 数時間前のことをふと思い出してみると、

 あねごさんの独断で外回りを決めてしまったので、

 ヒメと白ちゃんはしかめっ面だった。

 ちなみに10回勝負でハカセさんは6連敗。

 挙げ句の果てに強情ごうじょうでで、

 ぼくとタッチしてくれないからたちが悪すぎる。


「ご苦労さまです。

 お疲れのようなので、

 僕と太朗くんで昼食の準備をいたしましょう。

 今朝の残りの有り合わせでよろしいでしょうか?」


「あたし、こってりとしたものが食べたい。

 例えばビフテキとか」


 ぼくたちに視線を逸らしながら、ヒメはワガママを吐いてきた。


「これだから空気の読めないガキは……」

 ぼくは独り言のように呟いた。


「てめえこそガキだろ! 

 あたしたちと会話しているときに、おっぱいばっか見てよ。

 視線が垂れ下がってるのがモロバレ。

 このむっつりスケベ! 

 女の敵! 

 豆腐の角に頭ぶつけちまえって」 


 内心ドキッと跳ねた。

 もちろん心当たりがある。

 つい目が行っちゃうんだよ、彼女たちの胸元に。

 悔しいけどこれが男のさが

 許容範囲としては、あねごさんからヒメあたり。

 白ちゃんは枠外だからオッケー。


「反論の余地がないってことは図星じゃない。

 あーヤダヤダ。

 今あいつに舐めるように見られるなんて。

 罰金1億円。

 耳をそろえて払ってもらうからね!」


「なんだって! 

 なんでお前の貧困な身体に視野に入っただけで重罪扱いなんだよ!

 身も心も成長してから発言しろよ。

 このツルベタ!」


 ヒメは胸元を腕でガードしながらムキッー! と、

 サルのような黄色い声を上げる。


「お兄ちゃんもお姉ちゃんもケンカは止めて」 


 すると聞いたこともないヘリウムガスを吸ったような、

 甲高い声をキャッチした。

 その発信源を凝らしながら辿っていくと、白ちゃんが立っていた。


「うっそぉー、白ちゃん声が出るの?」


 メラメラと戦火を燃やしていたヒメも、これにはハッと息を呑む。

 ぼくたちの脚光を浴びていた白ちゃんの顔が面白くなさそうに歪む。

 そしてサッと反復横を避けると、身を隠していたハカセさんの姿が。


「メンゴ、メンゴ」

 陽気に笑い出す。


「あのですね、ハカセさん」


 こめかみに手を押し当てながら、ヒメは深い溜息を吐いた。

 怒りを通り越して呆れ返ってる。

 一方で白ちゃんは、ぷくーっと頬をパンパンに膨らませてそっぽを向いている。


「またメガネがやらかしたのかよ。

 もういいや、早くメシにしてくれ。

 みんなジャマになるから行ってようぜ」


 頭痛持ちのあねごさんは、

 ブルドーザーのようにヒメと白ちゃんの背中を押した。

 ぼくもその後をついていく。


「太朗くん、君はこちら側の人間ですよ」


 とびっきりの笑顔でぼくを手招きしている。


「でも……」


「太朗くん!」


 目尻に溢れるくらいの涙を溜めて必死に手招く。


「わかりましたよ。

 そんな顔で見つめないでください」


 そんなぼくは冷蔵庫からタッパーに詰まっているみそ汁を、

 鍋に戻して火を通す。

 一方でハカセさんは、

 出しっ放しだった缶詰類を目で吟味していた。

 沸騰したみそ汁とごはんを5人分茶碗に盛って、

「先行ってますよ」

 とハカセさんに告げる。





 テーブルを囲みランチタイムになった。

 耳鳴りがするほど静かに、みんな箸を動かしていく。

 ぼくとハカセさんの間には空席が。

 熊さんがガツガツと食パンを頬張っていた姿が透けて見える。

 短期間ではあるが、

 一緒に苦楽を共にしてきたことを浮かべると、ちょっとだけ寂しい。


「僕の顔のに何か付いているのかい?」


 視線を感じていたハカセさんが、箸を休めて右を向く。


「いえ、何でもないです」


 カツカツとごはんを口へ放り込む。

 涙成分が入っていたのかわからないが、塩味が滲んでいた。


「食事も済んだことなので、情報交換でもいたしましょう」


 ハカセさんがくるっと一周見渡しながら静かに立ち上がった。


「まず外回りを代表してあねごさんから」


「悪りぃ、ヒメ頼む」


 頬杖をついたままうつむいているあねごさんは、低い声でパスを送る。

 さっきよりも顔が青白い。

 頭痛が悪化しているのだろうか。


「あねごの代わりにあたしから。

 この屋敷外も結構広かったけど、別途で倉庫らしき建物があったの。

 1つは発電所って書いてあったけど、

 中は鍵が閉まっててさ、開けられなかったよ。

 まあ屋根にソーラーパネルも付いてるし、

 オール電化みたいだから送電してんじゃないのって無視した。


 もう1つは浄水場。ここは中には入れたよ。

 ゴゴゴゴゴゴって雷みたいな音してたけど、

 下水から流れた水をリサイクルしてんのよ。


 あとは倉庫って言うか物置。

 あねごと白ちゃんでくまなく調べたんだけど、家電の墓場。

 冷蔵庫とかテレビとか廃タイヤにパソコン、

 テーブルあとはボロボロのソファーかな。

 ノコギリとか鉈とか工具類もあったよ。

 怪しい人影も隠し扉もなかった。以上」


「報告ありがとうございます。

 僕たちは内部の再チェックってことかな。

 以前僕たちが下山しているときに、

 ヒメさんと熊さんで行ってくれましたけど、

 見落とし部分がないかってことで。

 一応屋敷内を捜索しましたが異常はなし。

 その後太朗くんと一緒にキッチンの棚卸たなおろしを実行しました」


 ハカセさんが腰を下ろす。

 そのタイミングを見計らってヒメが、


「外も中も8人目がいなかったってことは、

 熊さんを殺した犯人ってこの中にいるの?」


 警戒するようにキョロキョロと、ぼく達を疑い始める。


「実はそのことですけども」

 肘をついたままハカセさんが言う。

「個人的に熊さんの遺体を拝借いたしましたところ、

 腹部に刺さった包丁の辺りにためらい傷が複数見受けられまして。

 自殺の可能性が算出されました」


 ハカセさんの発言は、ぼくと2人っきりで話していたことと逆だった。

 つまりこれは嘘。

 ぼくたちの中に犯人がいないってことを裏付けて、

 関係をギクシャクさせないためだった。

 だからと言って、8人目が存在しないとは限らない。


「じゃあ頸動脈うんたらを切ったのも熊さん自身なの? なんで?」


「ヒメさん落ち着いてください。

 僕達はある人物、

 つまり8人目から実験の薬を撃たれて記憶が欠けているんですよ。

 要するにその反動で幻覚症状げんかくしょうじょうが起きて、

 精神状態が不安定になって、

 首や腹を包丁で刺したってこともあり得ると仮説を立てたのです」


「一理あるね、だって白ちゃんの声も出ないし」


 うんうんと納得するヒメ。


「僕達も起きる可能性もあるので、気をつけてください」


 一応ハカセさんが締めたが、

どう気をつけていいのかわからない。


「あのさ。これからどうするんだ? 

 あたし頭痛いから一休みしたいんだけど」


 あねごさんはテーブルに腕を組んで顔を伏せてしまった。

 いつものテンションに比べると、

徹夜明けの受験生のようにグロッキー状態だった。


 と、ハカセさんが、


「特に決めていませんが、

 可燃物を集めてのろしを上げてみようかなって」


「そっか。悪りぃけどパスしてもいいよな?」


「ええ」


 ハカセさんを中心にみんなが頷いた。


「おやすみー」


 右手を一瞬だけ挙げてあねごさんは無口になった。

 頭痛って眠っているだけで治るのだろうか? 

 でも薬なんてないし。

 薬? 

 そういえば地下に。


「あのー、地下に実験室みたいな、

 薬品室みたいな部屋がありましたよね? 

 もしかしたら頭痛薬もあるかもしれませんよ?」


「まじで?」

 ピクッと過敏に顔を起こすあねごさん。

「ちょっと行ってくるわ」

 立ち上がって酔っ払いのようにふらふらと歩く。


「お供しますよ」


 あねごさんの左に回り、ぐらついている肩をそっと包んだ。


「じゃあ一緒に行ってきます」


 振り向いてヒメとハカセさんにしばしの別れの挨拶を。

 あれ? 誰かいないような。

 後ろからシャツを引っ張るような合図。

 反転するとやはり白ちゃんだった。


「ついて行くってよ。

 太朗がお気に入りみたいなんだな」


 あねごさんが真っ青な顔でニッコリと笑う。

 かなり無理しているように見える。


「そんなんじゃないですよ。午前中は別行動でしたし」


 あねごさんの表情は変わらず、受け入れてくれなかった。


「ずるーい。あたし1回も地下行ってないから一緒に行く」


 駄々をこね出すヒメ。

 別に人気スポットじゃないからおとなしく待ってろ。


「僕だけ残されるのも腑に落ちませんね。

 同行します。べ、別に地下室なんて行きたくないんですからね」


 今度はハカセさんが強引にツンデレをぶっ込んできた。

 そこはヒメをなだめるところだろうが。





 結局ぼくたちは全員で地下室に行くことに。

 ハカセさんは、

「何か燃えやすいものを探します」と、

 ヒメと一緒に食品倉庫へ。

 一方でぼくたちは実験室へと二手に別れる。


「こりゃ、しらみ潰していくしかねーな」


 重い頭を抱えつつも、あねごさんは1つ1つ棚から瓶を取り、

 ラベルとにらめっこして元に戻す。

 白ちゃんもマネをして検査する。


「ぼくはあっちの棚から見ていきます」


「あいよー」と頷くあねごさん。

 実はここに来た目的は鎮痛剤を探すだけではなかった。

 希望は少ないが、

 白ちゃんの声が戻る薬があるかもしれない、と感じていたからだ。

 藁にもすがる気持ちで、薬品瓶を出しては戻し、

 出しては戻しの繰り返し。

 目的達成はほど遠い。


「見つかったか?」


 あねごさんは棚の隅からちょこんと顔を覗かせた。


「ないです」


「こっちの方がありそうだな」


 ゆっくりとぼくに近づいてきて、背中を向けて瓶を持ち1周見渡した。


「向こうは調べ尽くしてんですか?」


「白に任せた」


「はあ」


 溜息のような返事をして再び作業に戻る。

 いつからか知らないが、

 瓶の大きさが缶コーヒーサイズから缶ジュースサイズに成長していた。


「これは?」徐に瓶を握るとあねごさんが肩越しに、


「あったのか?」


「睡眠薬ですよ、こっちも、こっちも。

 1つ飛ばしてこっちも。

 これさえあれば、痛みも忘れてぐっすり眠れますよ」


 計4つもある。

 偶然だろうか、それともたまたまだろうか。


「あのな。

 飲み過ぎるとぽっくりっちまうことだってあんだぞ」


 一瞬だけ身体をよろめかせたあねごさんは、

 再びぼくと背中合わせに瓶を見つめ始める。 

 これはもしかして。


 一歩ずつカニ歩きをしていると、

 失声症とラベルに書かれている薬瓶を発見。

 だが、どこにも成分とか用法・用量すら載っていない。

 怪しさ100パーセント。

 薬瓶とにらめっこをしていると、真横から気配が湧いてきた。

 流し見ると白ちゃんが、

 クレジットカードくらいの長方形の箱をも持っている。


「どうしたの?」


 と声をかけると、手を伸ばしてその箱を渡そうとした。

 それは鎮痛剤ちんつうざいの薬だった。

 中を開けると、銀色の包装シートに小分けしており、

 押し出して服用する錠剤じょうざいタイプのものだった。


「ありがとう白ちゃん。

 あねごさーん、鎮痛ちんつうざい剤ありましたよ」


「本当か?」


 瓶を棚から取り出すのを止めて、ぼくの右横に並ぶ。


「白ちゃんが見つけてくれました」


「ありがとな」


 あねごさんは白ちゃんの髪をくしゃくしゃにかき乱して、

 出口に歩いて行ってしまった。 

 でもいろんな薬があるんだな。

 あ、白ちゃんに渡しておくか。


「これ見つけたんだ。試しに飲んでみてよ」


 先ほどの失声症しっせいしょうと書いてある怪しい薬瓶くすりびんを見せると、

 白ちゃんは顔を引きずりながらゆっくりと頷いた。


「大丈夫だって。

 声を失う薬じゃない……と思うよ。念のためにね。

 ほら、ぼくたちも戻ろうよ。

 あねごさんひとりにはできないし」





 再びリビングに戻りテーブルを囲む。

 あねごさんは鎮痛剤を飲んだあと、

 毛布を下にして仰向けで寝ている。

 お腹にはタオルケットを乗せていた。

 地下に行ったときに、ヒメが発見して人数分拝借してきたのだ。


「これからのろしを上げようかと思います」


 倉庫から持参してきた、

 2リットルボトルの油を撫でながらハカセさんは言った。

 そのセリフの中には、『誰か同行してくれますよね?』 

 も含まれているらしく、ぼくたちの顔を伺っている。

 冗談じゃない、

 この暑さに焚き火なんかしたら燻製くんせいになってしまう。

 自分で出した案なのに、今頃になって後悔の糸が引いてしまった。


「あたし、あねごの看病するから太朗と白ちゃんで行ってきなよ」


 この機に及んでヒメが逃げやがった。

 するとぼくが反論をする隙も与えずに、ヒメは続ける。


「1つ提案なんだけど、今までリビングで固まって寝てたよね?

 個室に別れてもいいんじゃないの? 

 フローリングって硬いから背中が凝って眠れなくて。

 理由はわかるんだけど、

 ずーっと誰かと一緒にいるのって精神的に苦痛なの」


 確かにヒメの言う分もわかる。

 ぼくたちが記憶を失って3日が経つ。

 八方ふさがりの状況で熊さんの死。

 普通だったら、精神が病んでもおかしくない。

 記憶喪失が幸いなのかどうかわからないが。


「一理ありますね。

 実は僕もベッドが恋しくてずっと眠れなかったのです」


 ハカセさん、それは初耳だ。

 あなたが1番ぐっすり寝ているはず。


「と、なると2階の部屋が僕たち人数分当てはまりますので、

 そちらに移動しましょう」


「決定ね。じゃあ、あねご連れて行くから。

 あねごー、行くよ」


 ヒメが声をかけただけであねごさんは、

 上半身を起こして目をこする。

 浅い眠りだったようだ。





 そしてぼくたちはのろしを上げるために、

 燃焼物ねんしょうぶつをかき集めた。

 キッチンのゴミと書斎の本。

 正直、本を燃やすのは抵抗があったが、

 呑気なことは考えてられない。

 玄関を出て左側の芝生をスコップでえぐり、

 ゴミと本をピラミッド状に積んで、

 油をふりかけマッチで点火。


「意外に燃えますね」


 青空にもくもくと伸びる黒煙を、

 ハカセさんは首が曲がるくらいに仰ぎ見ている。


「これってSOS信号になるんですか?」


 傍から見たら、普通に焚き火をしているようにしか思わないだろう。


「実際は飛行機やヘリが通過しようとしたときに、

 立ち上る煙をサッと毛布でせえぎり、

 3つの煙を浮かべてアピールするのが手なんだけど……」


 ハカセさんは再び空を見上げる。

 雲ひとつない澄んだ空。

 大きく翼を広げた名もなき鳥が、1羽だけなめらかに泳いでいく。

 この調子だと天気は崩れることはなさそうだ。


「ふたりとも、こちらに来てください」


 ぼくと白ちゃんはのろしの番を放り投げて、

 ハカセさんの手招くほうへ。

 すると畳一畳分くらいの花壇に紫色の花が無数に揺れていた。


「きれいな花ですね。何っていう名前ですか?」


「それをクイズにしようとしていたのです。

 さあ名前は何でしょう?」


 チッチッチッチッと、

 ハカセさんはアナログ時計の秒針音を奏でる。


「あのヒントは?」


「ノーヒントです」


 ケチだった。

 ヒマワリ、チューリップ、サクラ、バラ、アサガオなど

 メジャーな花くらいしかわからなかった。

 仕方がない、ここは。


「白ちゃんわかる?」


 するとぼくの右手首を掴み、

 手を広げさせて人差し指で丁寧に書いていく。


「ト・リ・カ・ブ・ト? 

 ハカセさん、この花トリカブトですか?」


「正解。毒草で有名なトリカブトだよ。

 白や黄色の花を咲かせるものもあるんだ。

 そうそう、この話知ってるかな?」


 ハカセさんは、のどの調子を整えて続ける。

「トリカブトの毒は即効性そっこうせいなんだけど、

 フグの毒を混ぜて服用させるて、

 作用発現時間さようはっせいじかんを調整する犯行があったんだよ。

 つまりフグの毒を入れることによって、

 トリカブトの毒が身体中に行き渡るのを、

 抑えてアリバイを作るってこと」


「へえー、でも実用性ありませんね。

 なんでトリカブトを育てているのだろう?」


「トリカブトの塊茎かいけいは、

 漢方薬に配合される重要な生薬にもなるんだよ。

 きっと調合のために育ててたとしか当てはまらないね、

 仮説だけど。

 おっと火の勢いが弱まってしまった。くべるとしよう」


 ハカセさんはゴミ袋を逆さにして、

 焚き火に全部投入してしまった。

 雑なやり方だが、火種が生きていたらしく、

 水を得た魚のようにぐんぐん勢いを増していく。


「そうそう、とっておきのクイズがもう一問あるんだ」


 青空高く登り詰める灰色の煙を一緒に見ていたハカセさんが、

 思い出したようにぼくたちに言った。


「毒草と薬草の見分け方ってわかりますか?」


 誰もやるって言ってないのに2問目を出題してきた。

 特に断る理由もないので考えることにした。


「見分けですか? んーと、えーと、ヒントは?」


「これもノーヒントです。がんばってください」


 相変わらずケチだった。


「ワンクリック検索に頼ってばかりいるから、

 思考能力が衰えてしまうんですよ」


 今、指摘されることではないような気がするんだが。

 そんなハカセさんはアヒルのように口を尖らせて、

 ピッピッピッピッと電子音バージョンの秒針を刻む。

 取りあえず答えは浮かんだが自信はない。

 流し目で白ちゃんを見ると眉を歪ませて検討中だった。


「タイムアップです。お二方答えは整いましたか?」


 白ちゃんが左右に首を振る。


「わかりませんか。では太朗くんは?」


「自信はありませんが、答えは出ました」


「間違えても構いませんよ。

 どうせ当たったって賞金が出るわけないですから」


 だったら、この時間は何に当てはまるのだろう?


「答えをどうぞ」


「やっぱり色で見分けるしかないですよ。

 ほら、毒キノコだって派手な色が多いし」


「植物の葉の色は緑ですよ。

 それを色で見分けようとするなんて。

 当てずっぽにもほどがある解答ですね」


 一瞬カチンときたが、

 大人げないので深呼吸をひとつして冷静を取り戻した。


「ブー、もちろんハズレです」


 ハカセさんのコメントを耳にしたところから、

 間違っていると気づいたので別に驚きはしなかった。


「正解は?」


「惜しくも敗退してしまった太朗くんに、

 なんとここでボーナスチャンス」


「いらないんで、正解教えてください」


 別に正解を聞いたからって、

 明日友達に自慢できるかどうこうってわけでもないが、

 ここまで引いておいたからには、

 聞いておくプライドがあった。


「せっかちですね太朗くんも。

 そんな性格では女の子にモテませんよ。

 まあ、これ以上引いても意味がないので発表します。

 正解は食べてお腹を壊さなければ薬草で、

 お腹を壊してしまったら毒草です」


「へ?」


 思わず声が裏返ってしまった。

 1オクターブほど甲高く漏れた。

 ぼくの横では白ちゃんが目をぱちくりさせている。


「だから食べてみて……」


「2回言わなくていいですから。

 何なんですか、その珍回答は! 

 小学生でもわかることですよ」


「だって他に方法が見あたらないので」


「だったらクイズにしないでください」


「図鑑と照らし合わせて調べるのがベストですよ」


 結局その方法かよ。完全に場の空気がしらけてしまった。

 たまに感じることがあるんだが、

 ハカセさんだけ記憶喪失の薬以外に、

 怪しい薬を投与された可能性があるのだと。





 夕食を済ませたぼくたちは、

 リビングのテーブルを囲んで会議を始める。


「明日からどうするんだ?」


 頭痛がすっかり回復したあねごさんは、

 くるりと反時計回りにぼくたちの表情を探る。


「そうですね……」腕を組み、

 口を一文字に固めているハカセさんの言葉にみんなの視線が固まった。


「部屋割り決めてませんね。どうしましょう」


「んなのどーでもいいよ、明日のこと聞いているんだよ」


 テーブルに亀裂が入るくらいに、

 あねごさんは両手を叩きつけて立ち上がった。


「いえ、重要課題です。

 あねごさんとヒメさんは勝手に決めたからいいものも、

 僕たちはのろしを上げて、毛布の引っ越しすらしていないんですよ」


 ハカセさんの言うとおり、

 3枚の毛布とタオルケットは窓際に積まれている。


「じゃあ待ってやっから、手っ取り早く決めちゃえよ」


 椅子に腰を下ろしたのもつかの間、

 あねごさんは立ち上がってリビングを出ようとした。


「トイレだったら付き合うよ」

 その姿をヒメが掴まえた。


「んー、大丈夫。何か飲み物取ってくるだけだから」

 とぼとぼと出ていく。


「では部屋割り決めてしまいましょう。空きはどこですか?」


 ハカセさんがヒメに尋ねる。


「ええと、真ん中挟んで左側は2番目。

 右側は2番目と奥の3番目。

 つまり左側の手前から1番目があねごで、

 右側の手前から1番目があたし」


 確か左側の3番目、つまり1番奥は熊さんの部屋だったはず。

 その隣はさすがに抵抗はあるな。


「ありがとうございます。

 さて、僕たちの部屋割りは麻雀で決めましょうか?」


「え、なぜ麻雀なんですか? 

 ルールわからないし、それに卓も牌もありませんよ。

 もっとシンプルな方法で決めましょうよ、

 例えばジャンケンとか」


 ハカセさんの目が、

 獲物を発見した黒ヒョウのようにピカッと光る。


「ひとこと言わせてもらいますよ。

 今まで何回もジャンケンで勝負してきましたよね? 

 そしてまたジャンケンで決めるのですか? 

 確かにジャンケンはシンプルで、

 なおかつ経済的にも功利的こうりてきにも有効なことは認めますよ。

 だからって、何でもかんでもジャンケンで勝敗を決めるのはどうかな? 

 もし太朗くんが、社長にジャンケンを申し込まれて、

 『負けたらチミはクビね』って解雇通告を食らったら納得しますか?

 しないよね。

 つまり僕はジャンケンで負けることが嫌いではないんですよ。

 最重要課題をジャンケンで委ねてしまうことに、

 異議を求めているんですよ。

 わかるかな?」


 出るわ出るわ、ジャンケンに対するヘリクツがこれほどまでに。

 もちろん言っている意味ははっきりと理解できる。

 ジャンケンの勝率は33、3パーセント。

 つまり勝ち続けるのも負け続けるのも不可能。

 以前にも口にしたが、負け続けるハカセさんは天性かもしれない。


 それはそれで置いておいて、

 ジャンケン以外でシンプルで早く決まる方法は他に何があるだろうか?

 王様ゲームっぽく割り箸に番号を書いて引く、

 クジ引きしか思いつかないのだが。


「おーい、決まったか?」


 ぼくたちがジャンケンで揉めていると、

 あねごさんがトレイを水平に持ちながら帰ってきた。

 トレイの上には5人分のグラス。

 茶色い液体が入っているので、麦茶と認識できた。


「いえ、まだスタートラインにも立っていないです」


「どうせメガネがヘリクツ並べて妨げていたんだろ? 

 ま、これ飲んで一息入れな」


 あねごさんは自分の手前にグラスを置いたあと、

 各々の目先に配ってくれた。


「これはウィスキーですか?」


 光に照らすように持ち上げたハカセさんは、疑わしく覗き込む。


「バカヤロウ! 麦茶に決まってんだろ。

 昼間冷蔵庫の中身調べてなかったか? 

 ドアポケットに入ってただろうが」


 そう怒鳴りつけると、そそくさとリビングから出て行ってしまった。


「あーあ、知ーらない」


 ヒメは流し目を送りながら、麦茶を一口ゴクンと飲む。


「あれくらいで青筋立てるなんて、沸点が高いんですよ」


 ハカセさんがぼやいているうちに、

 あねごさんは2リットルのペットボトルを持参して、

 テーブルの中央に叩きつけた。


「これが目に入らぬかぁー」


 ニヤッと白い歯をこぼしたあねごさんは、

 まるで時代劇のワンシーンを切り取ったセリフを、

 熱を込めて言う。

 オブラートに包むと、麦茶のおかわりを持ってきただけなんだけど。

 ハカセさんが無感情で頭を下げた後に、

 とんでもないことを催促した。


「ありがとうございます。ついでにその足で麻雀セット一式お願いします」


「はあ? どこにあんだよそんなもん。

 ぐだぐだ言ってねえで早く部屋割り決めろって」


「わかってないですね、

 その部屋割りを決めるのに麻雀をするんですよ」


「ジャンケンで済むだろうが! 

 今までもそうしてきたのに、

 今更まどろっこしいことに変更するんじゃねぇよ」


「ジャンケンが不平等ってことに散々議論してきた結果、

 麻雀で勝負することに決まったのです」


 いや、まかり通さないでくださいよ、ハカセさん。

 そんな体たらくなやりとりを目に、

 ぼくはグラスを手に半分ほど麦茶を飲んだ。


「ほ、本当か、おい?」


 額に一滴だけ汗を滲ませながら、

 あねごさんはスローモーションに、ぼくに顔を向ける。


「嘘ですよ。

 ハカセさんがジャンケンで負けるからって、

 麻雀に指向を変えてきたんです。

 ルールも道具もないくせに」


「だよな。だったら早く決めろよ。

 今何時だと思ってるんだ?」


 壁のアナログ時計は9時半を刻んでいる。

 寝る時間には早いが、

 こんなことで言い争っているのにはもったいない。

 明日に備えないと。


「できたよ。中央階段を境に左があねごで右があたし」


 せっせとヒメがボールペンで何か書いていると思ったら、

 部屋の配置図を作成してたのかよ。


「一発勝負な。最初はグー」


 あねごさんが音頭を取ると、

 ぼくたち3人はその合図で中心に手を伸ばす。

 ぼくと白ちゃんはグー。

 そしてハカセさんは、


「僕の勝ちですね。では一番右の……」


「ちょっと待ってくださいよ! 

 最初はグーの段階でパー出すなんて反則ですよ」


 ハカセさんのやったことは悪意だ。

 あねごさんにジャッチを送る。


「勝てないからって卑怯ひきょうな手を使うんじゃねえ。仕切り直しだ」


「わかりましたよ」

 ハカセさんが生意気に舌打ちをする。

 反省の色が見えない。


 再度あねごさんの音頭で、ぼくたちはポンの合図で中心に手を伸ばす。


 結果は……。


「うっ」

 ハカセさんが右手のチョキを見つめて絶句している。


「はいメガネの負けー。本当に弱いな」


 見えている結末に、あねごさんはピクリとも驚かなかった。


「おかしいですね、実は左手のほうが強いんですよ。

 仕切り直しましょう」


「アウトだ。敗者に権限はない」


 あねごさんの優しい一喝でハカセさんは、

 熱戦を終えたボクサーのように、

 ぐったりと椅子に落ちた。


「白ちゃん、先に決めていいよ」


 あの部屋がまぬれたので紳士的に譲ることにした。


「優しいな、太朗」


「レディーファーストですから。ははは」


 そう言ってあねごさんは麦茶のペットボトルを手に、

 ぼくのグラスにたぷたぷ注ぐ。

 別にのどは渇いてないんだけど。

 すると白ちゃんが差したところは、右側の一番隅の部屋。

 ってことは、ぼくはその隣で……。

 ん? これって。


「げっ! スケベ太朗があたしの隣って最悪。

 勘弁してよ。

 ドリルで壁こじ開けて夜這いなんかかけてきたら、

 ケチョンケチョンにぶっ殺すから!」


 三角に目を尖らせたヒメは、

 自家製配置図を片手でくしゃりと丸めてしまった。

 おい、まだそれ使うんだぞ。


「あのー、白ちゃん。

 実はぼくもその部屋がいいなぁって……」


 男らしくないが、ダメ元で交渉してみることにした。

 だが白ちゃんは、目尻に溢れるくらいの涙を浮かべ、

 夏の終わりのヒマワリのように、首が垂れ下がってしまった。


「今のウソだから、

 ノーカウントでノーコメント。

 ノーリターンでノークレーム。

 なかったことにして」


「僕でよければ、その部屋と交換してあげましょうか?」


 こっち必死でなぐさめているのにもかかわらずに、

 ハカセさんが生暖かい手で肩を掴む。


「結構です。間に合ってます」

 と、手をはね除けると今度はヒメが、


「泣かしたー。泣かしたー」


 手拍子を交えて冷やかし口調で歌う。

 お前は小学生かよ! 

 本気で泣かしてやろうか。


「部屋くらいで揉めてんじゃねえよ。ガキだなお前ら」


 それぞれのグラスに麦茶をつぎ足し回るあねごさん。


「ではあねごさん、部屋を交換してください」


「ああん?」


 ハカセさんが反論すると、

 あねごさんは低い声で威嚇いかくする。

 恐れをなしたハカセさんは、無言で椅子に座ってしまった。


「それを飲んだら、もうお開きにしようぜ」


 欠伸を加えてあねごさんが言った。

 ヒメも釣られて欠伸を殺している。


「最後に提案があるんです」

 ハカセさんが首元をギュッと締めると、


「何かあるのかよ」

 と、あねごさんが鋭いオーラを刺してきた。


「これは太朗くんと白さんに用がありますので、

 お二方は解散して結構です」


 だが気になるらしく、

 あねごさんとヒメはリビングを出て行こうとはしなかった。

 そんな彼女たちの尻目に、

 ハカセさんは話を進める。


「差し支えなければ、

 今晩だけリビングで休息するのはいかがでしょうか?」


 ちらちらとぼくたちの反応を伺っている。

 確かに今から部屋に行って、色々と片付けをするのは面倒だった。

 明日に回しても支障はない。

 それに何よりも身体が重かった。


「ぼくは構いませんよ」


「ありがとうございます」


 次にハカセさんは白ちゃんを見る。

 白ちゃんは一瞬だけ、

 ぼくをチラ見してからコクンと頷く。


「ですよね。

 夜も深いし、今から各部屋に戻って、

 ベッドメーキングするのは重荷でしょう」


 うんうんと納得してから、親指をグイッと挙げる。


「おいおい、太朗はともかく白は危ないじゃないのか?」


 あねごさんの口角が数ミリほど上がる。

 作り笑いをしているようだ。


「やましいことなんて、これっぽちっも、ねえ」


 首と手を必死に左右に振りながら、

 ハカセさんはぼくに同意を求めてきた。


「むしろぼくたちと同じフロアにいたほうが安全ですって。

 もし白ちゃんに何かあったら、

 ハカセさんを好きに殴ってください」


「その時はふたりともボッコボコにしてやっかんな。

 おやすみー」


 あねごさんはドアを押して出ていく。

 その後をヒメが何度も欠伸をしながらついて行ってしまった。

 罵倒ばとうされるかと思いきや、

 これまた意外。


「僕たちも休むとしましょう。テーブルを動かすから手伝って」


 ハカセさんと力を合わせてテーブルを窓際へ移動させる。

 草木を撫でるような一陣の風が鳴る。

 その風は網戸を通じてリビング中に巻き込んだ。

 冷たい。

 どことなく夏の終わりを肌で感じる。

 白ちゃんが川の字に毛布とタオルケットをセットで貼り付ける。


「消しますよ」


 時刻は10時15分を過ぎようとしている。

 ぼくは入り口脇のスイッチを押して寝床に着地。


 ふわふわのタオルケットを腹に敷いてゆっくりと目を閉じる。

 なぜだか知らないが、今日はゆっくり眠れそうな気がした。

 熊さんを失ったのにも関わらずに。





「おい起きろよ、太朗。おいってば」


 誰かが、ぼくの肩を優しく揺らす。


「ん?」


 ゆっくりと上半身を起こすと、あねごさんが正座している。

 その表情は頭痛を犯していたときよりも、

 蒼白く目は血走っていた。


「どうしたんですか?」


「ヒ、ヒメが部屋にいねえんだよ。

 トイレから戻ってきたらドアが開いててさ」


「えっ、ヒメが?」


 今何時だろう? 

 首だけ動かすと、

 頭の中でロック歌手がライブをやっているように重低音が響く。


「いたたたたたっ!」


「もしかして頭痛か?」


「はい。じきに治るといいんですけど」


 再度時計を見る。7時前か。

 もうちょっと寝ててもよかったな。

 右側にはハカセさんと白ちゃんが穏やかに寝息を立てている。


「後から鎮痛剤持ってきてやっから。

 それよりこいつらを起こすの手伝ってくれ。

 最初に揺すったんだけど、手応えがなくてさ」


「わかりました。ハカセさーん、起きてください」


「ん、んーん」


 眉をぴくぴくと痙攣けいれんさせながら、

 くるっと半転寝返りを打つ。


 むかっ! 一瞬だけイラッとした怒りの芽を根絶こんぜつに、

 作戦2へ移行する。

 鼻の穴をつまんで窒息作戦。

 本来なら開いた口に水を投入のだが、

 それは作戦3にする。


「ぐほっ、ごほっ」


 ハカセさんはむせて飛び起きた。


「君という人は、死んだらどうするのかね!」


 寝ぼけた様子もなく2倍速で説教を始めてきた。


「あー、むさ苦しい男に起こされて頭がズキンズキンする」


 この人の寝起き、悪すぎるな。


「やっと起きてくれたのかよ」


 あねごさんの努力の甲斐もあって、

 白ちゃんが目をこすりながらリビングを見渡していた。


「さっき太朗にも話したんだが、ヒメの姿が見当たらないんだ」


 あねごさんは頭を動かさずに、

 ハカセさんと白ちゃんを横目でじっと見る。

 頬から伝う汗が一滴だけフローリングにぽたんと落ちた。

 開いた口を手で塞ぐ白ちゃんと、

「もしかして?」ゴクンと息を呑むハカセさん。

 そして衝動的に立ち上がると、


「こうしてはいられない、

 二手に別れてヒメさんを探しましょう。

 僕とあねごさんは外を、

 太朗くんと白さんは屋敷内を」


 血相を変えてハカセさんとあねごさんは、

 並んでリビングを飛び出した。


「ぼくたちも急ごう」


 数十秒遅れでリビングを出ると、

 中央間へ続く長い廊下に差しかかる。

 既にハカセあねごペアの姿を掴むことはできなかった。

 ひょっこり現れてくれることを期待しているが、

 熊さんのことを考えると不安で胸が詰まる。

 指輪をきっかけに恋人同士になったり、

 いがみ合ったりしてきたけど、

 こんな形でさよならをするのは心苦しい。

 せめて生きててくれ。


 そんなことを考えていると、

 左側に並んでいたはずの白ちゃんの姿が消えた。


 もしかしてテレポート? 

 ふと視線を後ろに落とすと、

 障害物もないのにうつぶせに転んでいる。

 もちろんぼくは駆け寄る。


「大丈夫?」

 と、手を差し伸ばすと、

 雪肌の柔らかい左手が被さった。

 ギュッと握ると、

 その反動で白ちゃんは膝を曲げて立ち上がる。


「そんなのあったっけ?」


 白ちゃんの足元に一箇所だけ、

 絨毯じゅうたんに百円玉くらいのハゲが撃たれている。

 その場にしゃがみこんで観察すると、弾薬がめり込まれていた。

 もしかしたら、気づかないで通り過ごしていたのかもしれない。

 何せ下なんか気にしないで歩いていなかったからだ。

 ふと立ち上がり、中央間までの道のりを探ると、

 銃痕じゅうこんがまばらに浮かび上がっている。


「白ちゃん行こう」


 胸騒ぎしかしないぼくたちは、廊下を走り抜けた。



 中央間に着くと既に銃痕は消えていた。

 どこから調べればいいだろう? 

 頭を悩ませていると、

 白ちゃんが肩を叩いて2階を差した。


「そうだね、ヒメの部屋からにしよう」


 階段を上り、すぐ右横の部屋に到着。

 そのと隣はぼくで、またその隣は白ちゃん。

 そんなことは今はどうでもいい。

 あねごさんが確かめたって言ってたけど、

 見落としがあるかもしれない。

 何か手がかりがあればいいんだが。


 ドアノブに手をかける。

 鍵は開いている。

 白ちゃんがぼくの左腕にしがみついてきた。

 そっとドアを開ける。

 左側にベッド、中央に丸テーブルと椅子。

 家具の配置は他の客間と変わり映えもなくシンプルだった。


「おーい、ヒメー」


 叫びながら部屋中を駆け回る。

 ベッドの下を探る。

 何もなかった。


「他を当たってみよう」


 ぼくたちは2階の部屋をしらみ潰した。

 熊さんの部屋、

 あねごさんの部屋。

 だが収穫は得られなかった。


「一階に戻ろう」


 階段を下る。

 怪しいところは地下室くらいか。

 すると左から錆びた金属が擦れるような音が叫ぶ。

 そこは確かぼくが最初に倒れていた部屋と、

 ヒメがいた部屋が並んでいた。

 ぼくがいた部屋の扉が半開きになって悲鳴を上げていたようだ。

 もしかして。

 ゴクンと唾を飲む。

 悪い予感なら的中しないでほしい。


「あの部屋行ってみよう」


 白ちゃんと一緒にドアの前に立つと、

 ノブが消えて転げ落ちていた。

 熊さんの時と同じ臭いがした。

 手に力を込めてドアを引いた。

 すぐ横には古時計が飾っており、

 懐かしい毛布が捨てられていた。


 するとカーテンから伸びる細い足が。

 ぼくはホッと胸を撫で下ろす。


「心配かけやがって、探したんだぞ」


 その足はこちらを振り向く感じはなかった。

 窓が開いているらしく、ふわりとカーテンが膨らむ。

 膝から上の影が見えない。


 もしかして幽霊? 

 いや幽霊なら足が透き通っているはずだが。


「ここで待ってて」


 白ちゃんに足止めをすると、

 窓に向かってゆっくり接近し、

 カーテンを左右に広げる。

 姿はなかった。

 その反動で2本の足がコロンと倒れた。


「うわあああああ!」


 奇声を高らかに上げて尻もちをつく。

 慌てふためいて、四つん這いになりながら白ちゃんの元へ夢中で這った。

 白ちゃんは棒立ちしている。

 ぼくは立ち上がって白ちゃんの細い肩を抱きしめた。

 びくびく震えている。


「あれって本物だよね? 本物のヒメの足だよね?」


 声の出ない白ちゃんが答えるわけがない。

 だが、喋らなければいられなかった。


「昨日まで動いていた手は? 

 頭は? 

 胴体はどこに行っちまったんだよ!」


 わからない、

 わからない。

 パンクしそうだ。

 ぼくの腕をすり抜けた白ちゃんは、

 肩を強く揺らしてきた。

 ハッと我に返る。

 早くこの状況をハカセさんとあねごさんに知らせなくては。


「動揺しちゃってごめん。あねごさんたちと合流しよう」





 ぼくは白ちゃんの手を引いて部屋を飛び出し、玄関をすり抜けた。


「太朗、白」


 偶然にもあねごさんの呼び声がビューンと通過した。

 ハカセさんとあねごさんは、

 左側のちょうど昨日のろしを上げていたところから、

 息を弾ませながら走ってくる。


「実は……ですね。……聞いて……もらえますか?」


 ぜぇーぜぇーと完全に息が上がっているハカセさん。

 コップに水を汲んで飲ませてあげたいが、

 こっちもこっちで、

 それどころではなかった。

 もしかしたら、

 ぼくたちと体験が一致するとしたいたので、

 聞き手に徹することにした。


「引っ込んでろ、あたしが話すから」

 前屈みになって息を切らしているハカセさんに、

 釘を刺してあねごさんは続けた。

「あの後、あたしとメガネで外に飛び出して、

 倉庫の中とかくるっと一周調べたんだ。

 ヒメの姿は掴むことはできなかった。

 仕方なく橋を渡って向こう側を調べてみるかてときに、

 ほら、お前たちがさぁ、焚き火してたとこあっただろ?

 そこに腕が1本埋まってたんだ。

 左か右かは確認はしてないけど、

 もしかしてヒメのじゃないかって。

 一刻も早く知らせようとして走ってきたわけ」


 あねごさんの声は低く暗かった。


「実はぼくたちも膝から下の足を、

 そこの部屋で見つけたんです。

 信じたくはないんですけど、

 細かったのでヒメので間違いありません」


「そっか、ヒメはもう……」


 あねごさんは強く唇を噛んだ。

 血が出るくらいに。

 悲しみだろうか、怒りだろうか、

 そこまでは読み取れなかった。


 そして誰も何も言わなくなった。

 そんな時間が5分、10分と過ぎていく。

 外はこんなに晴れているのに、

 ぼくたちの心の中までは光が届かなかった。


「こうしていても仕方ありませんね。

 残りの部位も見つけてあげましょう」


 この沈黙を破ったのはハカセさんだった。


「そんなことして、どーすんだよ!」


 あねごさんはハカセさんの胸ぐらを握って高く持ち上げた。

 ハカセさんは抵抗しなかった。


「悪りぃ」


 あねごさんはパッと手を離す。

 そして歯を食いしばって、

 うつむいてしまった。


「僕とあねごさんでもう一度外を探します。

 太朗くんと白さんで屋敷内をお願いします。

 見つけたら億劫おっくうですが、

 ひとまとめにしておきましょう。

 これが今できるヒメさんへの供養くようだと僕は思います」





 ぼくと白ちゃんは屋敷に戻る。

 足取りは鉄球が結んでいるくらい重い。


「まずは地下室に行ってみようか?」


 白ちゃんは頷きもしなかった。

 無言で平行に並びながら、左に曲がり地下室方面へ。

 白ちゃんとは会話もしていなかったが、

 以前とは空気が違かった。

 地下室への冷たい階段を下り、

 倉庫、実験室、武器倉庫と順に調べる。

 異常はなかった。


「戻ろうか」


 だが頷いてはくれなかった。

 つらいのはわかるが、反応してくれないと、

 こっちもつらい。

 階段を上る。

 トイレと浴室がある。


「ぼくはトイレ見てくるから白ちゃんは浴室ね。

 何かあったら互いに知らせよう」


 本来ならこの状況で別行動は御法度なのだが、

 近場なので安心できるだろうと思っただけだった。

 深い意味はなかった。

 ついでに用を足して精神を落ち着かせようとしていた。

 白ちゃんが浴室のドアを開けるのを確認するつつ、

 ぼくもトイレに入る。


 洋式の水洗トイレ。

 バラの芳香剤が鼻に刺さるくらいで、特に異常はなかった。

 ズボンとパンツを下ろして一点集中。

 正直、こんな余裕はなかったが、

 どこかで気を抜かないと、

 頭がオーバーヒートしそうで嫌だった。


 ぼくたちが発見したのは、膝から下の両足。

 ハカセさんたちが見つけたのは右腕。

 確かに女の子の部位を保っていたが、

 まだヒメだとは判断できない。

 8人目の可能性もある。

 さっきまでヒメがいない=両足発見でヒメ、と結びつけてきたが、

 そうとは限らない。

 まだ顔を見るまでは。


 小便を放出。

 今日は自棄に黄色い。

 まるで栄養ドリンクを飲んだ後のようだ。

 パンツとズボンを装着。

 普段着のまま寝床に着いてしまった。


 そういえば昨日はお風呂に入ってなかった気がする。

 右腕を挙げて脇の下をクンクンと嗅ぐ。

 酸っぱい臭いこみあげてきた。

 まあいい、お風呂は後回しだ。

 くるりと反転すると、


「わあ、ビックリした」


 眉ひとつぴくりと動じない白ちゃんが棒立ちしていた。

 ひょっとして捜索と言いつつ、

 用を足していたことにイラッとしているのか? 


「ごめん」


 レバーを引いて水を流すと、

 白ちゃんは、ぼくの右手首を握って走り出した。


「ちょっと、どうしたの?」


 彼女の行動は尋常ではなかった。

 脱衣所に入り、曇りガラス戸の前で白ちゃんはブレーキをかけた。

 ここまで来たら鈍いぼくでも察しがつく。

 指先に集中させたガラス戸を右にスライドさせる。

 最初に入っていたのはシャンプーの淡い匂い。

 慎重に一歩ずつ前へ。

 浴槽に大根くらいの太さのものが浮かんでいる。


 更に近づく。

 それはぼくたちが見た膝の上の部位、

 つまり太ももの部位だった。


 手を伸ばして2つの太ももを抱きしめた。

 そしてガラス戸のところで立ちすくんでいる白ちゃんに

「戻ろう」と告げる。





 それからぼくたちはハカセさんとあねごさんと合流。

 左腕はトリカブトの咲いていた花壇に。

 胴体は倉庫の天井に吊されていたらしい。

 衣装は剥ぎ取られてなく、

 ヒメが着ていたままだったので、

 もはや本人と断定できる。


「ひとまず休もう」


 と、ハカセさんの意見で、

 ぼくたちは両足を発見したあの部屋に、

 ヒメの亡骸なきがらほうむってリビングに集まることにした。

 椅子に腰を下ろす。

 誰も何も話さない。

 時刻は8時半を過ぎていた。

 ぼくが叩き起こされてから1時間半が経つ。

 早いのか遅いのかすらわからない。


「そういえば頭痛治まったか?」


 しばしの無言の中で、あねごさんがぼくに言ってきた。


「ズキンズキンしますね」


「フローリングで寝てたからかもしれねえな、ほら薬。

 メガネと白もか?」


「いただきます」


 あねごさんか手からハカセさんは、

 薬の包装シートをパキンと折って、

 2錠ずつぼくたちに配る。


「水なしでは飲めませんね。持ってきます」


 立ち上がると、白ちゃんがぼくに近づいてきた。


「いいよ、座ってて」


 なだめると、膝を折って再び椅子に落ちた。





 キッチンに着いた。

 シンクには夕食の洗い物が残っている。

 汚れを浸すために水道をひねる。

 こんなもんか? 

 水を止めた。

 ぼくは戸棚から手のひらサイズのグラスを四つ抜き取った。

 薬を飲むのは3人だけだが、

 あねごさんも水分補給をした方がいいだろうと思ったからだ。

 再び蛇口を起こし、

 グラスの内側を水洗いする。

 キュキュっとこすって完了。

 キッチン内は閑静に包まれた。


 なぜだか不気味だ。

 そういえば、ひとりでここにいたことってなかったような気がする。

 早く戻ろう。

 蛇口に手をかけようとしたとき少しためらった。

 冷蔵庫に麦茶があったような。

 もちろん薬を飲むのには水が適している。

 でも冷えている飲み物のほうが、

 喉の渇きを一層癒やせるかもしれない。

 なかったら水にしよう。

 シンクの横にあったハンドタオルに手を絡ませて、

 ずっしりとあぐらを掻いている冷蔵庫の上段のドアを手前に引く。


 コトン。


 スイカのような丸い物体が、ぼくのつま先にひんやりと当たる。


 ん? 


 じっくり凝らすと……ヒメの生首だ! 


「うぎゃあああ!」


 2、3歩後退りをすると円状のものを踏んで尻もちをついた。


「っ、痛いな。なんだよ」


 足元に転がっていたのは薬の入っていた大きめの茶色い瓶。

 手にしてラベル覗くと『睡眠薬』と手書きで明記めいきされている。


「なんでこんなところに瓶が転がっているんだよ。それよ早く」


 死に物狂いで起き上がり、キッチンを飛び出してリビングへ。

 みんなを呼びつけてヒメの生首を囲んだ。


「ここにあったのですね」


 ハカセさんは小首を傾げる。

 意外にも驚いてはいなかった。


「これでヒメだって確信が持てたな」


 あねごさんも同じく。

 ひょとしたらある程度の予想は立っていたのかもしれない。

 ヒメがいなくなって身体の一部ずつ見つかっていたのだから。

 一方、白ちゃんは放心したように立ち尽くしている。


「なあ、こんなことを言うのもなんだけどさ……」

 あねごさんが唇を震わせながら続けた。

「太朗とヒメって仲悪かったよな」


「そ、それってぼくがヒメを殺したってことですか?」


「あたしたちってさあ、

 自分自身のことを知らない記憶喪失者だろ? 

 動機ってそれ以外当てはまんねえし」


 3人の視線がぼくに集中した。

 冗談じゃない! 

 仲が悪かったってだけでヒメをあやめることなんて。

 自分自身が一番わかる。


「ぼくが殺すわけないじゃないですか!」


「犯人はそうやって弁解するんだよな」


「あねごさんに起こされるまでぐっすり寝ていたんですよ。

 8人目ってことも」


「お前、この状況で8人目が存在してると思ってんのか?」


 あねごさんはやる気のない拍手を送って呆れていた。

 つい口走ってしまったが、

 8人目の存在価値はゼロに等しいと、

 ハカセさんと立証していたことを思いだした。


「それは、その」


「ほーら、ボロを出しやがった。

 あたしもさ、

 デブが死んだときは、発作って理由に納得したよ。

 でもヒメがバラバラにされたのを見て確信が持てたわ。

 これは他殺で犯人はこの中にいるって。

 そしてそいつが、

 あたしたちに薬を盛ったってね」


「反論させていただきますけど、

 ヒメを殺した犯人って、

 あねごさんだって当てはまりますよ。

 昨晩、ヒメと一緒にリビングから出ていって、

 殺害してバラバラにして、

 ぼくたちが寝静まるのを見計らって、

 死体を所々に隠したんです。

 さあ、どうですか? 

 異議ありますか?」


「あのな、ヒメが死んで1番悲しいのはあたしなんだよ。

 ヒメはあたしのこと姉のように親しく接してきたんだぞ。

 殺す動機なんてあるわけねえだろ」


「あねごさんのアリバイを教えてください。

 知りたいのは動機ではありません」


「わかったよ。

 あの後リビングを出て、それぞれの部屋で別れたんだ」


「今朝は?」


「今日の朝は目を覚ましてトイレに行って戻ってきたときに、

 ヒメの部屋が微かに開いていたんだよ。

 ちょっとからかってやろうかなって、

 侵入したら、もぬけの殻でさ。

 焦ってリビングに走ったってわけだ」


「それを説明できる人はいますか?」


「いるわけねえだろ! 

 なに探偵気取ってんだよ。

 無能のくせに。

 大体あたしひとりで殺害してバラバラに解体して、

 まして隠すことって可能なのか? 

 メガネ、どうなんだよ」


 しゃがみこんでいぶかしげな表情で、

 生首を眺めているハカセさんに振られた。


「ここはヒメさんの死亡推定時刻を細密さいみつ に割り出してみましょう。

 あねごさんが部屋に戻って寝床に着いたのはどのくらいですか?」


「ヒメと別々の部屋に離れてすぐだけど、

 なかなか寝付けなくて、

 3、40分くらい仰向けになって時間潰してた」


「その時に怪しい物音は?」


「ないよ」


「と、なるとおよそ11時から、

 ヒメさんがいないことに気づいた、

 今朝の6時半くらいの間の7時間半と考えましょう。

 まずヒメさんを殺害するのに30分と考えます。

 次に遺体を運ぶのに30分。

 そうですね、お風呂場とか。

 そしてバラバラに解体するためにノコギリやら包丁やら必要です。

 地下や倉庫から持ってくるのに30分。

 暫定ざんていですが、

 これで1時間半使ったことになります。

 ここからがポイントになります。

 バラバラに切断された部位は全部で何カ所ですか?」


 ハカセさんがギロっとぼくに目力を送る。


「確か、首、左肩、右肩、左肘、右肘、胴体、

 それと左腿ひだりもも右腿みぎもも

 左膝、右膝の9箇所です」


「その9箇所をひとりで切断するのに半日、

 つまり12時間くらいかかると思います。

 その上解体の後片付けやら遺体を隠すとなると、

 7時間では不可能ですね」


「ハカセさんって人間をバラバラにしたことあるんですか?」


「予想ですよ。

 ノコギリや包丁だって血や油が付着して切れ味が悪くなって磨いたり、

 新しいものを探したり。

 重労働なんで休憩を挟んだり。

 その点を想定して割り出してみました」


 待ってくれよ。

 それじゃ時間的に不可能犯罪じゃないか。

 ぼくたち4人の中に実行できる人がいない。

 どうなってるんだ? 


「まあこれで、あたしの無実が証明できたってことか。

 でもよ、一人じゃ無理ってことも複数犯ってことはどうよ?」


 心当たりがあるのか知らないが、

 あねごさんが挑発的に責めてきた。


「つまりぼくたちの他に、

 8人目と9人目が手を組んでいるってことですか?」


 ぼくが尋ねると、


「アホ、部外者はいねえんだよ。

 しつこいやつだなほんと。

 この中に一番怪しいのがいるだろうが」


 言ってる意味がさっぱりわからない。

 だってぼくたちは記憶を失った仲間、

 仲良く手を伸ばしてここから脱出する目的がある。

 なのに殺し合うことなどあり得ない。

 しかし現に起きている。


「お前のことを言ってんだよ、

 太朗にベタベタくっついてさぁ!」


 突如、白ちゃんの視界に壁を設けるように、

 あねごさんが立ちはだかる。

 目を細め、

 歯を食いしばり、

 眉は上がり、

 顔はタコのように真っ赤だ。

 今まで何度か怒りのサインを目撃してきたが、

 これは尋常ではなかった。


 白ちゃんが殺るわけがない。

 しかもぼくと組んで。

 これは止めに入らないと。


「あねごさん、おかしいって。

 ぼくと白ちゃんが組んで、ヒメを殺すわけがないですよ」


「黙ってろ!」


 ドスの効いた声に全身の筋肉が硬直して、

 動けなくなってしまった。

 白ちゃんはあねごさんを避けるようにうつむいている。


「なあ、お前の行動を見ていると、

 あからさまに首を傾げることが多いんだよ。

 太朗にべったりくっついてさぁ。

 本当は記憶があんじゃねえの? 

 本当は喋れんじゃんええの? 

 お前が8人目じゃねえの?」


 白ちゃんはピクリとも動じなかった。

 確かにぼくと白ちゃんは、一緒に行動するパターンが多いかもしれない。

 そんなぼくも最初は疑っていた。

 けど、ぼくを殺す気になればいつでも出来たはず。

 それをしなかった。


「もう止めようぜ、仮面被ってんのはさぁ。

 そこまでシラを切るなら、

 こっちだって考えがあるんだよ」


 するとあねごさんは、

 白ちゃんの細い首を両手で握りしめて高く持ち上げた。


「……ぁ……くぁ……」


「さあ吐けよ! 

 全部てめえの目論見もくろみだって白状しろよ!」


 白ちゃんはあねごさんの手首を掴み、

 足をバタバタしている。

 地が抜けるように顔色が蒼白く染まる。

 って、なに傍観ぼうかんしてんだよ、

 早く助けないと。


「あねごさん、止めてくださいってば」


 ぼくはあねごさんの右手首を掴んで、

 白ちゃんの首から必死に剥がそうとした。


「落ち着きたまえ」


 ハカセさんも援護して、

 あねごさんの左手首を強く握りしめた。


「ちっ」乱暴に舌打ちを吐いたあねごさんは、

 あっさりと白ちゃんの首を解いた。

 白ちゃんは四つん這いになり、

 床に向けて激しく嘔吐おうとしている。

 ぼくは慎重に白ちゃんの背中をさすった。


「悪いけど、あたしはひとりで行動させてもらうよ。

 てめえらとつるむ気は、

 これっぽっちもねえかんな」


 冷蔵庫の下段に蹴りを入れて、

 ふてくされた素振りでキッチンから出て行ってしまった。 

 

 耳鳴りがするほど静まりかえる。

 ついにぼくたちの関係に亀裂が入ってしまった。

 一致団結して、

 この屋敷から出ようって誓ったのに、

 1人消えて、2人消えて。

 なんでこうなってしまったんだ? 

 わからない、わからない。

 一体何をどうすればいいのか、わからない。


「太朗くん、頼みたいことが」

 この状況で不安の色を見せないハカセさんが言った。

「白さんを部屋に連れて行って休ませてくれないかな?」


「あ、はい。白ちゃん立てる?」


 卵を温めるように、白ちゃんの肩に手を添えて起こした。

 白ちゃんの右腕をぼくの首へ回して、

 2人3脚をするように歩き出した。


「行ってきます」





 中央間の2階へ繋がる階段を上り、

 右手に曲がって3番目の奥の部屋へ。

 中に入ると白ちゃんは、

 平均台の上を歩くようにふらふらと歩いてすとんと座る。


「ちょっと埃っぽいね、換気するから」


 白ちゃんが頷いたことを確認して、

 シルクのような肌触りのカーテンを左右に寄せて窓を開ける。

 太陽は真夏のようにギラギラと輝いているが、

 吹き抜ける風はそれとなく、ひんやりしている。

 この場所が深い森の奥なのだろうか、

 それとも夏の終わりを告げているのだろうか。

 窓から上半身をむき出してみると、

 地平線まで木が青々と茂っている。

 まるでこの屋敷だけ、ぽつんと残されたような気がする。


「ん?」


 ふと左腕のあたりに気配を感じて向くと、

 白ちゃんが遠くを見ている。

 マネキンのように顔の部位を変換させないので、

 感情を読むことは出来なかった。


「忘れてた、白ちゃんの毛布持ってくるから待ってて」


 窓から身を引き、振り向いて部屋から出ようとすると、

 ぷにぷにと、

 柔らかいゼリーのような物体がしがみついてきた。


「どうしたの?」


 呼びかけても力を緩める気配もない。

 うーん参ったな。これじゃ動けないよ。

 かといって無理に外すのも気が引けるし。

 そんな湯たんぽのような、

 じんわりと生暖かい温もりを背中で感じていると、

 1分ほどで白ちゃんは手をほどいてくれた。


 すると、ぼくの背中をキャンバスにうなじのあたりから、

 順番に下へ文字を描く。


 その言葉は、「ごめんなさい」


 すぐに意味がわかった。

 白ちゃんは自分自身のせいであねごさんに、

 ぼくが容疑にかけられたことを謝っているのだろうと。

 ぼくはくるっと反転して白ちゃんと向き合いながら、


「気にしなくても大丈夫だから、ね」


 両肩を優しく叩き部屋を後にした。





 リビングからタオルケットと毛布を3枚ずつ抱えて、

 ハカセさん、白ちゃん、

 そして自分の部屋に配り終えて中央階段を下りる。


 そういえばハカセさんはどこにいるのだろう? 

 きょろきょろと見渡しても、

 影すら目撃することはできなかった。

 となると、地下? 

 いや、ヒメの首を持って両足があった部屋に行ったのかもしれない。

 直感を信じて左に曲がりその部屋を覗く。


「ハカセさん、いないや」


 いないだけではなかった。

 バラバラにされたヒメの身体が煙のように消えていた。


 どこかに移動させたのだろうか? 

 もしかしたら全部揃ったからって、

 外に持って行ったのかもしれない。


 部屋を出て、中央階段をすり抜け玄関の扉を開ける。

 まぶしい光が頭に刺さって、

 グラっとバランスを崩しそうになった。


「息を切らして急用かい?」


 ハカセさんが右から歩いてきた。


「いえ、自分でもわかりませんが、

 走ってきちゃって。

 で、ヒメの遺体なんですけど」


「ごめん。勝手に移動させてしまって。

 あの場所に並べておくのも気の毒と感じて、

 外に運んでおいてきたよ。

 色々と調べておきたいしね」


「なにか変わったところってありましたか?」


 ハカセさんの表情がどんより曇がかかってきた。


「実はヒメくんの遺体には、

 複数の弾薬がめり込まれていたんだよ。

 ひょっとしたら銃殺された後に、

 バラバラにされたってことだろうと思って」


 ハカセさんがそう考えるのも無理はない。

 逆にバラバラにした後に身体中に弾薬を撃ちまくったら、

 それはそれで犯人の行動が狂っている。

 弾薬ってどこかで見たような。


「あ!」ぼくが驚き声を上げるとハカセさんは、


「心当たりでもあるのかい?」


「実はヒメを捜索中に、

 白ちゃんと一緒に中央間に続く廊下で、

 弾薬が地面に残ってて……

 でも、最初からあったものかもしれないし、

 特定するのはちょっと」


「そうだね。

 足元だったら僕も素通りしてることも多いからね。

 これ以上ヒメくんの死因を追求してもムダかな」


 一息入れたハカセさんは更に続ける。


「それともう1つ。

 熊さんの遺体を覗いてみたら、

 全身の皮膚が青く変わっていてね。

 腐敗速度が昨日の比べると早くなっているんだよ。

 本来夏場だと下腹部が青くなって屍臭を出すんだけど、

 全身が青く変色するなんて……」


「でも腐る早さって、

 気温とか体型とかで変化しないんですか?」


「それもあるよ。

 一般的に夏場は温度が高いから腐りやすい。

 逆に冬場は低いから腐りにくい。

 まあ生ものを常温で放置したらどうなるかって、

 考えたほうがわかりやすいかな。

 でも書斎に倒れていた男性の遺体と照らし合わせてみたけれど、

 男性の遺体も腐敗が進んでいるね。

 どうしてだろう? 

 昨日ってそんなに暑かったかな?」


 頭を左右に振ってハカセさんは考え込む。

 そもそも腐敗速度なんて真剣に考えることなのだろうか?

 もっとやるべきことがあるはずだ。

 あねごさんの機嫌を取ったり、

 SOSを出して助けを呼んだり、

 脱出の手立てを考えたり。


 そうだよ、見えない犯人を捜すより、

 脱出の手段を試したほうがまだ利口だ。

 ぼくはハカセさんの頭を切り換えてもらうように水を差した。


「人が死んで腐る順番って、

 100パーセント時間経過と一致するんですか?」


「いや、そうとは限らないね。

 太朗くんが言ったように温度や湿度、

 体型や死因とかで症状が変わるから、

 一概にはっきりしたことは証明できないよ」


「じゃあ、たまたまってことではないんですか?」


「ひょっとしたら、そうかもしれないね」


 ハカセさんはどうも腑に落ちない様子。

 確かに犯人捜しも、

 身の安全を確保する一つの手立て。

 気持ちはわかる、

 話題を変えてみるか。


「ところであねごさんも言ってたんですけど、

 遺体をバラバラにすることって、

 ひとりだったら不可能でしたよね? 

 でもペアだったら可能なんですか?」


 ほんの数秒だけ間を置いて、


「いや、変わらないと思うよ。

 根本的に人間をバラバラにするのが早い人って、

 いないんじゃないかな? 

 効率的に上がると思うけど」


 やはり不可能か。

 もしも共犯だったら、

 あねごさんとハカセさん。

 あねごさんと白ちゃん。

 ハカセさんと白ちゃんの3パターンになる。


 もしこの3人がグルだったら……。

 今、ぼくを生かしている意味はあるのだろうか。

 しまった、つい犯人捜しに陥ってしまった。


「ところで、なぜヒメさんの遺体をバラバラにしたと思うかな?」


 ハカセさんが真顔で責めてきた。

 そういえばヒメがいなくなったって知らせが入ってから、

 ふざけたハカセさんを見たことがなかった。


 ヒメをバラバラにした理由……。

 心底で復唱する。

 なんでだろう? 

 こっちが聞きたいくらいだ。


「殺しても満たされることのない、

 恨みがあったとくらいしか思いつきませんね」


 うんうんと、はかせさんは納得顔で小刻みに頷いた。


「それも動機の1つだね。

 その他にはバラバラにすることによって、

 死体を運びやすくしたりする。

 この理由は力のない女性が及ぶパターンが多いらしい。

 付け加えると、隠しやすくすることもある。

 そしてもう1つは身元不明にすることかな。

 身体の部位を広範囲に放棄することによって、

 犯人の足跡を消すってこともあり得るね」


 ハカセさんが動機を並べてみても、

 ヒメが殺害された理由がわからなかった。

 たまたまだろうか、

 それとも何か見てはいけない物を見てしまったのだろうか。


「そんな眉にしわを寄せても出ないから、

 この話はひとまず置いておこう」


 ハカセさんの口角が少しだけ上向いた。


「ですね。それよりこれからどうしましょうか?」


「実はもう一度、

 道を下って川がどうなっているか確かめようと思っていたけど、

 今の状態では、

 あねごさんと白ちゃんを放置できないので下山は明日に回そう」


「明日ですか?」


 正直驚いてしまった。

 このまま泊まれば、

 次の犠牲者が出る可能性があるのに。

 ハカセさんの答えは悠長だった。


「太朗くんの気持ちもわかるよ。

 一刻も早くここから離れたいってね」


「だったらぼくひとりでも下りましょうか? 

 運良く向こう岸の舗装ほそうが始まっているかもしれませんし」


 ぼくたち4人で下りたときから2日が経過してるんだ。

 きっと向こう岸で最低でも橋の崩壊に気づいている人がいるはず。

 だがハカセさんは、口を一文字にして同意に迷っていた。

 更にもう一押しすることにした。


「見てくださいよ、

 この晴れ晴れとした雲一つない空を。

 これは天が授けてくれたチャンスですって。

 もし明日から土砂降りの雨が続いたら、

 下山なんてとても、とても……」


「でもね、今は晴れてるかもしれないけど、

 山の天気は移り気が激しいよ。

 大荒れになるってこともあるから」


 頑固にもハカセさんは一歩も退いてくれなかった。

 あの方法を使ってみるか。


「要するに天気が崩れなければいいんですね?」


「そうだね」


「車のラジオで確かめてみませんか?」


「あの車は、あねごさんが乗っておシャカにしてるから無理だね」


「ラジオくらい聴けますって」


 ハカセさんを尻目に、

 ぼくは真っ直ぐに走ってコンクリートの一本橋のところへ。


「あ……」


 立ち止まってしまった。

 ……ない。ないんだよ! 

 橋がないんだよ。


「太朗くん、怖じ気着いたかい」


 ゆっくりと背後からハカセさんが忍び寄る。


「橋がないんですけど」


 くっきりと切り抜かれた漆黒の谷底を見下げた。


「こ、これは一体」


 ハカセさんは、

 ぼくの右横で魂の抜け殻のように、

 ぽかーんと立ち尽くしてしまった。

 こっち以上に驚いている。

 でもなんかおかしい。


「橋が消えているのって、

 今気づいたんですか?」


 ハカセさんは言葉も出さずにゆっくりと頷いた。


「あねごさんとハカセさんで、

 ヒメの行方を捜すのに外に出ましたよね?

 なんで気づかなかったんですか?」


「向こう側を探そうとしたときに、

 ヒメさんの腕を見つけてしまって、

 僕もあねごさんも動揺していたから、

 橋の存在までは確認していなかったんだ。

 すまない」


「はあー」


 もはやため息しか出なかった。

 ハカセさんを責めるつもりはない。

 同じ境遇に立たされたら、

 ぼくだって見逃していただろう。


 これで完全にこの屋敷に取り残されてしまった。 

 でも、いつ壊れたんだろう? 

 当てはまるとしたら、

 ぼくたちが寝ている間しかない。

 でも、壊すにしたってそれなりの衝撃音が響くはず。

 寝ていたって飛び起きずにいないのはおかしい。


「恐らく小型爆弾で、

 根の部分を爆発させて、

 すとーんって谷底に落としたみたいだね」


 ハカセさんが底を覗き込みながら言った。

 そこでぼくは、


「でも爆弾を使っていたのに、

 誰も気づかなかったっておかしくありませんか?」


「確かにそれだと振動もプラスされるわけだから気づくはず。

 だとすると、小型爆弾を複数忍ばせて粉砕させて谷底に落とす。

 この仮説だったら辻褄が合いそうだ」


 うんうんと自己満足にハカセさんは頷いた。

 いずれにせよ壊れた橋は戻らない。

 ここからどうやって渡るかが先決だ。


「ところで太朗くんは頭は大丈夫かい?」


 失礼なことをハカセさんは口走ってきた。

 カチンときたぼくは、


「どうせハカセさんと違って悪いですよ!」


「僕が言いたいのは頭痛のことなんだけど」


 おでこを押さえながら下を向いている。

 額にぽつぽつと汗が滲んでいた。


「意識していなかったですけど、がんがん響きますね」


 そういえば鎮痛剤を飲むために、

 キッチンへ向かい冷蔵庫を開けたらヒメの首が落ちてきて。

 事件が重なり合って、

 一時的に痛みが吹き飛んでいたらしい。


「今は足掻あがいても仕方ないから、

 ひとまず薬を飲んで一休みをしよう」





 ハカセさんの提案で、

 ぼくはキッチンへグラスに水を注いで、

 リビングのテーブルに放置していた鎮痛剤を口に入れた。


「全然効果がないですね」


「すぐには効かないよ。

 その薬、白さんにも持っていってあげたほうが良さそうだね」


「あ……はい」


 ぼくたちはリビングを出て、

 キッチンで再びグラスに水を注いで、

 中央間に向かい階段を上る。

 カッカッっとぼくたちの足音だけが叫ぶだけで、

 不気味なくらい静まりかえっていた。


「じゃあ僕の部屋はこっちだから。

 ゆっくり休もう。

 それと毛布運んでくれてありがとう」 


 ハカセさんは優しく手を振ると、

 左へ曲がり、あねごさんの部屋を通過して自室に入る。

 ぼくは右へ曲がり、

 奥の白ちゃんの部屋のドアをノックする。


「白ちゃーん」一応叫んでみる。

 ぼくの声色はわかっていると思うんだが。

 もし反応がなかったら眠っているはずだ。

 ……そう考えたい。


 キィーっとドアが開くと白ちゃんが小首を傾げる。


「あ、これ薬と水。

 ほらさっき飲むの忘れていた鎮痛剤だから」


 すると白ちゃんは身体を少し傾ける。

 どうやら部屋に入ってって意味らしい。


「ううん、ゆっくり休んで。

 ぼくも一眠りするから。

 何かあったら隣の部屋にいるから叩き起こして構わないよ」


 横に手を振りながら白ちゃんの部屋を離れて自室へ戻る。

 ドアを開けてすぐさまベッドへ身を委ねるた。

 コロンと仰向けになり、

 床板がぎっしりと詰まった天井と対峙たいじする。

 室内はカーテンを閉め切っており、

 埃っぽい臭いがふわふわと舞っている。


 これからどうするんだろう?


 橋が壊れてしまい、ぼくたちは袋小路に。

 通信手段もなく外部から助けが来るのを待つしかなかった。

 けれど、このまま指をくわえていても仕方ない。

 食糧的な問題もあるが、3人も死んでいる。

 どれも他殺の可能性が濃密だ。

 熊さんの殺害に至っては、

 みんなアリバイがなかった。

 つまり誰でも犯行が可能。

 ヒメに至っては全員犯行が不可能。

 およそ8時間で殺害してバラバラにして隠す。

 おまけに橋を爆弾で壊すなど時間的に無理らしい。

 やはり第3者の8人目の仕業のような気がするんだが、

 あねごさんは完全否定する。

 熊さんを殺害した人物と、

 ヒメを殺害した人物が一緒とは思えない。


 ……一緒? 

 同一人物なのだろうか? 

 誰も一緒なんて言ってない。

 仮に何らかの理由で熊さんを殺した犯人をヒメだとしよう。

 そしてその犯行を誰かに見られて、

 口論になりヒメは殺されバラバラにされた。


 ……だめだ、ぼくたち4人の中では犯行は無理だ。

 殺しただけだったら時間的実行可能なんだが、

 バラバラにするとなると。


 そもそもなんでヒメの遺体をバラバラにしたんだ? 

 恨み? 

 運びやすさ? 

 身元を不明にすること? 

 どれも動機に一致する。

 バラバラ殺人の動機、

 恨みなら例えバラバラにしなくても、隠す必要がない。

 運びやすさにしても、谷底に放り投げて隠したほうが早いはず。

 ってことは、身元不明にすることなのだろうか。


 その時、ぼくの脳天から稲妻が走った。


 そうか! 犯人はあらかじめバラバラの遺体を用意していた。

 そして熊さんを殺害した次の日に、

 身体の部位をランダムにまき散らす。

 そして頭は瓜二つにメイクして冷蔵庫へ。

 自分はかさず身を隠す。

 こちらは動揺して細部まで見破れないはずだ。

 こんなことが実現できる人物はひとりしかいない。


 8人目はあいつだったんだ。

 だが、決定的な動機がわからない。

 これまでの経歴を考えてみるとした。

 書斎の机にあった人体実験の書き置き。

 それと車内のラジオの後で耳にしたハカセさんの発言。

 確か、


『ここにいる全員が犯罪者かもしれない』


 つまりぼくたちは、記憶を失う前に、

 犯人に何らかの危害を加えたのかもしれない。

 それも殺人に値する何かを。


 もう1つ考えられることは、

 儲け話があるとかで、

 屋敷に集められて薬を打たれる。

 そして恐怖を与えるようにひとりずつ消していくパターン。

 これは動機に当てはまらないか? 

 どちらにせよ一晩でひとりずつ消していくに違いない。

 早くこのことをみんなに知らせないと。


 飛び起きたぼくは「待てよ」と踏み止まった。

 疑いたくはないが、

 共犯者が存在するかもしれない。

 仮に密告みっこくされたら真っ先にぼくが狙われる。

 もし共犯者がいなくても、

 この屋敷は犯人のテリトリーだ。

 あらゆるところに、

 盗聴器や監視カメラが仕込んであってもおかしくはない。

 要するにここは知らないフリをしておこう。

 そして今晩、犯人が動くのを待つんだ。

 捕獲して洗いざらい吐いてもらおう。

 真相を知るのは怖いけれど、

 ぼくが生きる道は他になかった。


 さて、これからどうしよう?

 屋敷内をうろつくにしても、

 どこに目が光っているのかわからないし。

 かといって、この部屋も監視されているとは言い難い。

 言動には慎んでおこう。 

 だけど犯人に目星がついたとしても、

 次のターゲットが予想できない。

 ぼくかもしれないし、ぼくじゃないかもしれない。

 どうやって太刀打ちすべきか? 

 護身用として武器は必要だ。

 丸腰では話にならない。

 そんなぼくは対犯人戦に備えて、

 地下の武器倉庫に行くことにした。





 地下の暗い階段を下りた。

 ここはいつ来ても幽霊が出そうで薄着身悪い。

 ましては初の単独行動。

 武器があった部屋は一番奥。


 ぼくがドアを引くと、

 ギギギィっと鈍い悲鳴をあげた。

 スイッチを押すと、

 天井の蛍光灯が目を覚ます。

 念のため部屋中を確認するが誰もいない。


 ん? 気のせいだろうか、

 棚に空白が見受けられる。

 そこになにがあったのかは詳しく覚えてない。

 ピストルだろうか、サバイバルナイフだろうか。

 あれ、そういえば1メートル弱はありそうなライフルもない。

 物騒だと感じて誰かが持っていったのだろうか。

 そういえば他に小型爆弾があったような。

 注意深く探してみるが箱ごと消えていた。

 やはり橋を崩壊させるのに使ったと思われる。


 残っているのは手のひらサイズのピストル2丁と、

 サバイバルナイフ1本。

 ピストルは使いこなせる自信がないので、

 サバイバルナイフを選択。

 個人的には防弾チョッキが欲しかった。

 もし各自、武器を持参しているならば、

 それなりにこちらも警戒しなくてはならない。

 ぼくみたく護身用として持っているのなら構わないが。


 でもなぜこんな武器倉庫を設けたのかがわからない。

 単純に考えれば、

 主のコレクションなのが1番しっくりくる。

 だけど今の状況を思うと、

 殺し合いの道具になりかねない、引き金1つで。

 もしかしたら犯人の狙いの矛先は、

 そちらに目をいて嘲笑あざわらってることもあり得る。

 なぜだか知らないが、

 ひとりでいる時間が増えてしまって、

 考えることが多くなってしまった。

 他に何か必要なものは、情報くらいか。

 すると書斎の引き出しに封印しておいた、

 読みかけの日記を思い出した。



 階段を上り長い廊下を渡ると中央間に到着。

 右手に曲がり書斎に入る。

 ずっしりと構えている本棚には、数冊ほどのスペースがあった。

 もちろん、のろしのために拝借したのだ。

 机の引き出しを開けると、

 日記は無事に眠っている。

 無心に数十ページほどめくっていくと、

 ぼくの手がピタリと止まった。

 それは新たな来客のことが書き綴ってあったからだ。





『7月30日、明日から一人娘のきりが私の研究の手伝いに訪れる。

 夏休みと休暇を兼ねて取得し、

 長期滞在するらしい。

 きりには何度もこの記憶喪失の薬に携わってもらっている。

 娘には犯罪による被害者のトラウマ体験を消すため

 と依頼を受けていると言っているが、

 実は私個人的な依頼なのだ。


 あれは昨年の暮れ、中学の同窓会が行われた。

 40年ぶりに再会した友人と昔話に花を咲かせたものだ。

 お開きになり友人とプライベートで居酒屋で二次会をすることになった。

 話は現在のことに変わっていた。

 なんと彼は宝くじで10億円当選したらしい。

 だが、その言葉とは裏腹に、

 彼の顔はしわだらけで苦労を重ねていた。

 日本では高額当選者の個人情報は守られているが、

 彼の急な羽振りの良さにまわり友人や知人が嗅ぎつけてきたらしく、

 ハイエナのように群がっていたらしい。

 そして金が底に着くと薄情なことに皆去って行く。


 どこかで聞いたような話だ。

 そう、小学生くらいに国語で習った杜子春とししゅんと一緒だ。

 そんな彼が私に相談してきた内容は、

 記憶を消す薬を開発してほしいということ。

 人間不信に陥った彼はエピソード記憶だけを消して、

 地味に1から田舎でひっそりと暮らしたいらしい。


 人間不信に陥っているのに、

 なぜ私を信じて相談してきたのだろう。

 このことを口にするのは止めておこう。

 記憶力をアップさせる薬ならともかく消す薬なんて。


 時間がかかるかもしれないが、と付け加えて私は了承した。

 人間誰しも生きている限り、

 ひとつやふたつ心の傷を持っている。

 その傷を和らげられるとしたら、

 どんなに嬉しいことか。

 少々長くなってしまった。

 完成したあかつきには、再度彼に真意を求めるつもりだ。

 そして、きりにすべてを打ち明けるとしよう』





 ……こんな目的で記憶喪失の薬が開発されていたなんて驚きだ。

 真相を聞いたからって記憶が回復するってことではないんだが。


 それよりも気になっていたんだが、一人娘のきり。

 ぼくたちに薬を打った人物かもしれない。

 要するに書斎の男性、

 つまりこの屋敷の主が死んでしまった今、

 薬を知っている人物はきりだけだ。

 深掘りすると全員が記憶喪失ではなくなる。


 あねごさん、ヒメ、白ちゃんの3人に絞られるはずだ。

 いや待てよ、

 大げさかもしれないが、

 性転換をすればハカセさんと熊さんも一人娘に当てはまる。


 ぼくは……記憶がないので例外だろう。

 なにせ、自分自身に記憶喪失の薬を打つやつなんていないのだから。

 他に当てはまるとしたら、

 犯人のダミーでバラバラにされた死体の可能性もある。

 こう考えるといくらでも憶測が湧いてくるから困ってしまう。

 いずれにしろ、犯人を捕まえて吐かせるのが手っ取り早い。


 ぼくは更にページをめくる。

 1ページごとに流し読みながらめくっていくと、

 手がかりになりそうな文章にたどり着いた。





『8月20日。

 明日、きりの友人がこの屋敷に泊まりがけで遊びに来るらしい。

 基本、この場所は関係者以外立ち入り禁止区域なのだが、

 缶詰続きのきりにとっては、

 気分転換になるのでその点に許すことにしている。


 まさか男じゃないだろうな?


 と、尋ねてみたが返事が返ってこない。

 妻を亡くして手塩にかけた玉のような一人娘。

 きりが認めた相手なら、私は喜んで迎えよう。


 そういえば遂に記憶喪失の薬が完成した。

 いくら頼みとはいえ、

 悪影響を及ぼす薬は作りたくなかったので複雑な心境だ。

 効果も一時的なのか半永久的なのかわからない。

 まだマウスに注入して脳波は試していないが。

 臨床試験をどうするべきか悩んでいたところだが、

 明日解決しそうだ』





 ……おい、このおっさん怖ええよ。

 ってことは、おっさんの死を利用して、

 きりが忠告文を作成し、この机に置いた。


 あたかもぼくたちの他に、誰かがいることを示すように。


 その後はどうなったんだ? 

 ゆっくりとページをめくると白紙になっていた。

 日記が途切れているってことは、

 この後に何か大事件が起きておっさんが死んだことになる。


 一体この屋敷で何が。


 ぐぅー。

 その時、不謹慎にもあらずぼくに胃袋が叫んだ。

 こんな状況でも腹は減るんだな。

 そういえばあねごさんに叩き起こされてから、

 水と薬しか口に放り投げていなかった。


 そんなぼくは、満腹を求めてキッチンへ足を運んだ。

 もちろん誰もいなく、冷蔵庫のブォーンとうなる声しかしない。


 なにか食べ物は? 

 徐に手を伸ばしたのは冷蔵庫の中段の取っ手。

 すると頭の中で数時間前の出来事が蘇り、凍り付いてしまった。

 そう、生首がことんと落ちてきたところだ。

 さすがにないと確信しているが、

 トラウマに支配されてしまい、

 開けることを諦めた。

 戸棚に缶詰が残っているはずだ。

 戸棚へ向かおうとすると、キッチンの扉が開いた。


「太朗くんも小腹が空いているのかい?」


 ハカセさんだった。

 のそのそと、ぼくの目先まで歩いてきた。


「小腹どころじゃないですよ。

 もうペコペコで」


「朝からなにも食べていなかったからね。

 君も抵抗あるんだね。

 普通の人なら、

 死体を目撃したら1日くらいは何も口にできないはずだよ」


 ジョークのつもりで言ったつもりだろうが、

 ハカセさんの顔には微笑みの兆しはなかった。


「この時期だからパンは腐ると思って、冷蔵庫に入れておいたよ」


 ハカセさんはぼくに冷蔵庫を開けてくれと、オブラートに包み込む。


「ですかね」


「そっか、すまない。

 僕がパンと何か出しておくから、

 太朗くんは適当に缶詰を頼むよ。

 リビングで一緒に頂こう」



 リビングに着いたぼくは、

 胸に抱えていたツナやサバ缶などをテーブルに並べる。

 時計を眺めると午後1時を通過したところ。

 窓から差し込む光も徐々に傾いてきた。

 ハカセさんが来るのまで特にやることがないので、

 椅子にだらりと腰掛けて待つことに。

 缶詰の蓋を開けておこうかと思ったが、

 保存の高い貴重な食材なので、無闇に開けることはしなかった。


「おまたせ」


 ハカセさんは銀のトレイに、

 4枚の食パンとイチゴジャム、

 それとマーガリンにピーナッツバターと積んできた。

 テーブルの上に食パンを並べる。

 オーブンレンジで温めてきたらしく、

 湯気がゆらゆらと昇っている。


「いただきます」


 ぼくは食パンを1つ掴み、

 スプーンの裏でピーナッツバターをふんだんに塗りつぶすと、

 迷わずにかぶりついた。


「そうそう、飲み物持ってこなかったね」


 ハカセさんはリビングを抜けると、

 1分経たずに牛乳パックとグラス2つを持ってきて注いでくれた。


「ありがとうございます」


 罪悪感もなしに、一気に牛乳を飲みほしてほっと息をついた。

 ハカセさんは食パンの片手にマーガリンを隅々まで塗っていく。

 まるで大工さんがコンクリートを塗るくらい丁寧だった。

 こういうのって性格が出るんだな。

 そんな静かな時間がゆっくりと過ぎていく。

 1枚目を完食したぼくは、

 2枚目の食パンにマーガリン、

 そしてその上にイチゴジャムを塗ってパクッと一口。

 うん、おいしい。

 意外にも腹に溜まるな。


「缶詰開けようか?」


 対峙して座っていたハカセさんがツナ缶に手を伸ばす。

 正直いらないかもしれないが、

 ひとつくらいならいっか。


「ハカセさんは食べます?」


「2枚目を食べてからだね。

 でも太朗くんがせっかく持ってきてくれたから」


「ぼくはいらないかなって、思っていたところですよ」


「開けないでおこうか」


 手を引いたハカセさんは再び食パンを。

 それ以降、リビング内は咀嚼する音だけが鳴った。 

 風が入ってきたらしく、

 窓際のカーテンがゆらゆらと泳ぎ始める。

 ぼくの推理をハカセさんだけでも言っておくべきだろうか。


「ハカセさん」

 ぼくがそっと叫ぶと口を止めて見つめ返した。

「あ、いや、この先どうしましょうか? 

 橋も壊れてしまったし」


 だめだ、言えなかった。

 盗聴器の気配と信憑性しんぴょうせいの度合いが高くて、

 あさっての方向へ口走ってしまった。


「外部との連絡が取れれば最良なんだけど、

 助けが来るまで待っているしか手立てが浮かばないね。

 架け橋を作るってのも1つ方法だけれど、

 これはこれで至難しなんわざだね。

 まずはあねごさんと和解して、

 一致団結して案を出し合った法がよさそうだね」


「ですね」短く同調した。

ハカセさんも一応考えているんだな。


「ところで太朗くんは記憶が戻ったらどうする?」


 唐突に聞いてきた。

 まさにさっきまでぼくが探していたものと微かに一致した。

 だけど変な質問だった。


「戻ったらですか? 

 うーん、答えが出てきませんよ。

 そもそも戻った時点で今、

 この状況に置かれてるかもしれないし、

 脱出しているかもしれないし。

 欲を言えば、お腹いっぱい好きなものを食べて、

 不安を忘れてふかふかのベッドで寝ることですかね」


 うんうんと頷いていたハカセさんは、


「僕は……過去の過ちを清算をしたい」


 言っている意味がわからなかった。





 満腹になったぼくは、

 ハカセさんと別れて自室で仮眠を取ることにした。

 目を覚ますと、部屋の隅からゆっくりと夕闇が流れ込んでいた。

 どのくらい眠ってしまったのかわからないが、

 頭に被さっていた石がぽろりと取れたくらい快調だった。

 ぐぐぐっと背筋を伸ばしてストレッチをし、部屋を後に。

 階段を下りてリビングへ繋がる1本の廊下を歩く。


「う、なんだこれは!」


 思わず鼻をつまんでしまうくらいの異臭が広がったいた。

 キッチンのほうからだ。

 半開きになっているドアを恐る恐る開ける。

 すると白ちゃんがガス台に、鍋をかけてお玉でかき回していた。


「白ちゃん?」


 ぼくが声をかけると、白ちゃんは手を休めて首を向ける。

 そして再び鍋をかき回した。

 異臭の原因を探ろうと、

 白ちゃんに近づいて鍋を覗き込む。


 黄土色の液体が時計回りに渦を巻いている。

 正体はカレーだった。

 隣のコンロでは鍋が蓋を閉じており、

 その隙間から白い湯気が立っていた。

 この甘い匂いはごはんだ。

 正直カレーは食べたくなかった。

 おっと手が滑った、とかいって鍋をぶちまけてしまおうか。

 いや、白ちゃんのひたむきな姿勢にそんなことはできない。


 カレー鍋の火を止めた白ちゃんは、

 ごはん鍋を開けて、しゃもじでかき回していた。

 するとぼくに目線を合わせた後に戸棚を見つめる。


「はい、わかりましたよ」


 どうやら人数分の皿を持ってこい、と指図したらしい。

 4枚の皿を手にぼくは水洗いをする。 

 左横の台には、

 まな板と包丁、

 そして人参のヘタとジャガイモと玉ねぎの皮、

 開封済みのカレールーとこげ茶色の小瓶が並んでいた。


 1枚目の皿を洗い終えて水滴を拭き取り白ちゃんに渡す。

 白ちゃんはその皿にごはんを敷いてカレーをのせる。

 なんとも微笑ましい光景だった。

 よくできたお嫁さんって感じがする。


 カレーの持った皿を中央のテーブルに置いた白ちゃんは、

 何かを思い出したようにポンと手を叩く。

 そしてまな板の近くにあった2つの瓶を寄せて蓋を開ける。

 この空間にいたら脳が溶けそうだ。

 何か口実を見つけて抜けだそう。

 するとシンク脇に座っている台ふきんを目撃した。

 これだ! 

 と思わんばかりにぼくは、


「先に行ってて、テーブル拭いておくね」


 白ちゃんは表情を変えずにコクリと1回頷いた。



 リビングの明かりをつけて、

 湿った台ふきんでテーブルの上を隅から隅まで拭いた。

 これでよしと。

 作業は1分もかかからなかった。

 キッチンに戻る気はないので、

 椅子を引いて腰をかける。


 ふと時計を見上げると7時に差しかかっていた。

 もう12時間経つんだ。

 仮眠を取ったにも関わらず、

 時間が過ぎるのが早く感じる。

 腕をだらーんと下げて天井を仰ぐ。


 次の犠牲者は一体……。

 毎晩、ひとりずつ殺されていく。

 もしぼくだとしたら対抗できるだろうか。

 それとも他の人だったら。

 とにかく動きはあるはずだ。

 待つしか道はない。

 犯人を捕まえてここから脱出するんだ。


 ん? 脱出? 

 そういえばあねごさんと白ちゃんは、

 橋が壊れていることを知らないはずだ。

 別に口止めされているわけでもないし、

 夕食の時でも話しておこう。


「この臭いは?」


 全身の毛を逆立てながら新鮮な空気が流れる窓際へ退却した。

 リビングに入ってきたのは、

 両手にミトンを装着した白ちゃんがカレー鍋を挟んできた。

 こぼさないようにゆっくり歩きながら中央テーブルに近づき止まる。

 じっと動かない。

 どうやら鍋敷きを忘れたらしく、

 中央を一点集中に見つめている。


 どうするんだろう? 

 と、眺めていると中央にカレー鍋を置いて駆け足でリビングを出て行く。

 そして鍋敷き2つと皿を3枚持ってきた。

 カレー鍋の下に鍋敷きを乗せて、

 再び出ていこうとする白ちゃんを呼び止めた。


「手伝うよ」


 そしてぼくはキッチンからごはん鍋を持ってくると、

 白ちゃんはグラス4つと水筒を乗せてきた。

 これで全部かな。

 バタバタと忙しかったが役者は揃ったようだ。

 すると白ちゃんは最初に分けたカレーを自分の手前に置いて、

 ぼくの右隣にきてごはんとカレーを分けてくれた。


「ありがとう」


 と、礼を述べる。

 さてここからが問題だ。

 せっかく白ちゃんが、

 腕を振るって作ってくれた料理を食べないわけがいかない。

 でも、よりによってカレーだなんて。


「ハカセさんとあねごさんを呼んでくるから待ってて」


 取りあえず時間稼ぎをすることにした。

 ぼくがリビングを出ようとすると、

 ドア越しに足音が近づいてきた。


「あ」


 ドアが開くとあねごさんの目線にあってしまった。

 犯人扱いされてから、

 ばったり姿を眩ましていたので、

 かなり気まずい雰囲気に突入。


 ここは、ぼくから謝るべきだろうか。

 いや、あねごさんだって非がある。

 最初に突っかかってきたのはそっちだから。

 ぼくから先に頭を下げたら、罪を認めてしまうことになる。

 難しいさじ加減だった。


「そうぷんぷん怒んなよ。

 あたしが悪かったからさぁ、すまねえ」


 先に頭を下げてきたのは、あねごさんのほうだった。

 どうやら黙ってじっと見つめていた行為が、

 怒っていると感じたらしい。


「夕食ができたので、

 あねごさんたちを呼びに出ようとしていたんです。

 ぼくのほうこそすみません。

 疑ったりして」


 もちろん、急に和解を求めてきた理由など読めない。

 ぼくと同じく犯人に目星がついたのか、

 それとも何か裏があるのだろうか。

 どちらにせよ距離は置いて接しておこう。


「白、悪かったな。

 さっきは首を絞めて。

 あたしってバカだからさぁ、

 ちょっと変わったことあると都合よく誰かを疑っちまうんだよ。

 部屋に閉じこもってじっくり頭冷やしてきたよ。

 今まで共にゴールを目指してきた仲間を犯人扱いするなんて。

 すまねえ」


 ぼくの脇を素通りしたあねごさんは、

 白ちゃんの前に立って、

 何度も何度も誠実に謝罪をした。

 白ちゃんは可愛らしく首を振った。

 これであねごさんへの和解が成立した。


「お、今日はカレーか。うまそうだな」


 クンクンと子犬のようにわざと鼻を鳴らしたあねごさんは、

 テーブル上のカレー鍋を物珍しそうに覗く。


「臭いが部屋中に充満してるのわからなかったんですか?」


 鼻をつまんで左右に手をあおぎ、

 ぼくはあねごさんに激臭アピールをする。


「リビングに近づくにつれてわかってたさ。

 カレーはカレーでも、

 うどんとピラフだったあるだろ。

 も、もしかしてカレー嫌いなのか?」


 あねごさんはあごが外れるくらい大きく口を開けて、

 一歩二歩と後退りをする。

 まるで雷に打たれたくらいの衝撃を与えてしまったようだ。


「人間なんだから1つくらい嫌いな食べ物だってありますよ」


「まあ、誰しも1つはあるわな」


 うんうんと胸のあたりで腕を組んで強く同意してくれた。が、


「だがカレーだけは別格だ。

 太朗の味覚おかしいんじゃねえのか。

 鼻孔びこうをつーんと撫でる、

 ならではの優しい匂い。

 つま先から頭のてっぺんまで伸びる衝動的なスパイス味。

 嫌いなやつがいるなんて、

 ちゃっちゃらおかしいぜ」


 ころっと手のひらを返してきた。


「世の中にはたくさんの人がいて、

 たくさんの食べ物で溢れているんですよ。

 ぼくが嫌いな食べ物のくじを引いてしまったのが、

 たまたまカレーだったわけで、

 何1つ不思議なことなんてありません」


「じゃあ水が飲めない人間っているのか?」


「それは、水はすべての生物と植物に必要なものですし、

 味もしないので飲めないって人はいないですよ」


「あべこべだな、言ってることが」


 うぐっ。一歩引いてしまい反論できない。


「まあ許してやるわ。

 冷めちまうから早く食べようぜ。

 太朗もそんなとこでボケッとしてないで、

 こっちに来て座れよ」


 皿を左手にあねごさんが、

 しゃもじで、ほかほかのごはんを右半月に装う。

 ごはんを平らにして、カレーをかける白ちゃんとは別タイプだ。

 テーブルへ戻るぼくの足が止まる。


 そういえば何か忘れているような。

 人数分の皿を見て、あっ、と思い出した。


「ハカセさんのこと忘れてました。

 呼びに行かなくちゃ」


「寝てんじゃねえのか。

 来るときにあたしがノックしてやったけど、

 うんともすんとも返ってこなかったし。

 そっとしておいたやったらどうだ?」


 お玉を手にカレーをたっぷりと盛りながらあねごさんが言う。

 確かに数時間前、一休みしようと別れたはず。

 なおさら起こしに行くのも気の毒になってきた。


「ですよね。ハカセさんのことだから勝手に起きてきますよね」


 止めていた足を動かして椅子に座る。

 目先の現実に顔を背ける。

 白ちゃんが分けてくれたカレーがあった。

 さてと、これをどう処分するか。


「んー、うまい。絶品。

 やっぱこの味。

 けどあたしは、もうちょっと辛くてもアリかな」


 左横では、あねごさんが頬を弾ませて次々と口へ放り込む。

 ぼくからしてみれば、

 味覚が狂っているとしか思えない。

 一方左横では白ちゃんがニッコリと口角こうかくを上げている。

 自分の手料理が喜んで食べてもらえることに、

 相当嬉しいのだろう。


「はあー、美味しかった」


 いつの間にかあねごさんは、

 ぺろりと完食してしまい、

 グラスの水をゴクゴクと一気飲みしている。


 チャンス到来、とぼくはあねごさんに、


「よかったら、ぼくの分も食べませんか?」


「おい、いいのか? せっかくふたりで作ったのに」


「白ちゃんが全部作ったんですよ」


 自分の嫌いな料理を自分が作るわけないのに。

 それくらい読んでほしかった。

 白ちゃんの反応を目で追う。

 だが表情は変わらずに微笑んでいた。


「太朗が残すくらいなら、

 あたしが食べたほうが幸せってことだな。

 いいよ、おかわりほしかったとこだし、

 ありがたく頂くわ」


 ぼくはあねごさんにカレーを渡すと、

 完食した皿の上にそのまま落として、

 スプーンですくって食べ始める。

 これで任務完了だ。


「食べるのないなら、

 缶詰をおかずにして食べたらどうだ?」


 ぼくの視線を感じたあねごさんが、右手を休めて言った。


「でも缶詰は一番の保存食なので」


「いいって。近いうちに橋んとこ行くんだろ。

 5日も経ってたら、

 さすがに向こう岸で誰かいるだろう」


 やはりあねごさんは、あのことに気づいていないようだ。

 白ちゃんも同じだろう。

 ぼくは決意し伝えることにした。


「実は橋が壊れているんです」


「知ってるって。今あたしが話しただろ?」


 言葉1つ足りなかったらしい。

 ぼくは続けた。


「あの橋じゃなくて、すぐそこの橋ですよ」 


 あねごさんと白ちゃんは首をひねる。

 まだ伝わったいないらしい。

 更に続けることにした。


「ほら、ぼくたちが行った川に流れていた橋ではなくて、

 すぐそこの絶壁のコンクリートの橋ですって」


「そこの橋ってもしかして」


 あねごさんは目をぱちくりとさせて言葉を失っていた。

 持っていたスプーンが手をすり抜けて、

 テーブルにワンバウンドし、

 床の上で溺れている。

 白ちゃんもショックを隠しきれず、両手で口を覆っていた。


「お、おかしくねえか、台風も来たわけじゃないのに」


「ハカセさんの検証によると、

 小型爆弾で崩壊させたらしいです」


「だったら爆音で気づくだろうが」


「サイレント式の爆弾とか」


「あってたまるかそんなもん。

 じゃあこの屋敷に閉じ込められたってことかよ。

 一体誰なんだよ、

 そんなことするヤツは」


 拳を振るい上げて、

 テーブルを叩いたあねごさん。

 鍋やグラス、水筒が数ミリだけジャンプした。

 ぼくは今話すべきことではないと後悔した。

 なぜなら楽しいディナータイムを壊したことになってしまったから。


「新しいスプーン持ってきます」


 あねごさんが床に落としたスプーンを拾って席を立つ。


「ありがと。ついでに缶詰と茶碗も持って来いよ」



 キッチンから戻ってきたぼくは、

 あねごさんにスプーンを渡して茶碗にごはんを分けて、

 サバみそ缶を開けて箸で摘まむ。


 閑静かんせいに包まれたリビング。

 時計の進む秒針だけリアルに聞こえてくる。

 あねごさんはスプーンを持ったまま、

 カレーに手をつけようともしない。

 白ちゃんはというと、

 一口サイズに切り取ったカレーと、

 ごはんを皿の上でかき混ぜていて口に運ぼうとしない。

 深刻そのものだった。

 この空気を打開する切り札を持っているが、

 今は隠して話題を変えることにした。


「一応、ハカセさんがそろったら、

 もう一度話し合ってみましょうよ? 

 みんなで知恵を絞れば、

 きっと対策が浮かびますから」


 希望に満ちあふれた発言をしてみたが、

 ふたりと無反応に動かない。


「ん? ああそうだな」


 10秒程度遅れて、

 あねごさんが魂が抜けたように呟いた。


「取りあえず食べてしまいましょうよ」


「そうだな。

 食事中にウジウジ悩んだってもったいねえし、

 食べてから考えるとするか」


 あねごさんがカレーに手をつけると、

 真似するように白ちゃんとぼくも食べかかる。


 まあ、ぼくはサバみそだけれど。





 食事と後片付けを済ませたぼくたちは、

 リビングの椅子にもたれてハカセさんの来るのを待っていた。


「おっせえなぁー」


 テーブルの上で頬杖をついたまま、

 あねごさんがうねり声をあげる。


「やっぱり起こしに行ったほうが良さそうですか?」


 時刻は8時半に差したところ。

 ぼくがハカセさんと別れたのが2時くらいだったから、

 およそ6時間は経っている。

 仮眠を摂るにしては多いくらいだ。

 もしかして? 

 いや、ハカセさんに限ってそれはない。


「このまま待ってても釈だから明日にしないか? 

 もう眠くて眠くて」


 リンゴ1個分くらい大きな欠伸をするあねごさん。


「そうしましょう。

 でもどうしますか、ハカセさんのカレー?」


 テーブルの上には、

 1枚の皿とカレー鍋とごはん鍋が固まっている。


「はあーあ、しゃーねーなー。

 メガネの分は冷蔵庫にしまっておくか。

 あたしカレー持っていくから、

 太朗はごはん、白は皿持ってきてくれ」


 キッチンに移動して、

 カレーとごはんを別の皿に分けてラップを被せ冷蔵庫に入れる。

 中央間へ行き2階へ上がるとあねごさんが、


「メガネの様子見てくるわ」

 と、ハカセさんの部屋のドアノブをひねる。


「鍵かかってるな。

 おーい、メガネー、起きろー」


 ドンドンドンと乱暴にドアをノックし始めた。


「朝まで寝かせてあげましょうよ」


「しゃーねーな。あたしも寝るわ。

 歯でも磨いてくる。

 つーか風呂もまだだった」


「あ、ぼくも」


 えりを摘んでクンクンと鼻を鳴らすと、

 吐き気をもよおすような汗臭さを捕らえた。


「一緒に入らねえからな」


 マッチ棒を横に2つ並べたようなジト目で、

 あねごさんは睨みつけてきた。


「わかってますって、白ちゃんは入ったの?」


 ぶるぶると小刻みに否定する。

 汗臭さに比例して入浴を考えていたが、

 浴槽は切断された足が浮いていて赤く染まっていたはず。

 例え清掃しても入る気にはなれないだろう。


「あねごさん、お風呂のことですけど、

 諦めたほうがよさそうですよ」


「ん? あっそか」


 一時停止していたあねごさんは、

 ぼくが言っていることが通じたらしく納得してくれた。


「歯だけ磨いて寝るか。お前たちも行くだろ?」


 脱衣所で歯を磨き、

 用を済ませたぼくたちは、

 各々の部屋に別れて就寝を摂ることに。


 部屋の電気をつけて窓辺に立った。

 無数の星と月明かりのせいで、

 森は薄い闇に染まっている。


 いよいよか。

 ぼくは枕元にある、

 サーベルタイガーの牙を連想するサバイバルナイフに目を送る。

 もちろん護身用と威嚇を兼ねて。

 本当なら使用しないで事が弾めばいいんだが。


 ガラス越しにぼくの姿が心霊写真のように薄く映る。

 歯を磨いているときにも確認したが、

 ほっそりとやつれているように感じる。

 記憶を失って4日が経つ。

 尋常じゃないことばかり起きて疲れが見え始めたのだろう。


 もう一息だ。

 もう一息で真相が明らかになる。

 窓から離れて、

 ベッドにうつ伏せに倒れ込み両手で枕を抱いて顔を埋める。

 このままだと眠ってしまいそうだ。


 枕から手を離し、

 くるっと反転して天井と対峙する。

 そっと目を閉じると、

 ドタドタと騒がしく足音が近づいてきたピタッと止まった。


「おーい太朗。起きてるか?」


 釘を打ち付けるようなノックオンが部屋中に広がる。


「どうかしましたか?」


 声の主はあねごさん。

 ベッドから飛び上がり鍵を外して開けると、


「メガネが! メガネが!」


 呼吸は荒く、肩は上下に弾んでいる。


「落ち着いてください」


 なだめると、

 あねごさんは手を大きく広げて胸に押しつけながら深呼吸をした。


「んなこと言ってる場合じゃねええ、早く来い」


 ぼくの手を掴んで部屋から引きずり出されてしまった。

 あねごさんの手は柔らかく汗がしみこんでいる。

 尋常ではなかった。


 もしかしたらハカセさんが。

 ゴクンと息を呑む。

 ヒメの部屋の前を通過。

 階段を避けてすぐの部屋へ止まる。


「中に入ってみてくれ」


 ぼくはゆっくりとドアを開ける。

 照明をつけると微妙にぼくの部屋と家具の配置が違っていた。


 中央には何もなく、

 右奥に窓があり、

 その手前に丸テーブルと椅子が2つ。

 そして左奥にベッドが横に置いてある。


 血の臭いがする。

 注意深くベッドに近づく。


「ハカセさん?」


 ベッドにはハカセさんが大きく口を開けていて、

 サバイバルナイフが1本垂直に刺さっていた。

 両目は飛び出るくらいあんぐりと見開いていて、

 シャツは黒い血が止めどなく滲み出ていた。


「ハカセさん、ハカセさん! 

 しっかりしてください」


 手遅れだとわかっていた。

 けどぼくは、

 ハカセさんの両肩を潰れるくらい握りしめて必死に蘇生を促す。


「無理だよ。

 もう動かないよ。

 見てわかんないのかよ」


 鼻をすする音も交えてあねごさんが背中越しに言った。

 まさか次の犠牲者がハカセさんなんて……。

 現実に直視できないぼくはスローで2、3歩後退りをした。


 ぼくがいけないんだ。

 犯人の目星もトリックも知っているのに、

 悠長に向こうから攻めてくるのを、

 待っていたから取り返しのつかないことに。


「どうするんだよ、あたしも殺されちまうのかよ」


 背後から包み込むように、

 あねごさんが腕を回して抱きついてきた。

 声は相変わらず鼻声気味。


 ぼくは反転して向き合い、

 あねごさんの肩を優しく掴んだ。


「大丈夫です。

 ぼくたちはきっと脱出できますって」


 今できる精一杯の励ましの言葉を乗せた。


「死ね!」


 ドスの効いた声と共に、

 ぼくの左脇腹に鋭利な刃物が突き刺された。


 痛い! 熱い! 


 何1つ現状が把握しきれないまま、その場に両膝をついた。


「あ、あねごさん?」


 集中して仰ぎ見ると、

 あねごさんはべっとりと血のついた手を舐めるように見ている。


「あーあ、汚えな、

 てめえの血であたしの手が汚れちまったじゃねえか」


 あねごさんのローキックが、

 腹部に追い打ちをかけるようにヒットする。

 ぼくは左側にぶっ飛んで壁に頭を打った。


「なんでこんなことを!」


 力を振り絞って立ち上がろうとすると、

 額に銃口じゅうこうを突きつけてきた。


 苦しい、息が苦しい。


 頬から生暖かい汗がこぼれ落ちる。

 すべての黒幕はこの人だったのか? 

 ぼくの推理は的外れなのか。


「死に損ないが、黙って見てろ」


 左手をふところに当てて、

 マジシャンのようにピストルを抜き取った。


「おい白、出てこいや! 

 茶番は終わりだ。

 出ないと太朗の頭にでっかい風穴ぶちまくぞ!」


 引き金を引き、天井に向けて1発だけ撃った。


 今来たら殺される。ぼくはとっさに、


「白ちゃん逃げて、来ちゃだめだ」


「すっこんでろって、言っただろ」


 あねごさんは、ぼくの額に当てていたピストルで1発床をぶち抜いた。


「お前は白を誘き寄せるエサなんだよ、バーカ」


 ニヤリと白い歯を光らせて悪魔のようにあざ笑う。

 手慣れしている。

 プロだ。

 素人技ではない。


 書斎のおっさんも、

 熊さんも、

 ヒメも、

 ハカセさんも全部あねごさんがあやめたのか? 


 ってことは、

 ぼくが疑っていたヒメは本物? 

 どうなったいるんだ? 

 わからない。


 廊下からばらばらと足音が走る。

 白ちゃんか? 

 来ないでくれ。


「健助!」


 聞いたことのない声が鼓膜を突き抜ける。

 白ちゃんは肩を弾ませながら、

 自分の背丈せたけと同じくらいのライフル銃を、

 あねごさん目がけて1本に伸ばした。


「おい、白ちゃんよ。

 喋れない設定じゃなかったのか?」


 銃口を向けられてもピクリとも動揺しないあねごさん。

 その自信はどこからいているのだろう。


「あなたこそ記憶かないはずよ。

 なんで……」


「地下でこいつに発砲したとき目覚めちゃってよ。

 参った、参った。

 記憶喪失ってのはお互いさまだろ。

 早く銃を下ろせ」


 だが白ちゃんは、力強くトリガーを握る。


「おい、聞こえなかったのか? 

 銃を下ろせって言ったんだぞ」


 あねごさんは、ぼくの額に銃口を擦りつけてきた。

 左手のピストルは白ちゃんと対峙してピクリとも動かない。

 ぼくの方向をチラ見した白ちゃんは、

 いさぎく足元にライフル銃を投げた。


「あなたたちさえ、

 あなたたちさえ、ここに来ていなかったら、

 平穏な日々を送れたのよ」


 氷水を頭からかぶったように、白ちゃんの声は震えていた。


「しゃーねーわな。

 居酒屋の後ろの席で、こいつと一緒に聞いちまったからな」


 首を素早く2回、後方に送る。

 後ろには、

 ベッドの上で仰向けに、

 サバイバルナイフを飲み込んでいるハカセさんの姿のみ。

 まさかハカセさんとあねごさんは共犯なのだろうか。


「あたしとこのメガネ、黒飛侑斗くろとびゆうとって名なんだけどさ、

 宝石泥棒をやったってわけ。

 もちろん1度や2度じゃ済まねえ。

 宇治宮鉄次って男が、

 記憶喪失の薬を調合してるって依頼を耳にした結果、

 この山奥の屋敷を割り当てて、

 拝借させてもらおうってことにしたのよ」


 偶然に耳にしたラジオで流れた指名手配犯が、

 このふたりになるのか。

 更にあねごさんは続ける。


「もちろん川の橋も壊したのもあたしら。

 ほんっとビックリするほど、

 ここのセキュリティって甘ちゃんだよな。

 庭で草むしってるデブを盾に侵入して書斎に行ったらさぁ、

 宇治宮のおやじとヒメとこいつがいてさぁ、

 銃口を見せて黙らせてやったよ」


 こいつと言った瞬間に、

 あねごさんはぼくの額に強く銃口を押しつけた。


「そうそう、面白いこと教えてやるよ」

 半月のように口角こうかくを尖らせたあねごさんは、

 ぼくに向けて不気味に笑う。


「ヒメがお前の腕にしがみついて、

 あにきー、怖いよーっておびえてたんだぜ」


「えっ、じゃあヒメって」


「……つむぎちゃんは健助の妹よ」


 白ちゃんがボソッとつぶやいた。

 う、ウソだろ。ヒメがぼくの妹なんて。


「良かったな。真実が明かされて。

 クヨクヨすんなよ。

 あと数分したら地獄で面会できっから」 


 ショックだった。

 わき腹の痛みが消えるくらい頭の中が真っ白になった。


「どこまで話したっけ、

 そうそうデブを人質にしてメガネと一緒に書斎に入ったとこだ。

 そしてお前たちのケータイを没収して、

 あたしの銃でぶち抜いてやったってことよ。

 太朗なんか2つも持っててリッチなヤツだなー」


 その話を耳にした途端に、

 白ちゃんは歯を食いしばってこちらを睨みつけた。

 もしかしてぼくの所持していたのって白ちゃんの?


「そしたらさぁ、

 宇治宮のおやじが机の下にある催眠スプレーのボタン押しやがって。

 まあその瞬間に頭をぶち抜いてやったんだよ。

 宇治宮のおやじは即死。

 あたしたちは強制睡眠てこと。

 さて、この続きを話してもらおうか?」


「私はお茶の準備をしてキッチンから中央間に続く廊下で、

 福永さんがあなたたちに連行される姿を目撃したの。

 これは只事じゃないって。

 死角になるように廊下に身を伏せていたら銃声が数発轟いて、

 その後にもう1発轟いて。

 そうしたらドアの隙間から、

 もくもくと白い煙が漏れ出してきて、

 父から聞かされた緊急の催眠ガスってピンときたの。

 ガスマスクを地下から取って被り、

 書斎のドアを開けたら、

 あなたたちが床に倒れてた。

 椅子にぐったりともたれて父は死んでいた。

 仕方なく私は全員に記憶喪失の薬を打った。

 万が一のことを考えて、

 健助と紬ちゃんを1階の別室に運んだの。

 福永さんは私の力では運べなかった。

 そして父のパソコンを使って第3者の存在を明確にするために、

 予告メッセージをプリントして紙をばらまいた」


「そうしておまえは2階の部屋に身を隠して、

 あたかも記憶喪失のフリをして発見されるのを待っていた。

 そしてボロが出ないように喋れない設定を付け加えた。

 合ってるよな?」


「半分が正解。

 口を閉じた理由はもう1つ、

 私の声で記憶が蘇るかもしれないって。

 最初は意図的に封じたけれど、

 健助からもらった失声症の薬でありがたくしのがせてもらったわ」  


 あの薬ってマイナス効果に働いてたのか。


 クスクスと不気味に微笑みながら、あねごさんは言った。


「おまえ本当っにバカだよな。

 全員眠らせているんだったら、

 あたしとメガネの手足を紐で結ぶだけで済むだろうに。

 それが無理だったら誰か叩き起こして対処できるだろ。

 怖えよな、

 人間パニくったら何するかわかったもんじゃねぇぜ」


 違う、白ちゃんはやらなかったんじゃなくて、

 手足を紐で縛ることができなかったんだ。 

 起こすにしてもヘタしたら連鎖して、

 あねごさんたちを起こしてしまう可能性もあったはず。


「あたしの手足を拘束したってパッと解けるけどな。

 そこんとこは記憶喪失の薬を打つのが正解。

 そもそもみんな記憶喪失にしてどうするつもりだったんだ? 

 ここから脱出できると思ってたのか? 

 このおチビちゃんは」


 あねごさんの嘲笑はゲラゲラと高らかに響く。

 一方白ちゃんは、

 下唇を噛みしめながら棒立ちしてぶるぶる震えていた。


「おい、聞いてんだから答えろや!」


 トリガーを引いたあねごさんの銃口から1発だけ弾薬は発射し、

 白ちゃんの足元数センチ免れてめり込んだ。

 威嚇射撃いかくしゃげきだった。


 あねごさんはプロの殺し屋だろう。

 このままではぼくだけでなく、

 白ちゃんも殺される。

 せめて白ちゃんだけでも。


「あなたたちが書斎に入ったときに、

 耳を立てて聞いていたの。

 川の橋をダイナマイトで壊したって。

 ここへの道は私有地で立ち入り禁止区域になっていて、

 カーナビからも映らない秘境なのよ。

 通信手段を失った私たちが力を合わせて、

 川を渡るか外部に助けを求めるしかなかった。

 私の読みではここから脱出したときに、

 あなたたちが警察に連行されて、

 記憶喪失のまま社会から剥離はくりされて

 罪を償うのが目的だったのよ」


「呆れすぎてため息しかでねぇ。

 仮にその作戦が成功したって、

 こいつらの記憶が元に戻る方法があるのかよ。

 それにおまえの地位だって怪しいんじゃねえの?」


「この記憶喪失の薬は、

 父が歳月を重ねてこの山奥で研究してきたものなの。

 目的は犯罪による被害者のトラウマ体験を消すため。

 それをあなたたちの欲望のために使うなんて、

 絶対に許さないんだから」


「そんなことを聞いてんじゃねぇ。

 おまえの地位のことを聞いてんだぞ。白ちゃんてばぁ」


 明らかに白ちゃんの説明ゼリフはピントが外れていた。


「そうね、私も罪人になるかもしれないね。

 でもどんな形でもいいから健助には生きててほしいの。

 たとえ私のことを忘れてもいいから」


「残念だな、あたしに打った薬が甘かったって反省するんだな」


 右手のピストルを人差し指で、くるくると回転させるあねごさん。


「記憶が戻ったからって、

 なんで福永さんも紬ちゃんも殺されなくちゃいけなかったのよ!」 


 白ちゃんは声を張って叫んだ。


「わかんねえな、そっちの名前で言われても」


「熊さんとヒメちゃんのことよ。

 熊さんは福永さんでこの屋敷の管理人。

 そしてヒメちゃんは紬ちゃんで……」


「それはさっき聞いたからいいわ。

 まずデブね。

 あいつを真っ先に殺したのは食糧がなくなるから。

 あのデブ見てるとさぁ、

 1食に付き2人分は食べてるんだぜ。

 だから殺した、

 正当な理由だろ」


「そんな単純な理由で熊さんを!」


「てめえは黙ってろ。

 って言わなかったか? 

 それとナイフは抜くんじゃねぇ」


 ぼくの額に押しつけてある銃がカチッと音を上げた。

 なんてヤツだ。

 人の命をそんなつまらない理由で。


「あんときはビックリしたよ。

 当てずっぽとはいえ、

 メガネのヤツがあたしを犯人扱いするんだぜ。

 こいつも宝石強盗乗り気じゃなかったし、

 自首されたらこっちも足が着いちまうし、

 いずれにしろ始末するつもりでいたからな。

 まとめてぶっ殺してもよかったんだが、

 それじゃ面白くねえ。

 白に恐怖のエサを与えてやったってわけ」


 ゴクンと生唾を飲む白ちゃんの音だけが鳴った。


「次にヒメか。

 これか傑作のトリックになってさ、笑っちまうよ」


 あねごさんは死神に取り憑かれたように話を続ける。


「あの日の夜、寝る前にあたしが出した麦茶あるだろ。

 あの中に睡眠薬を丸々1瓶入れたのさ。

 あたしが飲む分は別として。

 まあ次の日の午前中くらいまで寝てるだろうって。

 次にメガネを始末するか考えたんだ。

 あいつがいると記憶がないとはいえ、厄介だし。

 それにあたしとメガネが両方生きていると、

 白に感づかれて殺しに来るかもしれないってな」


 ぼくが足にを滑らせて転倒したときに拾った睡眠薬の瓶は、

 その為に使っていたのか。

 ちくしょう、あの時気づいていればこんなことに。


「メガネをぶっ殺しにリビングに向かったんだ。

 そうだな、大体8時くらいだったかな。

 3人とも死んだように眠っててさ。

 メガネの枕元に立ちながら、

 どうやって殺そうかなーって、

 考えてたらバタバタ足音がしたんだよ。


 入ってきたのはヒメ。

 強盗! って唇を震わせて飛び出して行って。

 あたしは発砲しながらヒメを追いかけたんだ。

 こいつ厄介なことに記憶が戻りやがってってな。

 そしてヒメと鬼ごっこ。

 廊下を抜けてガチャって鍵のかかった音がしたから、

 ヒメは左に曲がって2つのどちらかの部屋にこもったはず。


 そしたらこっちのもんだ。

 両方のドアノブに手をかけて確かめれば済む話。

 鍵のかかってるドアノブをぶち抜いたら、

 逃げずにキョトンとしてこっちを見つめていてよ、

 有無を問わずにこいつで額に貫通させてやったぜ」


「酷い!、人間のクズ、ろくでなし」


 訴える白ちゃん。

 確かに残酷だ。

 だが小骨が詰まったように何か引っかかる。


「すべての発端はおまえなんだよ。

 その後、ヒメを風呂場に持ってって、

 物置からノコギリ数本かっぱらってきて、

 関節をぶった切り、

 宝探しゲームみたいに隠してやった」


 やはりおかしい。

 その時の朝8時だったら、

 ぼくたちが手分けしてヒメを捜索していた時間帯。

 あねごさんの発言はミスマッチしている。


「そっかあ、

 その表情だと太朗は気づいているようだな。

 おチビちゃんのほうは頭に血が昇って、

 それどころじゃないってか」


 余裕の表情で見下すあねごさん。

 これで何度目だか数え切れない。


「正解を教えてやるよ。

 おまえらあの睡眠薬入りの麦茶を飲んで丸1日眠ってたんだよ。

 ほんんとすげえな、この自家製の薬は。

 つまりおまえたち3人してすやすや寝ていたとき、

 ヒメに銃をぶっ放したり、

 バラバラに解体したり、

 あちこちに隠したりしていたんだ。

 バラバラにするのには半日以上かかって肩が凝ったけど。

 まあヒメは薬に強い体質かは知らないけど、

 それが災いになったってこと。

 オッケー?」


「そんなぁ。ぼくたちが丸1日眠らされてたなんて」


 雷に打たれたような衝撃だった。

 白ちゃんも目と口をぱっくり開けて止まっている。

 そういえばハカセさんが死体の腐敗が早すぎるって言ってた。


 それにあねごさんが数えて、

 4日しか経ってないのに5日って言ってたし。

 いつの間に一人称があたいからあたしに変わっている。

 あの時見抜いていたら。


「んでもって目覚まし代わりに、

 橋を爆破させて起こそうとしてもピクリとも起きねえし。

 最後には太朗の身体をさすって起こしてやったよ。

 1日ズレてること知らねえで、

 ヒメを探し始めてとき、

 腹を抱えて笑いそうになっちまったよ。

 ほんっと救いようのねえバカどもだよな」


 これ以上おかしいことはないというふうに、

 目に涙を浮かべてあねごさんはゲラゲラと笑う。


「バカはあなたのほうよ。バカ田バカ子」


 口元を緩和させて白ちゃんが反旗はんきひるがえす。

 どこに自信があるのかわからない。


「はあ? ふざけんじゃねえぞ。

 あたしの名は、すずり 美礼みれいだ。

 冥土に土産に教えてやるよ。

 言っておくけど、宝石強盗が主流じゃねえんだよ。

 この腕で何人も地獄に葬ってきた裏社会のスナイパーさ。

 昔は人をたくさん殺してきたヤツが栄誉を称える時代だったのに。

 狂ってんだよ、世の中。

 弱肉強食、

 弱いヤツが死んでいくのは当たり前なんだよ」


「自己主張が多いことだこと。この脳内筋肉バカ」


「うっせんだよ」


 闇を切り裂くような銃声が1発轟いた。

 白ちゃんの右こめかみをかすって部屋から飛び出した。

 こめかみからは、

 赤い涙が一滴だけ頬を伝わり地へ落ちていく。


「どうだ? この命中力。

 わざと外してやったんだ。

 白には死んでもらっては困るしな」


 静かな沈黙のあと、白ちゃんはゆっくり口を開いた。


「だからあなたはバカなのよ。

 人の目覚まし代わりに橋を爆破させて。

 どうやってここから脱出するつりかしら。

 救助の当てもないくせに」


 正しくその通り。

 橋を渡ってから壊すならわかるが、

 自ら残って出口を塞いでいるようなもの。

 例えぼくらを殺したとしても、

 食糧が尽きれば餓死しか見えない。

 面白半分でやったことが、

 結局自分自身の首を締めてしまっている。

 自業自得だ。


「ぷっ、あははははは」


 一瞬だけ吹き出したあねごさんは、

 下品に口大きく開けて狂ったように笑い出した。


「後先考えてねえで、

 あたしが橋をぶっ壊すわけねーだろうが。

 あたしにはこいつがあるんだよ」


 すーっとポケットから抜き取ったのは、

 携帯電話だった。

 確かにそれは使えないはず。


 いや違う!


「ふふふふふーん。

 記憶の戻ったあたしは暗証番号なんてお手のもの。

 連絡取り放題で救助も来てくれる。

 おまけにこんな山奥でもバリバリに電波入るし。

 いやあ、便利な世の中になったもんだ」


 再びジャケットの内ポケットにケータイを入れて、

 白ちゃんに銃を傾ける。

 世の中を肯定したり否定したりと急がしい人だ。

 言葉を失った白ちゃんは、

 視線がさまよってどことなくソワソワしていた。

 そんな様子を目の当たりにしているあねごさんは追い打ちをかけた。


「さっきまでの自信はどこに行ったんだ? ほーれいってみろや」


 動揺している白ちゃんが反応したのは数秒経ってのことだった。


「私たちをどうするつもり?」


「白にはおっさんの後を継いで記憶喪失の薬を作ってもらう。

 目的はあたしが警察の目から逃れるため。

 それとビジネスのためだ。

 ガキどもを誘拐して記憶喪失の薬を打ってやる。

 そして海外に売り飛ばす。

 もしくは臓器売買ってのもアリだ。

 特に腎臓はウン千万で売れるらしいから儲けもんだ」


「お願い、健助を! 健助だけでも」


「こいつは手遅れだ。

 とっちみち死ぬ。

 その代わり臓器提供してやっから心配すんな」


「お願い!」


「しつこいぞ!」


 一歩踏みしめた白ちゃんの足元に銃口が傾いた。

 ぼくの視線がくらっと歪む。

 腹に刺さったナイフから血と共に力が抜けていくようだ。


「こんなことしてどうするの? 

 あなたにだって家族や仲間がいるでしょ?」


 警察のように説得に入る白ちゃん。やぶから棒に。


「くだらねえこと聞いてんじゃねえよ。

 時間稼ぎのつもりか? 

 そんなことやってたらこいつのほうが死ぬぞ。

 あたしの記憶が戻ったのを見抜けなかったのが悪い。

 つーか、あたしも聞き分けのない鬼でもない。

 白が一生奴隷となって、

 働くって約束するなら太朗を助けてやってもいい。

 さあ、どうなんだ? 

 白ちゃんよ」


 あねごさんの発言がブレた。

 ぼくのことを最初っから殺すつもりだったのに。

 白ちゃんの執着心しゅうちゃくしんがあまりにも強力なので、

 エサに切り替えて揺さぶってきたらしい。


 頼む、ぼくのことは諦めて逃げてくれ。

 だが、この状況であねごさんに襲いかかったとしても、

 白ちゃんではスピード的に逃げ切ることはできない。

 絶体絶命なのか? 


「ほら、どうした? 目が泳いでるぞ。

 しゃーねーな、もうひとつ選択しをくれてやる。

 さっき言ったヤツだ。

 あたしと組んで強力な薬を開発しねえか? 

 ペースト状のやつで吸い込んだだけで記憶がぶっ飛ぶくらいの。

 そしたらこの世はあたしらのもんだ。

 ゲームとかマンガで大魔王が望む世界征服ってヤツだ」


 ぼくと白ちゃんに向けられた銃口を、

 あねごさんは素直に下ろした。


 腕が疲れたのだろうか。

 それはわからない。

 再び白ちゃんは黙っている。


 だが、あねごさんはあおりもせずに、

 真っ直ぐ白ちゃんの返事を待っている。


「ノーコメントかよ。

 んじゃもう1つ選択肢をくれてやるよ。

 そのライフル銃で太朗の頭をぶち抜け。

 そしたら命は助けてやる。

 どうだ?」


 白ちゃんが助かるなら、

 白ちゃんに殺されても構わない。

 だがその言葉は具体的ではなくアバウトだった。

 危険な臭いしかしない。


「……そうね、私はあなたの記憶が蘇ったことを知らなかった」


 静かに白ちゃんが口を開く。

 その言葉はあねごさんの質問とミスマッチしていた。

 言い返せば、3歩ほど答えが遅れている。


「頭でもおかしくなったか? 

 まあいい。さっさと選べよ。

 早くしないと太朗くんが成仏しちまうぞ」


 あねごさんは、ぼくの行く末を鼻を高くして軽く笑う。


 くっそ! なんとかして一泡吹かしてやりたかった。


 ん? 待てよ? 

 あねごさんの注意が白ちゃんに向けられている。


 これはチャンスだ。


 ぼくがあねごさんの足を掴んで押し倒し、

 白ちゃんがライフル銃で仕留める。


 やるしかない。


 ぼくは両足を起こして全力で飛びかかろうとした。


「動くんじゃねーって言っただろ。

 殺気がぷんぷん臭ってくんだよ、

 プロをなめんじゃねーよ」


 再びぼくの額に銃口が押しつけられた。

 その圧力は重く、

 身体全体を麻痺させる。


「すまねえな、話の腰を折って。

 続けてくれ」


 何1つ動揺しないあねごさんは、

 鋭く目を尖らせて白ちゃんと向き合う。


「あなたの記憶が戻ったなんて知らなかった。

 そして私は考えた。

 だったら宝石泥棒犯ふたりを殺せば解決するってね!」


 白ちゃんの眼光が、

 ヌーの群れを発見したライオンのようにまぶしく光る。


「殺すって実際に殺せなかったくせに。

 ちゃっちゃらおかし、」


 突如あねごさんは手で口を塞ぎ、

 膝を折ってしゃがみ込む。

 そして床に向かって、

 叫ぶように口を大きく開いて大量の血を嘔吐おうとした。


 一瞬の出来事で頭が真っ白になった。


「貴様、毒を盛りやがったな!」


 あねごさんは水たまりならぬ、

 血たまりの上で四つん這いになり、

 白ちゃんを仰ぎ見る。 

 目はギラギラと充血していて、

 鼻息は荒く、

 口元からはドス黒い血が垂れてきている。


「紬ちゃんがバラバラで発見されたとき、

 誤ってあなたかハカセさんの記憶が、

 戻ってしまったのではないかと疑問が生じたの。

 それ以外殺される理由なんてなかったから。

 そして私は決行した。

 夕食のカレーに毒を仕込んだってわけよ。

 やり方は簡単。

 私が食べる分は別にして、

 鍋のカレーにトリカブトの毒と、

 フグ毒のテトロドトキシンを入れたのよ。

 ハカセさんの豆知識で。

 即効性のトリカブトをフグ毒に混入して服用することで、

 作用発現を約2時間遅らせることができるってこと。

 黙って寝てしまえば苦しみもなく、

 夢の中で成仏できたのに残念ね」


 まさに形勢逆転のパターン。

 心臓が口から飛び出るくらいの嘔吐を繰り返すあねごさんを、

 白ちゃんが見下している。


「どう? 

 あなたが睡眠薬を盛った麦茶を差し出した方法と瓜二つよ。

 あなたがカレーをむさぼりながら食べる姿を見て、

 思わず声が出そうになったわ。

 苦しいよね? 

 残念。

 解毒剤を用意してなかったわ。

 今から調合してあげましょうか? 

 何日かかるかわからないけどね」


 まさかあのカレーにそんな仕掛けがあったとは。

 そっか、カレー鍋の近くにあった小瓶はそれだったのか。

 ん、でも、それじゃぼくも食べていたら……。


「なんてえげつねえ女だ。太朗まで殺す気でいたなんて……」


 あねごさんの声が徐々に力を失っていく。


「健助とはカレーのことで何度も衝突してきたから。

 万が一、カレー嫌いの健助が口に運ぼうとしたときは、

 皿ごとひっくり返して、おじゃんにするつもりでいたの。

 あなたがカレー大好きだったなんて作った甲斐があったわ」


 白ちゃんの見せる悪魔の微笑みは、

 ぼくにとって天使の美粧びしょうに見えた。


 これで終わりだな、あねごさんもぼくも。


「うおおおおおおお!」


 一段落できるかと思いきや、

 あねごさんはピストルを握りカチッと鳴らす。


 まずい、白ちゃんを道連れにする気だ。


 鼓膜を突き抜けるくらいの銃声が1発轟く。


 ぼくは反射的に目を閉じた。


 白ちゃん……。


 どのくらい経ったのだろうか。


 きーんと耳鳴りが残る静かな時の中で、ゆっくりと目を開けた。


「……」


 あねごさんのこめかみからは、

 火薬の臭いがゆらゆらと立ち上る。

 どうやら毒の苦しみに耐えきれず、

 自殺を図ったらしい。

 赤いじゅうたんの上にゆっくりと倒れ込んでいる。


 哀れの一言しか投げる言葉がない。


「健助!」


 白ちゃんか血相を変えて、ぼくに駆け寄ってきた。


「今すぐに」


 腹部に刺さったサバイバルナイフを抜いて放り投げる。


 どくどくと血がこぼれ落ちる。

 痛みは感じない。

 まるで魂が抜けていくみたいだ。


「私ね、私ね」


 涙腺に溢れるばかりの悲しみを溜めて、

 ぼくの胸元は飛び込んできた。


「大丈夫だよ、平気だよ、生きてるよ、だから泣かないで」


 右手でそっと髪を撫でる。

 不器用すぎる白ちゃんの選択。

 自分なりに最善を尽くしてくれた。

 だからすべて許してあげられる。

 白ちゃんが生きていてくれた。

 もうそれだけでいい。


 手の感触が薄れていくのがわかる。


 これが最後ってことなのか。


 人は死ぬ前に走馬燈そうまとうが見えるらしい。


 だが記憶喪失のぼくは、何1つ見えなかった。


 結局、元に戻らなかったな。


「思い出して健助。あなたは法月健助のりつきけんすけなのよ」


 胸元で泣いている白ちゃんが必死のぼくの肩を揺らす。

 体温が冷めていくのに気づいたらしい。


 そんな名前だったのか、聞いたところでピンとこなかった。


 もう思い残すことはない。


 そっと目を閉じた。


 あ、ふと目を開ける。


 あとひとつだけ、


 あとひとつだけ、やらなくてはいけないことがあった。


「白ちゃん、君の本当の名前を教えてくれないか?」


 既に察しはついていた。

 だがぼくは、本人の口から直接聞いて確かめたかった。


「宇治宮きりよ。どう? わからない?」


 鼻声でぼくに言った。

 耳にすれば思い出すと勘違いしたらしい。


「……宇治宮きりさんか」


「きりっていつも呼んでのよ」


「これを君に渡したかったんだ」


 ポケットから取りだしたのは、エンゲージリング。


 米粒程度のダイヤモンドが乱反射して光っている。


 白ちゃん、じゃなくて、きりちゃんは優しく手にとって左薬指にはめる。


「ぶかぶかよ。サプライズなんてカッコつけるからこうなるのよ」


 きりちゃんの口調は尖っていた。


 だけど今まで見たことのない、満開の笑顔だった。


 ホッと胸を撫で下ろしたぼくは、ゆっくりと瞳を閉じた。


「おやすみ。待っててね。私もそっちに行くから……」

ここまでお付き合い頂き、誠にありがとうございました。

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