第三十一話 勧誘の言い方が分かったので困っている
「はあ……」
関西国際空港。西日本の海外への玄関口であり、一年にニ千万人の人々が利用する日本のハブ空港である。その待ち合わせラウンジに俺とテアは居た。ガラス窓から見える地上を這いずり、飛ぶ鉄の塊をテアは興味深そうに観察し続けている。確か到着してから数時間は経っているはずだが、飽きる様子もない。
弥弥が香港行きを告げてきたのは唐突であった。俺は家族が家族なこともあって、5年パスポートを持っていたから良かったものの、テアのパスポートの取得には少しばかり困難が伴った。そもそもテアは日本人ではない。パスポートの申請に必要な住民票の写しなど得られるわけもない。
よって使えるツテを最大限有効に利用する他無かった。そう、七海とギブソンだ。
彼らは、俺達が香港に行くのを止めようとしていた。黒龍集団に追われている今、危険なことは確かだ。しかし、奴らから動くのを待っていては事を終わらせるのに時間が掛かりすぎるのも事実だった。ギブソンの策というのもいつになれば、有効に動くのか分かったのものではない。安心して暮らせるようにするためには、能動的に動くのも必要というわけだった。
彼らの許可を得られたのは一つの条件を飲んだからだった。その条件はギブソンと七海がそばで俺たちを監視し、危険があれば逃げられるようにすることだった。
「しかし、弥弥のヤツ遅いな……」
「ヤヤ イルラト イフ?」
俺のぼやきにテアは首を傾げる。
彼女の服装はフード付きのジャージに短パンを合わせた感じだった。白い太ももが眩しいほどに魅力的でついつい視線が行ってしまう。気になって、彼女が振り返るたびに視線を外すのを繰り返していた。我ながら少しバカっぽいなと思ってしまう。
さっきの言葉に出てきた疑問を表す「イフ」の前に来ている「イルラト」は多分動詞なんだろうが、意味は分からなかった。そういえば、動詞に人を表す語尾が付いていない形を出して、意味を聞くことは出来るのだろうか? 「イルラト」に付いている人を表す語尾は第三者を表す「ト」だ。つまり、元の形は「イルラ」ということになる。
首を傾げたままのテアに向き直って尋ねてみる。
「イルラ イフ?」
「あぁ、ウィルラ アス アシュル イフ?」
「ヤバト」
俺の返答を確認すると、テアは俺から少し距離をとった。なんか変なことでも言ったのかもしれない。日本語でも思いもよらない表現が隠語となっている場合がある。ただ、彼女の表情はさっきと同じ落ち着いた様子だった。彼女はゆっくりと俺の方へと歩み寄って、俺の隣に座った。
「イル イルラン」
それでテアが何をしようとしていたのかが分かった。実際に動詞が表す動作を示してみせたのだ。
「イルラ」はおそらく「行く、来る」という感じの移動系の動詞なのだろう。そんなことを考えながら、納得しているとテアは俺の後ろに視線を向けて指をさす。
「あ、ヤヤ エト イルラト!」
「ん……」
振り返るとそこにはゴスロリの女の子――弥弥がこちらに手を振りながら、ヘラヘラと近づいてきてきていた。
「遅かったじゃないか」
「いやあ、電車を乗り間違えてな。何故か奈良まで飛ばされてしまったのじゃ」
「えぇ……」
弥弥はいつものことというような感じで後頭部を掻いていた。方向音痴だったのか……。
「それにしても、店の外でもその服装なんだな」
「ああ、ところによっては怪しまれて入管で止められたりするがな」
「懲りないのかよ……」
「懲りない! 服装の自由!」
「はあ……」
俺は嘆くようなため息を付きながら、荷物を持ち上げた。
「さっさと出国審査出て、ゲート前で待ってようぜ」
「えーっ、我、まだ昼飯食べてないんじゃが……」
「そうか、そういえばそうだな……」
俺とテアも家を出てから水分しか取っていなかった。普通ならここらへんで腹が空いていくるようなものだが、不思議と出先では空腹が実感できないものだと思いながら放置していた。多分飛行機の中で機内食が出てくるのだろうから、別に今腹ごしらえをしなくてもという魂胆でもあったが弥弥は耐えられなさそうだ。
「ここの二階に外食店が集まってるから、そこで何か食べよう」
「よし、腹ごしらえじゃなあ!!」
意気揚々とした足取りで弥弥は歩き出す。それを見て、テアは首を傾げながら確認するような口調で呟いた。
「イルラニス イフ?」
「あ、ヤバト……」
とっさに答えてしまったが、テアの言った言葉の共通点に気づいてしまった。「ニス」の語尾は「アス オラニス」の時と同じだ。やはり、動詞に付く語尾として「ニス」というものがあるらしい。この場合は「イルラ」に付いている。「行きましょうか?」と聞いてきたのだったら、おそらく「ニス」の意味は勧誘を意味するのだろう。「オラニス」の原型「オラ」は「構う」とか「面倒を見る」のような意味かもしれない。勧誘形の「オラニス」は「構いましょう、面倒を見ましょう」で、それを否定することで「お構いなく」を表すのだろう。段々と分かってきた。
そんな事を考えながら、俺は弥弥の背後を追うのであった。




