第十話 素顔の問題(問題編)
梅雨の長雨も過ぎ、いよいよ夏が本格的に始まろうとしていた。アスファルトには街路樹の影がはっきりと映し出されている。キャンパスへと続く長い坂道を、わたしは缶コーヒー片手に登っていた。
中腹まで歩くと、コンビニがある。その前で足を止め、缶コーヒーを飲み干すと、自動ドアの開く音がした。
「おはようございます。浅香先輩」
出てきた大月に声を掛けられ、わたしも挨拶を返す。ファッション誌がコンビニの袋から顔を覗かせていた。彼女はジャスミンティーを開けると、化粧品は何を使っているかとわたしへ尋ねる。どうやら上手くメイクアップができなくて悩んでいるらしい。
「ふうん、それでわたしに聞いたんだね」
困ったら相談に乗ると前に約束したのを思い出す。まさかこんな相談に乗るとは思ってなかったけど。わたしは胸の内で呟くと、大月とキャンパスへ並んで歩き出す。
「ほら、こういうのって友達に相談するのって恥ずかしくありません?」
そう聞かれてもどう反応していいか解らない。困惑を顔に出さないように努めながら後を促した。
「ふうん、それで?」
大月は立ち止まると、素早く後ろを振り返る。知り合いは誰もいないのを確かめて囁いた。
「はい、国川先輩って化粧っ気あまりないでしょう? かと言って村田先輩は……ね」
「まぁ、亜希子もそれなりに化粧してると思うけど……」
少なくともわたしよりは、と心の中で付け加えると、自嘲する。中にはメイクは芸術だと熱心に語る友人もいるのだが、わたしにはとても理解できない。毎日、面倒だと思いながら鏡台に向かっているのだ。
しかし、大月の憂鬱は正反対のものらしい。
「何か上手にお化粧する方法、ご存知ありませんか?」
「……ごめん。残念だけど知らない」
わたしが答えると、大月は嘆くように溜息をついた。
「ああ、もっと可愛ければなぁ。この時期は汗でお化粧が落ちちゃうし」
「そうだよね、大変」
わたしは話を合わせて、適当に頷く。
「友達にお化粧が上手な子がいて、まるで別人なんですよ」
「いるよね。確かに羨ましいけどさ。でもまぁ別にいいんじゃない?」
「うーん、もちろん、そうなんですけどねぇ」
しかし、彼女は納得行かないような顔をしている。地面にしばらく目を這わせていたが、首を振った。ジャスミンティーを飲んでいるその姿は、まるで言葉を胃の腑に押し流しているようにも見える
しばらく大月は迷っているかのようにアスファルトへ目を這わせていた。しかし、やがてポツリと呟くように尋ねる。
「お化粧してると、変な気分になりません?」
「変な……気分?」
わたしは訝って聞き返すと、大月はふいに押し黙った。笑いませんかと大月に上目遣いで尋ねられ、わたしは笑顔で頷く。大月は息をつくと言った。
「うーん、鏡をよく見るじゃないですか。そのとき、わたしってこんな顔だっけって思うっていうか……。素顔じゃない気がするっていうか」
「あぁ、分かる分かる。メイクした顔を鏡で見ると違和感があるよね」
化粧品の相談を生返事で聞いていて、後ろめたい。わたしは真剣な気持ちで頷いた。しかし、大月の答えは歯切れが悪い。曖昧な笑みを浮かべて言い淀んでいる。
「ええ、まぁ……。高校の頃、ほとんどノーメイクでしたし」
「面倒だよね。化粧って」
同志を見つけて嬉しくなったが、大月は首を振った
「あ、いえ、お化粧禁止の高校で……だからちゃんとお化粧するのは大学に入ってからなんです」
「あぁ、そうなんだ。化粧に慣れていないんだね」
なら、いっそのこと最低限のメイクで登校すればいいのに。口をついて出そうになったが、すんでのところで呑み込んだ。わたしは乾いた笑いを浮かべると、言った。
「まぁ、メイクっていうくらいだからさ、他人から見られたい顔に<作って>いけばいいんじゃないのかな」
「見られたい顔、ですか」
大月はポカンとした表情で繰り返す。わたしの助言なんて的外れに決まっている。そう思うと心苦しかったが、どうやら有益だったらしい。大月は一人でしきりに頷くと笑顔で言った。
「ありがとうございます」
「あ、ええと、役に立ったようで何より」
わたしは戸惑いながらもそう応える。しかし大月の嬉しそうな顔を見ているうちに、困惑も吹き飛んでしまう。喜んでもらえたならそれでいい。
坂を登りきると、夏の陽気な陽差しがキャンパスを照らしていた。
四時五十分、夕方とは言ってもまだ外は明るい。わたしはいつものように階段を上ると、E201号室へ向かっていた。「ミステリー研究」と脅迫状のように新聞紙を切り抜かれて貼られている。
しかしその貼り紙の内容には似つかわしくない、二人の女子学生の会話が漏れ聞こえてくる。大月と亜希子である。亜希子はどうやら化粧品の相談に乗っているらしい。
もしわたしが亜希子は入ると、三人とも話についていけるような話題を変えるだろう。相談を途中で打ち切ってしまうことになりかねない、と壁にもたれかかって、話が終わるのを待っていた。
「大月さん、人を選ばないとね。化粧品がどうたらとか萌に聞いても分からないって。あの子、女子力の欠片もないんだから」
亜希子が笑いながら言うと、大月は尋ねる。
「先輩はどこのブランド使ってるんですか?」
「わたし? わたしはね……」
亜希子はそう答えると、会社の名前をいくつか挙げた。そういえば広告が地下鉄で吊るされていたっけ。わたしはおぼろげな記憶を辿っていく。
「へぇ……、参考になりました」
大月の口調は興味津々だったが、会話は一区切りついたらしい。わたしは教室の扉を開けると、大月と亜希子が向かい合っている。机の上にはファッション雑誌。
二人と挨拶を交わして、わたしは少し離れた席に腰を下ろした。亜希子はしばらく神経質に机を指で叩いていたが、おもむろにカバンから本を取り出す。
「みんなを待っている間、クイズでもどう?」
亜希子の気遣いを無碍に断わるのも気が引けた。わたしは奇妙な疎外感を抱きながらも立ち上がる。
「いいね」
わたしは頷いて、大月の隣に席を移った。もうファッション雑誌は脇にどかされていて、代わりに大型本が置かれている。「引きこもりの研究──監視と眼差し──」。
亜希子は本を少し持ち上げると、この本に絡んでくると前置きした。そして朗々と読み上げるような口調で出題する。
「問題です。毎日、わたしたちはあるものを見ています。しかし道具を使わないと絶対に見れません。さて、その<あるもの>とはなんでしょう」
大月は首を傾げていたが、怖ず怖ずと尋ねる。
「あぁ何回くらい見てます?」
「そうねぇ」
亜希子は考え込んでいたが、含み笑いをして答えた。
「どんな人でも一日一回は見るんじゃない?」
亜希子の答えを聞いて、大月はしきりに隣で唸っている。わたしも亜希子の言葉をゆっくりと心の中で反芻する。一日一回……。待てよ、この本の内容と関わっているんだっけ。引きこもり、監視、眼差し……。
分かった、ような気がした。わたしがその旨を告げると、大月は驚いたような声で尋ねる。
「えぇ!? もう分かったんですか?」
「自信はないけどね」
わたしはそう言うと、亜希子を見た。亜希子は大月へ目を向けると、彼女は力なく首を振る。亜希子はにっこりと笑うと、わたしへ手を差し向けた。
「顔?」
わたしが答えると、大月は怪訝そうに聞き返す。
「顔、ですか? 確かに顔なら毎日見ますけど、でもそれって道具を使わなくとも……。現にわたしだって道具を使わなくとも浅香先輩の顔は……」
「確かに、誰かの顔ならね。でも<自分の>顔は?」
他人の顔ならいざしらず、わたしが自分の顔を見るには道具を使わなければいけない。例えば鏡、カメラ、窓……。そして自分の顔は毎日見ている。メイクの時、入浴の時、そして帰りの地下鉄でふと窓に視線を移した時……。
今まで鏡には何千回と鏡へ映し出されてきた「わたしの顔」。それらを思い出しながら亜希子へ確かめる。
「そうだよね?」
亜希子はもったいぶったように間を持たせた後、ニッコリと笑って頷いた。
「正解」
恥を掻かずに済んだ。わたしは安堵したが、大月は我がことのように歓喜を上げた。わたしよりも嬉しそうである。
「そういえばこの本とどう関わってくるんです?」
大月は戸惑いがちに尋ねた。それに引きこもり、監獄、眼差しの関係も分からない、とも付け加える。引きこもりと言えば社会から誰とも会いたがらず、自分の世界に閉じこもってるという印象がある。亜希子はどう説明したらいいか考えているらしい。
「わたしたちっていつも誰かの目を気にしてるじゃない?」
その問いかけに、わたしは首を傾げる。
「そうかなぁ、だって家に帰ったらまずメイクを落とすし」
「でも部屋で裸にはならないでしょ?」
亜希子の質問に、わたしは苦笑した。
「当たり前でしょ。変態じゃないんだから」
「誰も見てないんだから、裸になってもいいんじゃない?」
「宅配便とかくるかもしれないし」
「その時だけ服を着れば?」
わたしは納得が行かずに唸ってしまう。実利的な話でないと、噛み合わないこともある。何とか想像力を働かせてみても、実感が湧かないのだ。そんな話は役に立たない、と思ったところでしょせんは負け惜しみでしかない。わたしは今どんな顔をしているんだろう? 拗ねた顔? 不貞腐れた顔? それとも……。
大月は理解しているのだろうか、と彼女に眼差しを向けると、しきりに頷いている。悔しさと同時に寂しさが沸き起こった。
「あぁ、分かります。誰かが見てたらどうしようって恥ずかしくなりますよね」
単に寒いからではないか、とも思った。しかし冬ならともかく、夏はこの理屈は通用しない。かと言って誰かに見られてるという感覚があったら、精神病を疑ってしまう。平行線を辿りそうな気がするので、その反論は胸のうちに留めて先を促した。
「……それで?」
「うん、それでね、こんなふうに多かれ少なかれ誰かの視線を感じてるんだけど、引きこもりは視線を過剰に感じてるって解釈してるわけ。だから外に出られないの」
そう言われてみれば、と思い至った。もし本当に世間との交わりを断ってるのだとしたら、パジャマ姿でも厭わず外に出るはずである。誰の視線も感じていないのだから。
しかし現実は部屋に閉じこもっている。中にはカーテンを締め切っている人もいるらしい。視線を遮断するかのように。ドキュメンタリー番組を思い出しながら、亜希子の話を聞いていた。
「それで眼差し、ともつながってくるんですか?」
しかし大月の予想は外れていたようである。亜希子は首を振った。
「ほら、人間って欲しいものに目を向けるでしょ? でもそれは本当に欲しいもの?」
「え、どういう、ことです?」
大月は戸惑いがちに言うと、わたしへ救いの眼差しを向ける。あいにくだがわたしもさっぱりわからない。わたしがゆっくりと首を振ると、亜希子は宙に視線を漂わせる。やがてファッション雑誌を指差して言った。
「例えば、他人から可愛く見られたいでしょ?」
「はぁ、まぁ……そうですね」
「それってこう言いかえることもできない? 本当に欲しいのは化粧品じゃなく、他人からの眼差しだって」
「うーん、それはちょっと極論のような気がするけど……」
わたしは苦笑したが、確かにそうかもしれないとも思った。上手く言えないが、何となく的を射ているような気がするのである。一方で的外れだとも思えてくる。
亜希子は不平そうに言った。
「わたしはただ本の内容をまとめているだけ」
「まぁそうなんだけどね」
わたしはバツが悪くなって俯く。雰囲気を察してか、大月は慌てて言った。
「確かにお洒落をするのは可愛く見られたいからですよね。……それで監獄とどう絡んでくるんですか? 暗喩ですか?」
「うーんと、この辺りは多分萌の学部とも関わってくると思うんだけど……」
亜希子から唐突に名指しされ、わたしは驚いて聞き返す。まるであらぬ方向からボールが飛んできたような心境だ。
「わ、わたしの?」
「うん、確か昔の刑罰って身体を痛めつけてたけど、近代から監獄に幽閉するようになったんじゃなかった?」
「ええと……」
わたしは法制史の講義を思い出しながら言った。この講義は余り得意ではなく、辛うじて落第を免れたのだ。歴史など役に立つんだろうか、とうんざりしながら受けていたっけ。
「確かそうだったはず。塔から独房を監視できるようにしたのもその頃だった、と思うんだけど……」
わたしの答えを聞いて、亜希子は笑顔で頷いた。そしてもし看守が実際には寝ていて、囚人たちは見ていると<思い込んでるだけ>だとしたらどうなるかと尋ねる。しかしわたしは質問の意図が飲み込めない。
「どうなるって?」
「どういうことです?」
わたしと大月はほぼ同時に尋ね、顔を見合わせた。彼女のきょとんとした顔を見て、わたしは少し安心する。
亜希子はしばらく宙に視線を漂わせていたが、やがて口を開く。
「脱獄とか企てたりする?」
「しないでしょ」
わたしが即答すると、亜希子は満足そうに頷いた。我が意を得たりという顔である。
「どうして?」
「え、だって見られていると思い込んでるんででしょう? それで、引きこもりとかの話とどう関係してくるわけ?」
わたしの問いに答えたのは大月だった。
「あ、何となく分かったような気がします。つまり見えない視線で……」
しかし大月の言葉は段々と消えかかっていく。亜希子は明るい顔で頷くと、大月の言葉を引き継いだ。
「そう、誰も見てなくても、ちゃんと誰かの目を気にするようになるの。これで社会の規律を守れるってわけ」
なるほど、誰かの目を気にするという点でつながってくるのか。わたしは納得しかかったが、言い包められてるような気がする。原因は思い当たった。そう、実際に監獄は登場していない。ただの比喩がいつの間にか現実の世界にすり替わっているのだ。
「でも……」
わたしの反論は大月の溜息で遮られる。そして、世間はまるで監獄みたいだ、と彼女はポツリと漏らした。
暗く淀んだ監獄の情景。それが大月にも伝染してしまったらしい。
どう元気づけようか迷っていると、教室のドアが開いた。村田が声を弾ませて、わたしたちに挨拶した。
「ヤッホー」
彼女の機嫌がいい理由はすぐに分かった。彼女の後ろから柘植が顔を覗かせていたのだ。エレベーターの前で会って、話しながら来たと村田は語った。
「そうですか……」
わたしは曖昧な笑みを浮かべて応える。どう返していいか分からない。村田同様、大月も彼のことが気になっているのが分かる。例えばメイクの仕方。そんな彼女の前で、村田へ「よかったですね」とは言いにくい。
亜希子は椅子を村田へ向けると、ニッコリと微笑んだ。自然な笑みである。
「よかったですね」
ええ、と村田は頷くと、柘植の着席を確かめた。スマホを一瞥すると、大月へ尋ねた。
「問題は作ってきたんでしょ?」
「はい、作ってきました」
大月は得意そうに言うと、カバンを寄せる。そしてクリアファイルを取り出すと問題用紙を配り始めた。
目を落とすと、そこは簡潔な問題が記されていた。
アメリカの某都市。ある男がエイブラハム・リンカーンの評伝を執筆中に頭を殴られました。ご存じ、リンカーンは黒人奴隷を解放した立派な大統領、というのが一般的な評価です。五ドル紙幣にはリンカーンの肖像が描かれているほど。しかし彼の評伝は従来の評価に一石を遠じ、素顔に迫ろうとしていました。いわば野心作だったのです。
暗殺されたリンカーンは即死でしたが、彼は殴られても、まだしばらくは生きていました。そこで力で振り絞って、せめて犯人の名を記そうとしたのです。
たまたま手許にあったのが、表紙のページ。そこにはこう書かれていました。
Abraham Lincan, My dear.
言うまでもなく、「親愛なるエイブラハム・リンカーン君」という意味です。被害者はその一ページを掴みました。そして様々なペンの中から蛍光ペンを選ぶと、そこで息絶えてしまったのです。
警察が彼の交友関係を洗ったところ、四人の容疑者が浮上しました。
一人目はリンカーンを乗り回す実業家、マシュー(Matthew)。アブラハムの宗教、つまりユダヤ人です。
二人目は銀行員、マイヤーズ(Myers)。マシューもウィリアムも被害者に多額の金を貸していました。
三人目は、愛人リン(Rin)。最近、被害者と別れ話を巡って揉めていたそうです。
最後は日本人の隣人、アベ。翻訳を担当していましたが、被害者から東洋人だからと見下されていました。
さて犯人は誰でしょう。
「今回は数字の問題じゃないんだね」
柘植がそう呟くと、大月は俯く。そして恥ずかしそうな声で言った。
「う、うん……。どうかな」
しかし柘植は何も言わない。感想がもらえると期待していたらしく、落胆したような溜息をついた。亜希子はその様子を見て、彼女にもっと長いものを書いてみたらどうかと勧める。
大月は慌てたように手を振った。
「無理です無理です。買いかぶりです」
「そうかなぁ、長くできる要素があるけど?」
わたしにも言われ、大月は戸惑っているようだ。
「そうでしょうか……」
大月によると、この問題を書くときに挑戦したそうだが、挫折したらしい。色々参考にしたものの、どこをどう直せばいいか解らなかったと語った。
わたしは頷いて言う。
「あるある。例えばそれぞれの人間関係を描いてみるとかね。会話とかで」
「でも何かオリジナリティに欠けてしまって」
「え、別にいいんじゃないの? どうせ創作は引用の繰り返しなんだし」
わたしが言うと、村田が身を乗り出す。そして冷やかすような声を上げた。
「さすがクリエーターが恋人にいると言うことが違うわね」
土足で聖域へ踏み込まれたような気分である。あなたが昔、付き合っていた男性が引用したんですけど、と言いたくなったが、大人げない。それにわたしから惚気話をすることもあるのに、冷やかされたくないなんて虫がよすぎる。
そんなことを思っていると、突然、村田が冗談めかした。
「萌、ごめんって。何もそんな顔しなくとも」
彼女の一言で顔を上げて、村田を見る。そして思わず間の抜けた声を上げてしまった。
「へ?」
わたしは今、どんな顔をしていたんだろう。話の流れから察すると、知らず知らずのうちに苛立ちや不機嫌さが顔に出ていたのかもしれない。あるいは顔を顰めていたんだろうか。
「あ、いえ、全く別件で……」
わたしはとりあえずそう言うと、村田は安堵したように溜息をついた。問題を解いている間の沈黙はいつもと違って気まずい。誤解を解くのなら早いに越したことはないのだが……。
その沈黙に耐えきれなくなったのか、隣では大月の振り向く姿が見える。続いて聞こえる話し声。一応、声を潜めているものの、話し声が漏れてくる。
「そういえば、海外の推理小説を読んでるんですけど、英語の名前って覚えにくくありません?」
「まぁ馴染みがないからね……太郎とか花子ならまだ覚えやすいのかも」
後ろから聞こえる亜希子の囁き声。
「そうなんですよ、特に覚えにくいのが愛称。トマスがトムで、ウィリアムがウィル、サムエルがサムで、アレキサンダーはアレックス、えーと……、エイブラハムはエイブでA-B-Eと書く、と。あぁ、あれって最初の音を取ってるんですよね」
大月の口振りは嘆くようだったが、暗記していた原稿を読み上げるようでもあった。
「そうだけど? まぁ愛称とは少し違うけどね」
「そうなんですか。……ありがとうございました」
しかし亜希子は鉛筆を構えていたらしい。大月はいそいそと話を切り上げると、前に向き直った。
わたしがあれこれ考えながら、鉛筆を走らせていると村田の声が聞こえてくる。
「ダイイングメッセージねぇ……。推理小説ではよくあるけど、実際、絶命寸前なのにパズルなんて思い付く? 大月さんの問題にケチをつけるわけじゃないけど、いつも疑問なのよね……」
それを聞いて、亜希子が苦笑交じりに応えた。
「まぁ、所詮はフィクションですし、何でもありですって? 面白ければ」
「確かにそうなんだけど、中には……」
村田の批評を遮るのようにアラームが鳴った。彼女はスマホに手を伸ばすと、ニッコリと大月へ尋ねた。
「で? ヒントはあるの?」




