IV
「うわっ!」
内角高めを鋭く攻める直球に、バットが空を切る。大きく体勢を崩されて、膝に土をつけることになる。舞いあがる砂埃が自分のスイングに手ごたえを感じさせてくれるけれど、未だに結果は伴わない。
「ストライク、バッターアウト!」
野球部が務める球審の宣告に、ぼくはとぼとぼと味方選手たちのもとへ戻った。
ぼくの前を打つ平馬も、出塁できなかったのでそこで待っていた。
「ダブルプレーにならなくてよかったじゃないか」
皮肉で迎えられる。ぼくの球技大会のハイライトは、グラウンド上でのプレーよりも彼とのやり取りの中から生まれることだろう。
「いや、でも次は打てると思うんだ」
「自信があるじゃないか。相手は午前中に一点も取られず、すべてのイニングを投げ切ったピッチャーだぞ?」
「平馬の諦めが早すぎるんや。点は取ったんやから、弱気になるところやない。そもそも、火の玉ストレートに比べたら全然大したことないやん。打てる、打てる」
「……それは比べる相手が悪いだろう」
そのとき、打球を飛ばす金属音が響いた。ぼくたちははっとして顔を上げるが、次に続いたのは、ボールが地面を転がる鈍い音だった。
弱々しいぼてぼてのファーストゴロ。一塁手がしっかりとグラブに収め、ベースを踏んだ。ぼくの後を打った一番バッターは野球部員なのだが、その彼をしてもそう簡単に捉えられない投球を、彼は見せている。
スリーアウトで攻守交替。グラブを掴んで、ぼくは三塁ベースへと駆けていく。相手側では、たったいま投球を終えたピッチャーがバットを手にするところだった。
森崎博士、彼がエキシビションマッチの対戦相手、二年生の部を無失点全勝で優勝したG組のエースピッチャーだった。
球技大会のソフトボールは五イニング限定の特別ルールで行われる。試合は三イニングを終えて、四対四の同点。守備力で以て勝利を重ねた二年G組と、圧倒的な攻撃力で勝ち抜いてきた一年B組という、矛と盾とが激突するエキシビションマッチは、両チームが点数を奪い合う意外な展開ではじまったものの、三イニング目にして初めて両クラス無得点に終わり、試合の展開はだんだんと膠着状態へ向かっていた。
ウィンドミル投法でB組の強打者たちをバタバタと三振に打ち取る生徒会長には、ソフトボールや野球の経験者ではないという。それでも投げてはエース、打っても上位打線に座る彼は、運動においても有り余る才能を持っているということだ。
この打席でも初球を捉えて鋭い打球を飛ばす。ぼくのすぐ三歩右に土煙が舞う。ファウルだ。
「当たったら死にそうな打球やな……」
正直、苦笑いするしかない。ファウルを宣告した線審役の野球部員がぼくの独り言を聞いていたらしく、肩を竦めている。部員でもそう思うことがあるのかな。
行きつく間もなく次のスイングがボールを飛ばす。
今度もまたサードの方向、ライナーだ!
「届け!」
右足で踏み切って跳ね上がり、左手を伸ばす。身長より遥か高くを抜けていこうとする打球、これが外野へ飛ぶと長打になってしまうと直感してのプレー――グラブに感触があった!
「久米、足元だ! ファースト!」
ぼくの背後、レフトの平馬から指示が飛ぶ。その声でグラブにボールがないことに気づき、つま先に当たったボールを握る。一塁に向かって投じたときには、すでにバッターランナーが一塁を駆け抜けていた。
内野手のチームメイトからはよく止めたと称える声や気にするなと励ます声とが寄せられる。選手同士だけではない、試合予定がなく観戦に訪れたクラスメイトたちまでそういった声をかけてくれる。まったく、こんなにちやほやされたのは久しぶりだ。ちょっと打球に飛びついただけでこれだけとは。
膝についた泥を払う。応援に応えて、次こそは捕らなければならない。無安打ばかりか守備率まで足を引っ張ってしまったら、相手側のヒーローインタビューに呼ばれてしまう。泥だらけになるのに似合う活躍をして、森崎先輩の鼻を明かしてやりたいのだ。
一塁ベース上では、涼しげな顔で彼が構えていた。その余裕の表情、それでこそだ。やってやろうではないかと興が乗る。昼休み、自分の非を認めようとしない彼に闇雲に勝負を提案していたが、そのときは午後のエキシビションが二年G組との対戦とは知らなかった。思わぬ形で彼との勝負が実現して、正直ぼくは興奮していた。彼もぼくが対戦相手であることを意識していないはずがない。
続く打者に備え、膝に手をついたときだった。
響く金属音とともに描かれた打球の軌道は、身長よりずっと高く宙を舞い、外野の向こう側へと伸びていった。
ダイアモンドを囲う野次馬が増えはじめている。全日程を終了した競技の参加者が観戦しにやってきたのだろう。午前の部で快投を見せた森崎先輩の噂がこの試合の関心を高めていたのかもしれない。
守備位置から戻りながら、観客の中に知った顔がいないかついつい探してしまう。クラスメイトは何人か見つかるが、才華はどうやら来ていないらしい。確か、バレーボールはスケジュールが押しているという話だったか。
「大したことはないと言っていたが、もう最後の攻撃だな」
レフトから追いついた平馬が声をかけてくる。試合はもう五回裏を迎えようとしていた。
点差は一点。森崎先輩が出塁したG組は、次のバッターが外野の頭を越えるヒットで勝ち越し点を挙げていた。対するB組はその裏の攻撃で一安打を放ったものの、点差は開いたままだった。
平馬がぼくをからかうのは、その最後の攻撃がもし三者凡退に終わった場合、ぼくに打順が回ってこないからだ。大きな口を叩いておきながら、二度と対戦できない可能性があった。
「そうか、それなら平馬には死んでも塁に出てもらわないとあかんな」
「おれに期待するのか」
と、言っているそばから先頭バッターが三振に切って取られた。
「平馬に期待する流れだけど?」
「まあ、そうかもな」
「文化祭のときみたいなのはなしで頼むよ」
ふん、と鼻で笑う。チームスポーツをすっぽかすわけにもいかず参加しているが、自分が凡才だと感じさせられる文化祭を嫌っているのなら、球技大会だって心から楽しめるものではなかろう。自分が主役になれないだけならまだしも、脇役にすらなれない無力さからは逃げ出したくもなる。
ぼくもともすれば平馬と同じような行動を選んでいたかもしれない。でも、いまぼくは逃げ出したいどころか、闘いたいと思っている。相手が相手だから? それもそうかもしれない。否、それよりもっと大きなものを感じている。
「平馬は、いつだったか『事実は小説ほど気を張って読み解くものではない』って言ったよね?」
「うん? ああ、そうだな。おれはいつもそう思っている」
「平馬のその見解に、ぼくも共感しないではないよ。いつだって才華みたいに頭を使っていたら、ぼくなんかすぐパンクしてしまうだろうね。けれどもさ、現実に物語を重ねてみたいとも思うんだ」
先刻の生徒会長から言われた、ぼくに言いくるめられるとは思わなかったという台詞。あれがぼくの立ち位置を端的に示してくれている。あの場に揃った天才たちの中で、ぼくが主役の座につけるとは思っていないにしても、黙っていれば仲間外れにされることはよくわかった。
天保高校を代表する彼から、天保に似合わないぼくがそう言われてしまうのは当然かもしれない。彼とぼくとで当然ならいいのだけれど、才華とぼくとだったどうだろう? 彼女は自慢の推理力を見せるとき、鈍くて頭の悪いぼくに教えてやろうという気でいるかもわからない。
そうだとしたら、彼女の推理に喜んでいるぼくはひどく間抜けで滑稽ではないか。
「自分を物語の主人公と思っていたいと言っているのか?」
「主人公とまでは思っていないかな? ただ、せめてその資格だけでも欲しいと思って。ほら、もう平馬の打順だ」
彼の前を打つバッターがショートフライに打ち取られた。ギャラリーは一層盛り上がっている。二年G組の勝利まで、アウトは残りひとつだ。
「それをどうしていま話すのかはわからないが」平馬はチームメイトからバットを受け取ると、打席に向かう前にぼくを振り返った。「なるほど、言いたいことはわかった。そういうことなら、おれも尻を叩かれたつもりでやらないとな」
彼はにやりと笑って言い残すと、これまでの打席とは異なる足取りでバッターボックスへと歩いていく。左打席に構える彼を見て、悔しいほどに恰好良いと思ってしまった。ぼくと彼は正反対であり、それでいてまったく同じだ。
森崎先輩は、きょうの試合をすべて投げ切り、この試合もあと一歩で勝利だというのに、変わらずポーカーフェイスを貫いている。誰にでもできることをそつなくこなしているだけ、とでも言いそうだ。こんなピッチャーがタイガーズにいたら、今年は優勝できたかもしれないのに。
ああ、あの勝負の場にぼくも加わりたい! ふたりして映画のワンシーンみたいに輝いて、ぼくが除け者にされていると思うと悔しいじゃないか。これがラストシーンにもなろうものなら、ふたりはズルい。
「ボール、フォア!」
はっと我に返る。球審の宣告により、バットを置いた平馬はゆっくりと一塁へと歩いていく。その途中、彼はぼくに視線を送る――やってやったぞ、と。
本当に出番が来てしまった。
打席に向かい、平馬が置いていったバットを拾う。ずっしりと重い。
ちょっと面白がって僻んでいただけなのに、本当にその舞台に立つことになるとは。
「……そんなことないね、正直」
ウキウキしている。
自分が試合を終わらせてしまうかもしれないと思うと、心臓が暴れだす。この緊張は平馬も味わっていただろうに、彼はよく平気でいられたものだ。
マウンドの生徒会長が口角を上げたように見えた。ぼくとの対戦を喜んでいる? それともぼくを抑えて勝利できると確信した笑み? ……前者に決まっている、彼はぼくとの勝負に乗ったのだ。
三度目の打席でもタイミングを掴めないウィンドミル投法、ピッチャーが腕を振りぬいて速球を投じる。
「やあっ!」
高く浮いたボールを強振するが、バットには届かない。
観衆が空振りに喜ぶ声と、ボール球は見ていこうと励ます仲間の声。ちゃんとタイミングを取れとか、大振りをしすぎだとかと、ぼくの長打狙いを咎める声も聞こえる。味方にしてみれば、ここでフォアボールを選ぶなりして次の打者に繋いでもらいたいのだろう。そうだよな、ぼくはタイガーズの主砲ではないから。まして一番打者は野球部員だ。
でも、どんな言葉も受け入れるつもりはない。
「痛っ!」
二球目はバットがボールをかすめたが、代わりに脛に打球が命中した。痛みのあまり、バットを杖にして身体を預ける。脳天まで揺さぶられる激痛――骨が折れていてもぼくは不思議に思わない。弁慶の泣き所とはよく言ったものだ、この急所のために死にうるとぼくは実感した。
「代打でも出してやろうか?」
ファーストランナーからちょっかいが飛んでくる。嫌だね、ここで交代されてなるものか。
足に付いた泥を払う。さっきサードでの守備中に付いた跡がまだ残っている。この汚れを勲章にしてやらないといけない。そうしてはじめて、ぼくは才華とともに森崎博士を打ち負かしてやったと言えるのだ。
ヒーローになろうなんて思っていない、ぼくにその役はおこがましい。でも、ヒーロー物語の中で自分だけ脇役ではいたくない。エキストラではいたくない。モグリの偽物俳優ではいたくない。ヒーローとともに闘い、叱咤激励し、諫め、慰め、ときどき闘えなくなったヒーローに代わってそのエピソードで主役を張るのだ。
天才に勝ることはできなくても、その隣にいられる秀才であるために――
森崎ごとき、超えてみせる!




