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第五話 規則の問題(問題編)

 夕方の大学図書館には人がほとんどいない。スマホを見ると、もうすぐ五時になろうとしていた。わたしは伸びをすると、刑事訴訟法のノートを閉じる。日が高くなったな。そう胸の内で呟くと、無地のナップサックへ筆記用具を放り込む。

 そして図書館を出ると、石畳を通ってキャンパスに向かった。外は暖かく、多くの学生は半袖シャツを着ている。わたしが歩いていると、後ろから大月に声を掛られた。

「浅香先輩」

「やぁ、珍しいね。この時間にいるなんて」

 わたしがそう返すと、彼女はバツの悪そうな表情で言い淀む。

「ええ、まぁ……」

 サボったと分かったが、わたしが口を差し挟む問題でもない。誤解と気まずさを拭うためにも当たり障りのない話題に変えようと尋ねた。

「ところで新生活には慣れた?」

「ええ、それなりには。……履修の順番って自分で考えなきゃいけないんですね」

「何とかなるでしょ。まぁ要するに卒業さえできればいいんだからさ。だから気楽に」

 同じ台詞をわたしが聞いたら、複雑な気持ちになるだろう。それを大月に言っていいものだろうか、と勝手な躊躇いを覚えていた。

「そうですね。ありがとうございます」

 大月は安心したように笑うと、続ける。

「……あぁ、それから」

「ん? 何?」

 わたしが聞き返すと、大月は笑みを浮かべた。しかし、苦笑とも微笑ともつかない。彼女は洒落たハンドバッグからジャスミンティーを取り出す。

「それから今日の問題については何も答えませんからね」

「……そんな卑怯なマネしないから安心して」

 何で亜希子といい、わたしが話しかけるとすぐに問題の手がかりを聞きたがってると思うんだろう? 少し心外だったが、その気持ちを笑顔で隠して続けた。

「それにここでの話は証拠として使えないし、仮に聞いたとしてもウソを言えばいいんだし」

「まぁそうなんですけど、私、ウソつくのが下手なんですよね」

 大月はそう言うとイタズラっぽく肩を竦める。それを見て、わたしは苦笑交じりに返した。

「そんなの上手くなっても仕方がないと思うけど……」

「そうですね」

 大月は笑ったが、その笑みはどこか弱々しい。しばらく無言で歩いていると、談笑しながら歩いてくる学生たちとすれ違う。

 わたしたちがE号棟に着くと、大月はガラス戸を押した。中に入ると真正面にエレベーターが見える。いつもなら階段を使うのだが、たまにはエレベーターを使うのも悪くない。大月とエレベーターを待っていると、大月の溜息が聞こえてきた。

「それなのに村田先輩ったら……」

「え?」

 それを聞いて、わたしは大月の顔を見る。彼女は顔を伏せて答えた。

「いえ、なんでもありません。ごめんなさい」

 村田と何かあったんだろうか。そういえば……、と先日、亜希子から聞いた話を思い出す。親睦会の日に村田が待ち合わせ場所に来なかったそうである。気にはなったが、なにせ又聞きである。不確かな情報をもとに踏み込めば、傷口を広げかねない。わたしに火の粉が掛かるのは一向に構わないが、そもそも彼女が話したがっているとは限らないのだ。

 そう、とだけわたしは短く答えると、さらに続ける。

「まぁ何かあったら相談には乗るよ。その……履修の順番も含めて」

「ありがとうございます」

 大月はそう言ったものの、上の空とも他人行儀とも取れた。折しもベルがエレベーターの到着を告げる。この話題を打ち切る合図。わたしにはそう聞こえた。

 二階へ到着するまでの間、推理小説の話題でも振ろうかと大月を一瞥する。しかし、彼女は考え事をしているようである。無理に話しかけることもないだろう。わたしは二階に着く間、読みかけのハードボイルド小説について想像を巡らせた。

 

 E201号室からは村田の声が聞こえてくる。苛ついているようで、刺々しい。

「ウソじゃないわよ。本当に時計の下に行ったんだから!」

「そんなこと言っても……わたし……」

 亜希子の消え入りそうな声を聞き、わたしは思わず扉を開けた。大月は躊躇いがちに小さな声を上げたが時すでに遅し。ガラリ、といつもより大きな音が教室に響く。

「こんにちは」

 わたしはそう言うと、教室を見回した。村田は亜希子の隣で、拗ねたような顔をしている。わたしはそんな彼女へ続けて尋ねた。

「柘植くん、まだなんですか?」

 もちろん確認の意味もあったが、諍いを長引かせたくない。異性を意識するとかなり口調も違ってくるのだ。好みの男であれば、なおのこと。女のわたしが言うのもどうかと思うが、正直、女性は面倒くさい。わたしは密かに溜息をつくと、村田を見た。

 彼女は気まずそうに傍らのオレンジジュースを飲んでいる。やがてわたしと目が合い、無言で手を挙げた。わたしの一言で我に返ったらしい。

 一方の亜希子は明るい声で言った。

「やぁ萌」

 そう言うと、少し間があって付け加えるように続けた。

「……大月さんも」

「こんにちは」

 大月はそう言って、教室に入る。そして村田に会釈すると、大月は彼女の後ろに座った。口論を立ち聞きして気まずいのか、不機嫌な村田が怖いのか、大月は縮こまっている。わたしはそんな彼女の隣へ座った。

 しかし村田からは大月の顔は見えるはずもない。村田は頬杖をついて、物思いに耽っているようだった。何を考えてるんだろうか。気になったが、顔は影になっている。近くに座っているのに、互いの顔は見えないのだ。手を伸ばせば届くほどの距離なのに。

 村田は横向きに座り直すと、短く笑った。そして大月に尋ねる。

「で、問題は作ってきたわよね?」

「あ、はい……」

 大月はそう答えると、カバンを探った。しかし村田は教室の時計を見上げると、言う。

「ねぇ、柘植くんが来てからにしない? だって、ほら、可哀想だし」

「えぇー、わたしがいなかったときは時間厳守とか言って先に始めてたのに……まぁいいんじゃないですか? 確かに一理ありますし」

 亜希子の声は不平そうだったが、提案そのものには興味がなさそうである。さっきの一件もあってか、村田に従うことでこれ以上、仲違いをしたくないのかもしれない。

 村田はしばらく黙っていたが、ポツリと呟いた。

「ごめんね」

 そして大月に向き直ると、どうするか彼女にも尋ねる。大月はしばらく迷っていたが、こう答えた。

「今までどうやってきたのか分からないので、先輩がたにお任せします」

 そしてジャスミンティーを飲むと、控えめにこう付け加える

「せっかく作ってきたんですから、みんなに考えて欲しいですけど……」

 村田は笑って頷くと、わたしへ尋ねた。

「萌はどう?」

「待ってましょうよ。楽しむのが目的なんですから」

 わたしはそう言うと、大月を一瞥して続けた。

「大月さんもせっかく問題を作ってきたんですし」

「ええ、そうね」

 亜希子は気を取り直したらしく、笑って頷いた。そもそも彼女は問題を解こうという気はあまりない。それよりもみんなと小説の話題で盛り上がりたいのだ。『海辺のカフカ』を読んで、カフカに興味を持ったと亜希子は告げた。

 大月はそれを聞いて、溜息をついた。

「わたし挫折しちゃったんですよね、あれ」

「まぁ確かに文体がねぇ」

 亜希子が言うと、大月は首を振る。

「いえ、文体は平気です。ただ途中で猫の首が切られるでしょう? 最初のほうで。あれで読む気が失せて……」

「そうなんだね。猫好きなの?」

 わたしが尋ねると、大月は笑って頷いた。そして、大月が猫を飼っているという話が出るやいなや、亜希子は身を乗り出す。

「写真ある!?」

「ありますよ」

 大月がそう答えると、スマホをタップした。彼女の愛猫を見ようと、亜希子も村田も立ち上がる。そして大月の机に集まって、歓声を上げ始める。その嬉しそうな声を、わたしは座ったまま聞いていた。しばらくして後ろで扉の開く音が聞こえる。

 わたしが振り向くと、柘植が立っていた。

「遅れてすみません」

 彼が小さく頭を下げると、村田は笑う。猫の力で、すっかり和気藹々とした空気になっていた。

「いいのいいの。それぞれ事情があるんだし」

「は、はぁ……」

 事情が飲み込めないらしく、柘植はきょとんとしている。

「さぁ、始めましょ」

 彼女は上機嫌でそう言うと、立ち上がった。そして教卓の前に進み出ると、大月に続けて言った。

「それじゃ問題よろしく」

「分かりました」

 大月は自信たっぷりの笑みを浮かべて、紙を配る。その紙には丸っこい手書きの文字でこんな問題が記されていた。


 0=1

 1=1

 2=2

 3=3

 4=5

 5=4

 10=?


 前回に引き続いてまた、数字の問題か。柘植の問題を見て思い付いたんだろうか。わたしは胸のうちで呟くと、問題に目を落とした。左辺は5まで規則正しく数字が並んでいるが、右辺に1、1、2、3、5、4、と不規則に並んでいる。

 わたしが溜息をついていると、亜希子が振り向いた。そして笑いながら囁きかける。

「なに、解けないの?」

「こんな少ない手がかりじゃねぇ……」

 わたしはそう言って、肩を竦める。ふうん、と彼女は短く言っただけだった。亜希子は答えが分かったんだろうか。

 しばらくして柘植の声が聞こえてきた。

「このイコールって数学で使われてるのとは違う意味なんだよね?」

「え? ごめん、どういうこと?」

 大月は困惑したような声で尋ねると、柘植は唸り声を上げる。どうやら数学は得意だが、それを他人に教えるとなると話は違ってくるらしい。

 そこへ村田が笑顔で助け舟を出した。

「つまり同じ意味かってことでしょ? そうよね?」

「意味……、意味っていうか、まぁそうですね。だいたい合ってます」

 しかし柘植の返事は歯切れが悪い。再び唸り声を上げていたが、さらに続けた。

「でも、見るからに数学的な意味じゃありませんし、僕の質問は無視してください」

「OK」

 村田はそう言ったが、その声は少し不満そうである。その気持ちを表すかのように、アラームが鳴り響いた。顔を上げると、村田はわたしたちの顔を見回して尋ねた。

「問題解けた人、いる? 解けたら手を挙げて」

 柘植は分かったんだろうか。彼よりは先に解きたいと思っていたが、あいにくわたしもまだ正解には辿り着いていなかった。

 幸いにも誰も手を挙げない。それを見て、村田はわたしたちに確かめる。

「誰もいない?」

 そして大月を見て、ヒントがあるか尋ねた。

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