紛れ込む異変
「さて、これからどうしようかな……」
私は拾ったボタンを左手の中で転がしながら、大きな独り言を言った。実はテリーがボタンを二つ落としたので、こっそり一つ持って帰ってしまった。まあ、いいよね? 一つは拾って渡してあげたんだから。
お風呂を済ませて髪を乾かした私は、ベッドに寝転がって日課のSNSパトロールをしていた。
JupiteRのことを悪く言うやつ、意味不明な応援コメントをしてるやつ、センスのかけらもないくだらないファンアートを投稿しているやつ、そういうJupiteRの邪魔になるやつがいないかを確認するのが私の使命。
もし見つけたら、私が持つ捨て垢たちで一斉に糾弾する。正義は我にあり。私は正義の執行者なのだ。
でも、いつの時代も正しいことが理解されにくいこともある。なにも間違ったことはしていないのに、悪者に仕立て上げられるリスクもある。
だからリスク管理に手抜きは許されない。今のところ亡き師匠直伝の対策でリスク管理はばっちり、だと思う。
詳しいことはよくわからないけど、海外サーバ経由にすればいいらしい。VPNアプリを開いて設定をスイスに。これで私は国外にいることになるんだとか。
この対策にどれほど効果があるかはわからないけど、師匠は完璧だと言っていた。自分でも仕組みを理解しないとなと思いつつもつい放置してしまっている。
JupiteR関連の投稿を漁っていると、センスのないファンアートを見つけた。顔のバランスが崩れかけのだっさいイラスト。
初めて描いてみました!
下手だけどもっと練習して上手くなります!
#Shooting StaRs
#JupiteR
え、きも。こんなものを晒すなんて理解できない。下手って自覚があるならこんなJupiteR晒すなよ。私の中に怒りが芽生える。
『こんなレベルで投稿するなんて理解できない』
『下手すぎて草』
『自己満足乙』
『これもしかしてFAのつもり?』
『利き手封印でもしましたかー?』
口調が同じにならないように気をつけながら送るコメントを考える。もちろん投稿のタイミングをずらす必要もあるため、いくつかは下書きに残して後ほど順番に投下予定だ。こういう癖絵を上げるやつはなかなか図太いことがあるので、あと十ぐらいは投下しておいた方がいいだろう。考えとかなきゃ。
いつもならこういう邪魔者の撲滅活動をしているとそれなりに気が晴れる。なのに、今日はなんだかすっきりしない。それどころかさらにいらいらする。気にしないようにしたいのに、テリーの言葉がずっとじくじくと嫌な存在感を出してくる。
二人ともタイプなのに、テリーに避けられてその流れで隼人にまで避けられたらと思うと胸が張り裂けそうだ。なんとしてでもそれだけは避けたい。
音がした。
大きな音だ。廊下からトイレの水が流れる音がした。部屋の中が静かだからこそ水の音が大きく聞こえる。
家の中には私しかいない。一人暮らしで合鍵なんて誰にも渡してない。家に帰ってそれなりに時間が経ってるし、お風呂にも入った。トイレにも行った。その間、当たり前だけど私以外誰もいなかった。
指一つ動かせなくなった。呼吸が浅くなるのがわかる。自分の鼓動がすごく大きく聞こえる。なんで? 誰かいる? なんでトイレの水が流れたの? 理解できない状況に冷や汗が止まらない。
トイレから人が出てくる気配はない。私は身動きが取れないままベッドの上でかなりの時間を過ごした。でも、十五分経ってトイレが我慢できなくなり意を決して立ち上がった。
スマホで百十番を入力、いつでもかけられるようにして廊下に向かう。一歩一歩ゆっくりと進む。トイレの電気のスイッチボックスを見る。電気はついてない。私は一度深呼吸して覚悟を決める。
トイレの電気をつける。そして、間髪入れずにドアを開く。何かあればすぐに外に向かって走り出せるように足に力を入れていたけど、そんな必要はなかった。だってトイレには誰もいなかったから。
私しか家にいないんだからそれは当然か。誰かいたら大問題だ。でも、絶対に音がしたはずなんだよな……。
トイレの床を見る。私の髪よりも明らかに長い黒い髪の毛が一本落ちていた。
テリーの意味深な態度から二週間が経った。私は今日もバイト終わりに隼人の家を自動販売機の物陰から見ている。
テリーのボタンを拾ったあの日から四日後、隼人とテリーは一度お弁当を買いに来てくれた。その時は二人とも普通に弁当を買って帰った。テリーの態度もいたって普通。それが余計に気になった私は隼人の家をほぼ毎日眺めに来ている。
家を眺めたからといって何かがわかるわけでもない。そんなことわかってるけど、他にできることもない。私は今日も電気が灯る隼人の家をただ眺めている。
テリーについてはなにもわからない。でも、一つだけ変化があった。私も誰かに見られているということだ。今も後ろから視線を感じる。隼人の家を眺めていると、後ろから私も見られている、そんな気配がするようになった。
振り向いてもわからない。でも、私が隼人の家に送るのと同質のものを私自身も感じている。これまでそんなことなかったのに、毎回感じるので気のせいではないと思う。そして、さらに厄介なことに、視線はたまに家の中でも感じることがある。
一人でにトイレの水が流れるような音がすることはもうない。でも、掃除したはずのお風呂の排水溝が髪の毛で詰まっていたり、シャンプーやリンスの減りがいつもより早く感じたり、誰かの気配を感じることがある。
隼人への推し活に集中できないことでたまるフラストレーション。それをJupiteRの推し活、正義執行で晴らしたいのにそれもうまくいかない。ストレスのせいでバイトでも小さなミスをしてしまうし本当に最悪。無能なバイトどもへのダメ出しぐらいしかガス抜きがない。
せめて、せめて隼人かテリーとの関係に進展があればこんなにモヤモヤしなくて済むのに。そんなことをつい考えてしまう。
「そろそろ帰るか……」
考えても意味のない理想を頭から追い出しながら帰る。私が自動販売機の物陰から移動した瞬間私を捉えていた視線も消えた。本当、私を見ているのは一体誰なんだろう。
自宅が見えた時、私は思わず足を止めた。
家の電気がついていた。
消し忘れ? いや、そんなはずは……。戸締りの記憶を呼び起こす。電気を消したかどうかの記憶がない。たぶん消し忘れて家を出てしまったんだろう。でも、そう思っていても誰かが家の中にいたら……なんて考えて緊張してくる。
すぐに家に向かう勇気が出ない。
私はマンションの前を素通りし、ぐるりとマンションのある区画を回ることにした。
回ってきても私の部屋の電気はついたまま。もう一周することも考えたけど、たぶんそれでも状況は変わらない。私は帰ることにした。
ドアノブを回す。鍵は閉まっている。鍵穴を回すといつもより大きな音で鍵が開く音がした、そんな気がした。
玄関の電気は消えていて、廊下もちゃんと消してある。でも、廊下の向こう、リビングとの仕切りのドアから灯りが漏れている。
なんだ、リビングの電気の消し忘れか……。
そうは思いつつも不安が完全には拭えず、お風呂場、トイレの中を確認する。どちらも誰もいない。
思い切ってリビングのドアを開ける。
電気がついている。それ以外はなにもおかしな点はない。ふう……肩から力が抜ける。
私が息を吐いた時、同じタイミングで足元を見えない何かが通った。風だと思う。でも、窓なんて一つも開いてない。
「痛っ……」
風が当たった右足首。小さな痛みが走る。しゃがんで足首を見ると、紙で切ったような細い切り傷ができていた。
靴下の履き口の少し上、うっすらと赤く滲む、床には長い黒い髪が一本。鳥肌がたった。




