第二十九話 語頭に付くウの意味が分かったので困っている
ウが語頭につくバリエーションについて、最初に思いついたのは発音しやすくするために挿入される音――緩衝音の話だった。
たしか、柳は単語が子音――つまり、ア、イ、ウ、エ、オ以外で終わっている場合は、緩衝母音が入ると言っていたはずだ。そういったルールの一つとして、ウが語頭に付く場合もあるのかもしれない。
「うむむ……」
唸り声をあげる俺をテアは心配そうに見つめてくる。
それではなんだかしっくりと来ないのだ。「レンウィル」は要素を分解して「レン ウィル」となるのかもしれないが、「レン イル」でも場所を問わず普通に使えていた。「子音で終わる単語の後に母音で始まる単語が来るときはウが挿入される」というルールを仮定してみても、「ヤヤ」は子音始まりの単語なのでルールに沿わないのだ。
そういう意味でいうと、「ウ」が緩衝音だというのは考えづらい。
「ユウ?」
「ああ、なんでもないよ」
「ナンデモ?」
「ああ、イフ アス ヤバト……かな?」
テアの言葉で適当に答える。この言葉の使い方で正しいのかはあまり自信がなかったが、テアは左右に首を傾げながら考えるように頭上の空間を見つめていた。
しばらく考えた後にテアはオリーブグリーンの目を瞬かせながら、答えた。
「アス オラニス……」
「オラニス?」
「ヤバト、ロラニス アス ティラン」
「あ、アシュン、アシュン」
テアはにこっと笑みを見せて、こくりと頷く。
つまるところ、彼女は「もうこれ以上は要らない」と言っているのだろう。「オラニス」は「アス」が付いている以上、多分動詞なのだろうが新しい語尾が付いてきている。この語尾が何を表すのかを考えるのは難しいそうだ。とりあえず「アス オラニス」の形で「もうこれ以上は必要ない」という成句として覚えておこう。
そんなふうにテアと言葉を交わしている間、弥弥は横から興味深そうな面立ちでこちらを観察していた。いつもはあれだけおかしなことを言っているような人物だが、不思議なものを見るとどうも研究者としての血が騒ぐらしい。
「結構喋れるんじゃな」
「そう見えるだけだよ。まだ、普通の会話もおぼつかないレベルだ」
「ふむ、やはり合宿は必要そうじゃな」
「かもな」
今度はテアが俺と弥弥が話しているのを静かに観察し始めた。この二人と合宿となると、お互いに喋っている間じっと観察され続けることになるのかもしれない。
そんなところで、一つ疑問が湧いてきた。
「そういえば、合宿って何処に行くんだ? 人里離れた合宿場ってことは見当は付いてるんだろ?」
「まあ、その日が来るまで楽しみにしておれ。絶対にビックリさせてやるから!」
「そうか……」
なんだか嫌な予感がしないでもなかったが、その日はそれでお開きとなった。店をテアと一緒に出たときには既に空は夕焼け模様となっていた。店先から弥弥が手を振って見送ってくれた。夕焼けで橙色に塗られた街中を歩いて家路につく。
夕焼けの街は意外と人も少なくて、無言で歩いていると無性に寂しい気持ちになってくる。自然にテアと手を繋ぎながら、歩いていた。彼女の顔は夕焼けに照らされてもはっきりと分かるくらいには紅く染まっていた。手を握られるのが恥ずかしいのが文化的なものであれば、彼女も内心嫌がっているのかもしれない。
言葉が分からないせいで訊けていなかったが、この際はっきりさせておきたかった。立ち止まって問う。
「レン イル アス ティラル イフ?」
「レン イル」と言ったときに結んだ手をきゅっと握る。もし嫌がっていたのであれば、無理に手を繋ぐのは止めたほうが良いだろう。彼女に嫌われたくない。最初はそんなことは無かったのに、今になってはそんなことも想うようになってしまっていた。
テアは火照った顔のまま、不思議そうに目を瞬いてこちらを見てきた。ビル風が颯爽と吹き抜けていき、彼女のベージュの髪を撫でた。
「アス、ウユウ ユラン ワル……」
そういって、テアは手の繋ぎ方を変えてきた。それまで緩く繋いでいた手を解いて、指を絡めてきたのだ。それで確信した。彼女は嫌がっていないのだと。
「……なら、良かったよ。アヴィラン、テア」
恥ずかしながら、俺もテアの指の間に自分の指を絡める。いわゆる恋人繋ぎというやつだ。テアも恥ずかしさを顔に湛えながらも、嬉しそうに微笑む。
柳にテアのことを「彼女だ」と方便で言ってから、展開が早い。しかしもう、方便ではない。テアは命がけで助けた愛らしい彼女だった。
もうひとつ理解できたことがある。語頭に付く「ウ」の意味だ。それは目的語を表す要素で、日本語でいう「~を」を表す。テアの言葉ではそれを表現するために名詞の前にウを付ける必要があるのだ。つまり、さっきの「ウユウ」は「遊を」という意味になる。テアを助けたときに言った言葉は文法的に間違っていたことになる。
あのときから気持ちは変わっていない。否、より強くなった。自分の気持ちを今一度正しく表現し直すのは悪いことではないだろう。
テアの透明な瞳を見つめて、俺は言った。




