3-12 希望の光
その後、竜はマリアとホテルへ向かった。前のように宿舎でも構わないが、卓も同じ宿舎のはずなので、なるべく会わせたくないと思ったのだ。
ビジネスホテルに似た安いホテルで、竜はツイン部屋をオーダーした。狭い部屋だが、ベッドは二つあり、生活に不便はしないだろう。
部屋に入るなり、マリアは入口付近に立ち止まった。だが最善策が見つからず、言葉も出ない。
「……ベッドもツインだし、何もしないからこっちにおいで」
ベッドの上に座りながら、竜が苦笑してそう言った。
マリアは少し緊張して、竜の前に立つ。
「少し強引だったと思うけど、悪いなんて思ってないよ」
「わかっています……ただ竜さんはヒーローみたいで、心苦しく思います」
「アハハ。ヒーローか。そうなれたらいいが……あいにくそうはなれないらしい」
竜は少し辛そうに、マリアの頬に触れた。そのまま抱きしめたい心を抑え、静かに笑って目を伏せる。
そんな竜を前に、マリアは静かに上着のボタンを外し始めた。
「マリア……」
それを見て、竜は驚いたかと思うと、すぐにマリアの手を止めた。
「やめろ……やめてくれ」
そう言って、竜は真剣な瞳でマリアを見つめる。マリアも真剣に竜を見つめ、やがて目を伏せた。
「私には、差し出せるものはこの身しかありません。今まで散々お世話になったあなた様なら、いくらでも差し出せます。だから、あなた様さえ良ければ……」
「……そんなこと言わないでくれ」
そう言った竜の手は、マリアの手を握りながら震えていた。
本当はどれだけ望んだ身体だろう。マリアを抱きしめながら眠りたいと、どれだけ夢見たことだろう。だが、この状況で欲に負ければ、竜は二度とマリアを手に入れられないことを知っている。
拒まれたマリアは、悲しそうな目で竜を見つめ続けていた。竜ならば身体ごと差し出せると言ったのは、本当の気持ちである。もちろん金で売り買いされることは嫌だったが、今まで受けた恩を返せるのなら、なんでもしたいと思った。
「私が……汚れているからですか?」
突然、マリアがそう言った。
それを聞いて、竜は驚いて顔を上げる。目が合ったマリアは、悲しそうにしながらも、覚悟を決めたように、まっすぐに竜を見つめていた。
「マリア……」
「私は、今まで身は売らずとも、罪人として同じような……」
「やめるんだ!」
強い口調で、竜が止めた。そして言葉を続ける。
「やめてくれ……」
「……すみません」
「勘弁してくれ。君が汚れているなんて、思ったことなど一度もない。だけど……俺も君を金で買いたくはない。今、この一線を越えたら、俺たちは後戻り出来なくなるだろう。もう、客と娼婦という位置関係しか生まれなくなる。そんなのは嫌なんだ」
竜はそう言いながらも、内に秘める欲望を押し止めるのに必死だった。しかしそれを振り切るように、竜はマリアに背を向ける。
「……もう寝ていいかな? 夜勤明けで疲れてるんだ」
そう言ってベッドに寝そべる竜の背中に、マリアはすまなそうに頷いた。
「はい。すみません……」
「君も……寝るならそっちのベッド、勝手に使って。おなかがすいたらルームサービスを頼めばいいし、冷蔵庫の中にはジュースくらい入っているだろう」
背を向けたまま、竜はそう言った。マリアももう何も言わずに頷く。
「はい」
「それから……一週間は、君は俺の元にいてもらう。俺の許可なしにここから出ることだけはやめてくれ」
突然、竜が振り向いてそう言った。
念を押されたように、マリアは静かに頷く。
「……奥様にお金を渡しに出るのは構いませんか?」
「その前に、俺が真紀と話す」
「……わかりました」
「じゃあ、おやすみ」
そう言いながら、竜は布団に入って目をつむった。いろいろな思いが入り交じり、竜の頭を駆けめぐる。
「おやすみなさい……」
竜の背中にそう言ったマリアは、空いたベッドに腰を下ろした。
痛いくらいの竜の優しさが、重圧となってマリアにのしかかる。身売りせずに済んだ喜びは素直に感じたが、その分、また竜に頼らざるを得なくなったことは、先が思いやられるようだった。
数時間後、不意に目を覚ました竜は、慌てて隣のベッドを見つめた。先程のことがすべて夢で、マリアがいないかと思った。
だがマリアは隣のベッドにぐったりと身を投げ出し、眠っているようだ。その姿にほっとしながらも、痩せこけた身体を案じ、横になっただけのマリアに、自分が被っていた布団をかけてやった。
(どれだけの不幸がこの子の身に降りかかっただろう……その要因が俺にもある。また手を差し伸べてしまったが、今までの二の舞にはさせない。もうこんな馬鹿げた暮らしは終わりにさせなければ。どうにか真紀を説得して、この子と……出来ることなら、マリアとともに歩む未来が見たい……)
心の中で竜はそう呟いた。かすかな夢が今、明らかに竜の中に芽生える。
その時、竜の視線を感じてか、マリアが目を覚ました。
「ごめん……起こしたか」
「いえ……すみません。いつの間に眠ってしまっていたようで……」
目の前にいる竜に、すかさずマリアが謝る。そんな姿を見て、竜は苦笑した。
「好きにしていいって言っただろう? 謝らないでくれ」
「はい。すみません、慣れていなくて……」
「また謝ってる。マリア、僕は君と対等に向き合える男になりたいよ」
竜の言葉に、マリアは目を見開いた。
「対等だなんて……」
マリアが驚くのも無理はなかった。日本人とネスパ人のカップルは、今や少なからずいるものの、対等になどいられないはずだ。なにより最初から地位の高い日本人が、自分のような何も持たない人間と対等になりたいなどと言う、竜の言葉がマリアには信じられなかった。それは日本人だから言えたことなのかもしれない。それが逆に、マリアにとっては悲しく感じる。
「……さて、休んでちょっとは楽になったし、家に戻るよ。食事はルームサービス取っておくから、食べていてくれるかい?」
いよいよといった竜の言葉に、マリアは目を泳がせながらも、意を決するように竜を見つめた。
「あの……やはりこれはお返しします」
マリアはそう言って、竜から受け取った大金を目の前に置いた。竜はその金とマリアを交互に見つめる。
「どうして? 遠慮しなくていいんだよ」
「でも、これでは前と変わりません。私は大丈夫です。昇のためと思えば、なんでも頑張れる……せっかく踏み出した一歩でした。どうかもう、止めないでください」
竜が寝入ってしばらく、マリアは一人で考えていた。もう竜に甘えることなど出来ないと思ったのだ。
「……これは俺のエゴなのか?」
「……いいえ」
「君が俺を拒むたびに、俺は自分の無力さを思い知らされる」
虚ろな目をした竜に、マリアは申し訳なさそうに身を縮める。
「そんなことはありません。ただ、私はあなた様に……」
「もういいよ」
深い溜息を漏らしながら、竜はそう言って返された金を受け取った。きっとこれをマリアでなく真紀に渡しても、竜からの金では受け取りはしないだろう。
「すまなかった……君も人間だ。いろいろ考えた末での行動を、いつも俺が止めていたんだな」
諦めた様子の竜に、マリアは静かに首を振る。
「竜さんは……私の希望です」
そう言ったマリアに、竜はマリアを見つめた。その目は美しく輝き、自分を見つめている。
「希望?」
「はい。いつも私がくじけそうな時、竜さんはいつも私の前に現れて、手を差し伸べてくれます。それがどれだけ私を救ってくれたのか、命を投げ出しても恩返し出来るものではないほどです」
「じゃあもっと……俺を頼ってくれ。俺は君を……」
「前にも言いました……私は日本人でもなければ、ただのネスパ人でもなくなりました。私は罪人です」
ぐさりと突き刺さった言葉は、竜の声を失わせたほどだった。どれだけ否定しても、マリアは自分の罪を正当化することもないだろう。
声を失い、竜はマリアを抱きしめた。そして深呼吸すると、言葉を探して口を開く。
「俺は……いっそネスパ人になりたい。君と対等に向き合えるなら、罪だって犯せる」
そんな竜の言葉は、どれほどの愛でマリアを包んだか知れない。だが同時に、それもまた日本人だから言える酷な言葉だった。
最後の抱擁のように、マリアは噛みしめるように温もりを感じると、静かに離れ、竜を安心させるように微笑んだ。
「そんなこと言わないでください。私は大丈夫です……今まで一人で生きてきたとは言いません。たくさんの人が助けてくれて、今の私があります。でも今、私が一人で頑張らないと、もうチャンスはありません」
「チャンス……?」
「お金という形でも、織田家の方との繋がりがあるということは、私にとっては唯一の救いです」
昇ではなく、織田家との繋がりと言ったことで、マリアの真意が伺えた。他でもなく、亮のことだろう。
全世界から否定されたように、竜の心は卑屈に取って、もう何も言えなくなっていた。
「わかった……君の好きにしたらいい。だがもう一度だけ、最後に俺にやらせてくれ。真紀と交渉させて欲しい」
「……でも」
「このまま無力な自分でいたくないんだ。せめて金額の引き戻しを……君に身体など売ってほしくない。そんな君を見るくらいなら、死んだほうがましだ」
竜の熱意、竜の愛、すべてがマリアにストレートに伝わる。それでも受け入れられない自分が許せないとも思う。
互いに観念したように、二人は妥協し合って頷いた。
「じゃあ、行ってくるよ。とりあえず俺が戻るまでここにいてくれ。ホテルだから平気だろうが、誰が尋ねてきても応対しなくていい。ルームサービスは取っておくけどね。じゃあ……」
「あの……ありがとうございます」
マリアの礼に素直に微笑み、竜は無言で部屋を出ていった。
部屋に残されたマリアは、自分の不甲斐なさを恥じた。竜にどれだけ迷惑をかければいいのだろう。竜は迷惑とさえ感じてはいないだろうが、織田家の手前、すべてを預けて竜に甘えるわけにはいかない。
だがマリアの中で、竜の存在は大きくなり始めていた。亮のように燃える恋とまではいかないだろう。しかし、亮にはない行動力、なにより今、誰より自分を愛してくれている男は他にはいない。それが心地よくないといえば嘘になる。恋愛どうこうではなく、竜はマリアの希望であり、また愛しい人の一人に変わりはない。




