優しさと狂気の境界線
IF サインしなかった世界
晩餐後の静けさ。
レオが差し出した書類を前に、フローラは震える指先で文字を追った。
(……これ……婚姻届……?)
「あ、あの! この書類は……婚姻届では?」
レオは穏やかに微笑む。
「そうだよ」
胸がどくん、と跳ねた。
優しさも温もりも嬉しかった。
けれど――あまりに急すぎる。
「も、申し訳ございません……。
わ、私には……サインできません」
「!?」
レオの瞳がわずかに揺れ、
影は影で、背後で心の中で叫んだ。
(!?そっちかぁああ!!)
フローラは勇気を振り絞る。
「か、考える時間を……ください……」
レオは一瞬だけまばたきをした後、
いつもの柔らかな笑みを浮かべた。
「もちろんだよ。
さぁ、今日はゆっくり身体を休めるといい」
「……ありがとうございます」
通されたのは、邸の奥深くにある静かな部屋だった。
美しい。
整えられていて、誰もが憧れるほど優雅。
なのに――
(……なぜ……こんなに、奥なの……?)
ドアが閉まる音が、やけに重く響いた。
背筋に、ぞくりと冷たい悪寒が走る。
(あ……もう一度……レオ様と……お話を……)
カチャ……
ガチャガチャ……
「え……? 開かない……?
だ、誰か……いませんか……?」
返事はない。
静かすぎるほど静かだった。
仕方なく、所在なくベッドに腰掛ける。
胸が落ち着かない。
コンコン。
扉が開き、レオが入ってきた。
「待たせたかな?」
「わ、私……いったん実家へ戻らせて――」
レオはゆっくり首を振った。
「屋根裏部屋ではなく……
この部屋が、フローラ……君の部屋だよ」
息が止まる。
「な、なぜ……屋根裏部屋のことを……ご存知で……?」
その瞬間。
ふ、っと。
低く柔らかな嗤い声が部屋に満ちた。
「さぁ……君の涙を見せてくれ」
その笑みは、優しさと狂気の境界線の上に静かに立っていた。
――終わり。




