第九話 流し台に顔を突っ込むので困っている
高校に行っている場合ではないだろう。そう思った。学校に体調不良で休む旨を電話で伝えてから、どうするか腕を組んで考えていた。嘘も方便とは良く言うものだが、担任は生徒が異国から送られたケモミミ美少女とのファーストコンタクトを果たしているとは、露ほども思っていないだろう。
「とりあえず、時間も出来たし、朝食でも作るか」
食器棚から幾つか食器を取り出して、シンクに向かいゆすごうと蛇口をひねる。その瞬間、後ろで静かに座っていたテアが立ち上がった。水を流し続ける蛇口をじっと見つめながら、こちらに近づいてくる。水道もない国から来たのか、故郷は貧しい国なのかもしれない。
そう素朴な感想を抱いていると、テアの頭が蛇口の下に突っ込まれた。
「おい」
シュールな光景だった。シンクの蛇口の下に美少女が頭を突っ込んでいる。校庭に設置されている蛇口で頭を洗うくらいにナチュラルな動作だった。スポ根アニメの女子部員でもあるまいに。
俺は彼女の肩を掴んで、引き上げた。
「風呂に入りたいんだったら、そう言ってくれ。いや、言えないからこうなってるんだろうけど……」
「レンイルアスアガフテ?」
「風呂はあっちだ、説明してやるから来てくれ」
テアの肩を掴んだまま、風呂場に彼女を連れて行く。なんだかイケないことをしている気がしなくもないが、彼女非存在暦17年の東雲文明における特殊な反応であることは分かりきったことだ。蛇口やシャワー、石鹸の説明をして出ていこうとした瞬間、テアは服を着たままシャワーを頭からぶちまけた。真顔で。
「いや、服は脱げよ!!」
「イフ?」
俺の叫びにテアは良く分からないというような顔をする。そっちの国では着衣入浴が普通なのだろうか? 濡れた服が肌に張り付いて、体の線が顕になる。薄っすらと下着の色が見えるほどに。まずい、これ以上は危険だ。脱衣場にバスタオルだけ用意して、俺は浴室から脱出した。
「はあ……どうしたものか……」
依然、背後でシャワーの音が流れ続けている。
彼女の服はずぶ濡れになってしまった。女性の服など母さんのものくらいしかこの家にはない。体に合わないかもしれないが、当分は俺のジャージやパーカーで凌いでもらう必要がありそうだ。
テアにこれから着せる服を考えていると、背後の水音が止まった。
「アヴィラルアヴァル、ユウ」
彼女の声が聞こえて、振り返ると脱衣場に続くドアが開いていた。その先には用意しておいたバスタオルを片手にテアが立っていた。大切なところはギリギリ隠せているが、腰の緩やかな曲線があらわになっている。柔らかそうなお肌が照明の光を浴びて、艶かしく光っている。
少しでも角度が変われば色々と見えそうだ。そんな気はないが。うん、俺には少し刺激が強すぎる。
「た、た、た、頼むから、ふ、服を着てくれ!!」
「フグ?」
「なんで、この娘はこんなんなんだっ……!」
ガバっとテアに背を向ける。これは撤退ではなく転進である。東雲遊の辞書に後退の文字は無いのだ。
藁を掴む思いで、適当なジャージの上下を取り出してテアの方に投げる。
「レンイルウェンイミハト?」
「俺のお下がりは嫌かもしれないが、頼むからそいつを着てくれ……」
しばらくすると布が擦れる音が聞こえてきた。思春期の男子とあれば、背後で女の子が着替えているなんてシチュエーションは垂涎ものだと思うかもしれないが、それ以上にこの状況を誰かに見られでもしたら社会的に終わるという危機感のほうが大きかった。
妄想ではどんな状況でも考えられるものだが、実際にその場に立ち会うと冷静に冷静じゃなくなるらしい。リアルとは怖いものだ。
「イルイミハト」
俺を呼ぶような言い方でテアは呟く。
おそるおそる後ろを向いてみるとテアは渡した青っぽいジャージを着て、床にぺたんと座っていた。サイズがちょっと大きいようで胸元が少し見えてしまっているが家の中に居る分には安全だろう。
「はあ……」
一気に疲れながらも、せっかくの休みを無駄にしたくない一心で冷蔵庫へと向かう。俺は卵とベーコンを取り出して、二人分の朝食を作り始めた。
料理をしながら、言葉について今一度整理してみようと思った。
着替える時に二度言っていた「イミハト」という言葉は着るという意味なのかもしれない。となってくると、「イル」は動詞の前に付いて「~した」という意味を表すのだろうか? あと、「レンイル」は「それ」とか「これ」のような意味を表す言葉だと思う。そう仮定すると、「レンイルアスアガフテ?」は「ここはアガフテではないの?」という意味で解することが出来る。「アガフテ」は「風呂」や「水浴び場」を表しているのかもしれない。「レンリル」に関しては、時折「レンリル」だったり「レンウィル」と言っているのも気になるがこれはまだ良くわからない。そして、俺がなにか言ったときにテアが連呼している「イフ」は「何」や「どうした」という意味だろう。「イフ」は文の最後にも来てるようで多分日本語の疑問を表す「~か?」に似ているものを感じる。
しかしまあ、これだけでも大分習得が進んだんじゃないだろうか。とくに物を指す言葉と尋ねる言葉が分かったのは大きな収穫だ。
言葉について考えていると、覗き込んでくる視線に気がついた。テアが横からフライパンを興味深そうに眺めていた。分かった言葉を使うチャンスかもしれない。そう、ふと思った。




