第二十五話 ガラスが壊れる音が聞こえたので困っている
「ふむ、なるほどなあ」
柳は顎をさすりながら、紙を眺める。そこには俺がこれまで理解してきたテアの言葉の全てが書き込まれていた。俺達が彼女の言葉の話をしているのだと理解したのか、テアも質問に答えたり、時々言葉を漏らしていた。ものによっては理解できないものもあったが、それは柳が考察をするに当たって役立ったようだった。テアの漏らす言葉に「あーうー」と鳴き声に近い反応を挙げながら、紙になにかをメモっていく。
そして、一息ついて今に至るのであった。
「さしずめ、文法としてはテュルク諸語に近い気もするな」
「テュルク諸語?」
柳は頷く。
「トルコ語などを含む言語の一系統だ。主に中央アジアで話される」
「どういうところが似てるっていうんだ?」
「うむ、例えば、動詞の人称語尾と名詞の人称所有接辞が同形だというところとかだな」
「……つまり、どういうことだ?」
よく分からずに問いかけると柳は大きくため息をつく。
「これくらいの術語も分からないというのに少数言語の分析をしようとしていたのか」
「しょうがないだろ。こっちにはこっちの事情があるんだよ」
「まあいい、動詞の人称語尾というのは動詞の主語で語尾が決まるということだ」
「例えば……?」
「ティラという動詞は『~を望む』ということを表すようだが、これにンを付けてティランとなると『私は~を望む』という意味になる」
「ああ、人を表す語尾のことか……それで、名詞のニンショーなんとかかんとかってのは?」
柳はこちらを怪訝そうに見ながら、「人称所有接辞だ」と言い直した。
「名詞の人称所有接辞は『誰かの何か』の誰かの部分を表す語尾のことだ。ミス・テアの言葉では本はキィらしいが、『私の本』だとキヤンとなる」
「そうなのか……じゃあ、特定の語尾が付いているからといって名詞か動詞かは区別できないんだな」
「そういうことになる」
柳は鼻をすんと吸って答えた。しかし、それでは少し疑問が生まれる。
「なんで、キィンじゃなくてキヤンなんだ?」
「恐らく緩衝母音が挿入されているんだろう」
「カンショウボイン?」
また良く分からない単語が出てきた。柳は面倒くさそうな顔をしながら、説明を続けた。
「緩衝音というのは言いにくい音を言いやすくするために挿入するものだ。子音が音節境界で連続するのは禁則なんだろう」
「よく分かんねえけど、そういうルールがあるんだな」
「まあ、そうだ。というか、発音が違う。キィじゃなくてキィだ」
柳の発音は全く同じものにしか聞こえなかった。
「キィ?」
「キィだ」
「同じように聞こえるぞ」
「違う、最初の子音は無声口蓋垂破裂音だ」
「なんだって?」
「あぁ、これだからマグルは。簡単に説明するなら、喉元で発音するか行音だ」
柳は紙に"qiy"と書き加えた。そして、その横に"qiyën"とも書き加える。
「こう書いたほうが分かりやすい」
「そうかな……」
「というか理論化しやすいのだ」
柳が紙に色々と書いているのをテアはじっくりと見つめていた。なんだかその眼差しに尊敬が混じっているような気がした。それで俺の気分が悪くなったのは不思議だった。
「じゃあ、『俺のフライパン』って言いたい場合は『フライパン』を表すシュルに『自分』を表すンを付けてシュルンになるのか?」
「違う、シュランだ」
「なんでだよ」
「シュルはcurだからだ。単語が子音――a, i, u, e, o, ë以外で終わっている場合は緩衝母音が入る」
「なるほどな……」
俺の耳ではテアの言葉の発音を正確には聞き取れそうにないが、覚えておくのに不利益はなさそうだ。
そんなことを考えていると柳はテアの方に向き直って、話し始める。
「ヤナギ ヤバン。イフ ヤバル?」
「あ……テア ヤバン。アス アリス タリス ティラン」
「アヴィラン。アス アリス タリス ティラン」
テアが恭しく礼をし、柳もそれに答えて頭を下げた。あとの方の言葉遣いが良く分からなかったが、言葉が通じ合っているのは明白だった。
なんだか気に入らない――というのが正直なところだった。自分のほうがテアと長く接してきたのに、柳のほうはすぐに言葉で意思疎通が出来るようになってテアと話している。面白くない状況だった。
「おい、女の子と話せて嬉しいのは分かるが、テアは……」
「分かっている。私にNTR趣味はない」
「お前は公共機関でくらいデリカシーのある会話が出来ないのか?」
「デリカシー……デリカテッセンの親戚か何かか?」
柳はこめかみを掻きながらそう答える。語学に敏い癖に、こういうところで単語を知らない。分かっていてすっとぼけているのかもしれない。出会ってからすぐそういうふうに思うようになってしまったのは言うに言い出せない話題だった。
俺は横に座るテアの手を自然に探していた。彼女との繋がりを確かめるためだったのか、見つけた彼女の手を絡ませるように繋いだ。
「ユウ……」
テアは困った表情で頬を赤らめていた。
やはり、手を触れられるのは恥ずかしいようだ。だが、彼女は俺が手を繋ぐのに任せて、解こうとはしない。それがお互いの繋がりの証明だった。
そんな下らない自信を嘲るように柳は喫煙者が煙を吹くようなため息をする。
「お熱いのは良いことだが、頭の中がピンクの大学生に恨まれて夜道で刺されんようにな」
「無いだろ、というかお前は気にしないのか?」
「ワタシは繁殖活動に興味は無いものでね。生物種としての重要な任務を失念している以上、欠陥だとは思うのだが――」
「分かった。もういい」
まともな会話を期待してこいつと話しているとやはり頭がおかしくなってくる。そんな喜劇のようなやりとりを交わしていると、テアの顔はすっかり真っ赤になってしまっていた。人前で手を触れるのは相当恥ずかしいことだったのかもしれない。
そんなことを考えていた矢先、図書館の奥の方で何やらガラスが割れるような音が聞こえてきた。
「何だ?」
俺が疑問を口にすると、柳は立ち上がった。
「バードストライクか何かだろう。なに、こういう都市圏のガラスには良く野鳥が突っ込むものだ。ワタシが見てこよう。君たちはそこを動くな」
そういって、柳は書見台から去ってゆく。俺はしばらくその背中を見つめていた。




