第四話 群衆の問題(解決編)
「みんなが見ていたから通報しなかったんです」
わたしが自信たっぷりにそう答えると、村田が眉を顰めて尋ねた。
「どういうこと? なんだかチェスタートンの小説みたいな逆説だけど、ちゃんと説明できるわよね?」
「ええ、もちろんですつまり、誰かが通報してくれるだろう、とみんなが思っていたとしたらどうでしょうか?」
「ちょ、ちょっと待ってください。みんなの心理なんて分かるんですか?」
柘植が口を挟むと、わたしは微笑んで頷いた。
「うん、みんな面倒事には巻き込まれたくないと思ってる。わたしだって勇気がいるんだよ。こう見えても。ここまでは分かる?」
柘植の不服そうな呟きが聞こえてくる。
「まぁ気持ちは分からなくないですけど……でも誰か一人くらい通報してもよくありません?」
「うん、そうだね。コンビニの防犯カメラがなかったら話は違ってたかも」
わたしがそう答えると、村田は笑って言う。
「つまり、コンビニの店員が通報すると思ってたってことね」
「そういうことです。そのための防犯カメラなんですから。自分から面倒事に首を突っ込まなくても通報するだろう、と〈みんな〉考えていたとしてもおかしくはありません」
「うーん」
柘植の唸り声を、村田は頬杖をついて聞いている。しばらく眼差しを送っていたがやがて彼女は柘植に確かめた。
「反論はない?」
「ええ、まぁ……何か納得行かないですけど」
あまりに漠然としている! 柘植の台詞を聞いて、わたしは苦笑交じりに彼へ言った。
「何かって……」
「上手く言えないんですが……」
柘植はそう応えると、笑って続けた。
「でも、人の心って案外そういうものかもしれませんよね」
そうね、と村田は短く応えると確かめる。
「それは反論はないって受け取ってもいい?」
「ええ、大丈夫です」
柘植が今度は明るい声で答えると、村田は亜希子に尋ねた。
「萌の答えで大丈夫?」
「うーん、えーとねぇ……」
亜希子が言い淀んでいる。わたしは不安になって彼女に目を向けると、ミルクティーを一口飲んで言った。
「まぁいいでしょう」
しかし奥歯に物が挟まったような言い方である。余計な気遣いは不要だから白黒はっきりさせて欲しい。
「どういう意味?」
わたしが尋ねると、亜希子は意外そうな顔で聞き返す。
「あれ、傍観者効果って聞いたことない? 目撃してるのに誰も話さないってヤツ。刑事事件とも絡んでるって心理学の先生が言ってたの。だから萌も知ってるのかなぁと」
「あぁ……、何か聞いたことあるような。アパートの下で通り魔があっても、住人たちは通報しなかったって話、だっけ」
わたしは曖昧な記憶をたどって確かめた。ええ、とだけ亜希子は短く頷くと、机を爪で叩き始める。
「ひどい話ですね。亜希子先輩」
大月が憤然とした口振りで言った。しかし、亜希子は大月から目を反らして答える。
「そ、そうね」
もしかしたら駅で大月と柘植が困っている姿を見かけながらも、声を掛けなかったことに引け目を感じているんだろうか。
そういえば、わたしが作品を書いてきたとき、亜希子は信念を嗅ぎ取ったっけ。もしかしたらこれにも思いがにじみ出ているのかもしれない……、そんなことを考えて、わたしは彼女の小説へ目を這わせた。
しかし何も読み取れない。わたしが諦めて首を振ると、亜希子は恥ずかしそうに笑った。
「わたしの小説なんて、そんな熱心に読むような作品でもないのに……」
そう言うと、カバンを引き寄せる。そして箱を机の置くと、わたしたちへ広げた。
「はい、お土産、『栗きんとん』よ」
どうやらさっきは問題を盗み見られると思って、カバンを隠したわけではないらしい。土産に何を買ってきたか、伏せておきたかったのだ。
大月は栗きんとんを見て、嬉しそうに言う。
「いただきます。実は私からもお土産が……」
彼女もカバンから紙袋を取り出すと、机の上に置いた。萩の月と書かれている。
「ありがとう。東北かぁ、横溝正史が書いてそうよね」
村田は弾んだ声でそう言う。そして、包みを破ると得意げな顔で続ける。
「一つ家に遊女と寝たり萩の月ってね」
この俳句に見立てて殺人が起きる。そんな推理小説を横溝正史が書いているのだが……、、亜希子と大月からは苦笑が漏れ聞こえてきた。村田はきょとんとした表情である。
「先輩、<萩の月>じゃなくて<萩と月>ですよ」
わたしは彼女へ囁くと、銘菓を頬張った。
わたしたちはしばらく推理小説の話で盛り上がっていたが、村田がスマホを見た。そしてバイトに遅れるからと席を立つ。
柘植もカバンを掴むと、立ち上って早口に言った。
「僕も失礼します」
「あ、それじゃあ私も。亜希子先輩、栗きんとん、ご馳走様でした」
大月もゆっくりと立ち上がる。そしてうやうやしく笑顔で一礼すると、教室の扉を静かに閉めた。
わたしも帰ろうとカバンを掴んだが、亜希子だけは帰ろうとしない。いつもなら一緒に帰ろうと誘うはずなのに。その様子に違和を覚え、わたしは心配して声を掛けた。
「どうしたの?」
「なんでもない」
亜希子はぽつりと呟くように言う。そのまま帰るのも気が引けたが、これ以上、尋ねても話さないだろう。
そう、とわたしは短く応えると、隅の席に座り直す。その席は、亜希子から少しだけ離れていた。そして司法試験の問題集を取り出し、勉強を始める……振りをする。
「帰らないの?」
亜希子の怪訝そうな声が聞こえると、わたしは問題集を見たまま答えた。
「うん、悪いけど帰るなら先に帰って」
しばらく気まずい沈黙。話したくないなら仕方がない、と考えながら耳をそばだてた。コツコツという音が鳴っている。亜希子が爪で机を叩いているのだ。
柘植の言う通り、人の心はどんなに考えても証明できない。たとえそれが親友や恋人だろうとも。だからこそ、わたしたちは他人に興味を持たなければいけないんだろう。それこそ傍観者にならないためにも。
やがて神経質な音が鳴り止むと、静かに椅子を引く音がする。
「……それじゃあ、また来週」
そそくさとわたしの前を通ると、わたしへ声を掛けた。扉を開ける音がしたが、足音は聞こえない。その代わりに椅子を引く音が聞こえてきた。
「もう、萌のことだから……」
しかし続けて聞こえてきたのは溜息。わたしはそっと亜希子を盗み見ると、項垂れていた。やがて首を振ると、彼女は呟くように尋ねた。
「ねぇ、もしも、もし仮にだけど、友達が昔、イジメに気付きながら、何もしないでただ黙っていたって分かったら、どう思う?」
「まず、話を聞く、かな?」
しかし話を聞かずとも、今日の問題から彼女の内面を酌み取れるように感じた。──全ての物語はその人の魂を映してる、か。わたしは胸の内で呟くと亜希子が不安そうに尋ねた。
「どうしたの?」
「んーちょっと、ね」
この答えだけでは勘違いされかねない、と思った。わたしは笑って付け加える
「彼氏に言われたことを思い出してただけ」
わたしは照れ臭さを誤魔化したつもりだった。しかし亜希子には軽蔑を誤魔化すためだと映ったらしい。消え入りそうな声で言った。
「そうだよね……やっぱり……」
涙声で言う亜希子に、わたしは優しく語りかける。
「もう、軽蔑とか本当にしてないって。その人にも言い分があるだろうし……」
わたしはそう言うと、司法試験の問題集を閉じた。そして亜希子の顔を見据えると、笑ってこう答えた。
「そういう仕事を目指してるんだし」
今日、イジメについて相談を受けるのは二件目である。しかしたまにはこんな日も悪くない。




