2-24 歯止めの条件
その夜、マリアは独房の中で浅い眠りについていた。だが開いたドアの音で、驚いて起き上がる。また今日も、地獄のように弄ばれるに違いない。
構えるように起き上がったマリアの目には、逆光に照らされた真紀の姿が見えた。怯えた目で真紀を見つめるが、今日は他に男たちの影はない。
「早く運んでちょうだい」
真紀が言うと、ドアの向こうから警備の男が布団を担いで入ってきた。
「ほら、退け」
男に促され、マリアは壁際に身を寄せた。すると、今まで布一枚で地べたに寝ていた場所に、分厚い敷布団が敷かれ、尚も男は布団や毛布を運んでくる。
マリアは意味もわからず、真紀を見つめた。
「今まで布団もなくて悪かったわね。今日からは暖かく過ごしてちょうだい」
真紀はそう言って、持っていた料理の盆をマリアの前に置く。そこには、今までとは考えられないほどのバランスの取れた料理が乗っている。
「食べて栄養をつけなさい。最近、ほとんど食べていないようじゃない。食べないと、ここから出られても生きていけないわよ。突然だけど、一週間後にはここから出してあげるから、そのつもりでね」
その言葉にマリアは顔を上げた。突然のことで、何が起こったのかわからない。
「……竜様が?」
マリアが呟くように言った。竜の計らいだと思った。だがそれに反して、真紀の顔はみるみる変わっていく。
「竜が……ここに来たの?」
真紀の言葉に、マリアはハッとした。竜の計らいではなかったのか。すぐに首を振るが、もはや真紀には通じないようだ。
「いいえ! いいえ、来ていません」
「そう。宗教で禁じられていると聞いたけれど、ネスパ人も嘘をつくの……でも嘘が下手ね。まあいいわ。こちらも今はそんなことを考えている余裕はないの。一週間後に、織田の父がここへ来るわ。あなたの様子を見にね」
目を泳がせながら、マリアは真紀を見つめる。
「どうして……」
「さあ? またお義父様の気まぐれで、ただあなたの様子を見たいだけみたいよ。とにかくそれまでに、あなたには出来るだけ体力を回復してもらわなきゃ困るわ。顔色や体調、傷や痣もね」
マリアは真紀の言葉に耳を傾けながら、必死に亮の父親の真意を探ろうとしていた。しかしどれだけ考えても、それはよくわからない。
真紀はマリアを見下ろしながら、淡々と言葉を続ける。
「それが済んだら、ここから出してあげます。これはあなたが言う通り、竜の計らいのようよ。珍しくお義父様に泣きついたみたいだから、さすがに私も逆らえないわ。一年間は自由にしてあげる。でもその間も、休まず働いてもらいますけどね」
「はい……」
「わかったら、時間をかけてでも残さず食べなさい。もちろん、これからあなたが拷問にかけられることもないわ。お義父様に感謝するのね」
そう言って、真紀は去っていった。
もう暴行されることもない安心感に包まれながらも、闇に包まれた一週間後の未来に、マリアは不安を募らせていた。
その夜、真紀は竜の部屋を訪れた。すると中には、竜とともに亮がいる。
「あら。先客のようね」
「べつにいいだろ。入れよ」
竜の言葉に、真紀は中へと入る。
「真紀もお父さんから聞いただろ? 兄貴が日本に帰るって」
「ええ、聞いたわ。何かあったのかと思って、聞きに来たの」
亮がそう言ったので、真紀も頷いて答えた。
「なんだよ二人共。俺が親父と仲良くしちゃいけないっていうのか?」
苦笑しながら、竜が言う。
「まさか。それが本当なら嬉しいよ。いつもギクシャクしてる二人だからね。でも、そうでなければ相当な問題でもあったのかと思って、心配で来たんだ」
「なに言ってんだ。俺だってもう子供じゃねえんだよ。親父も年取ってきてるし、たまには親孝行がてら、仕事でも手伝おうかと思ってな。ほら、疑問が解けたら行けよ。新たな疑問をぶつけに来た人がいるようだからな」
それを聞いて、亮は立ち上がる。
「じゃあ僕は部屋に戻ってるよ。兄貴、邪魔してごめんね」
そう言うと、亮は去っていった。
竜は真紀を見つめながら、眉をひそめて微笑む。
「それで、おまえの用件も亮と一緒か?」
「そうね。似た者同士の親子が、どういう意図で繋がってるのかと思って……亮には話したの? あの子を庇って日本に帰ること」
真紀の言葉に、竜は苦笑して、目の前のワインに口をつける。
「まさか。そんなことを言ったら、亮だって壊れるかもしれないぞ。あいつはマリアのことを忘れようとしているだけだ。あいつがマリアを放っておけなくなったら、おまえら家族は滅茶苦茶になる。妻子持ちのあいつを陥れることなんて、口が裂けても言えねえよ」
そう言う竜の顔は、いつになく真剣だった。
真紀はさっきまで亮が座っていた椅子へと座り、俯いている目の前の竜を見つめる。
「……悔しいわね」
突然、真紀が言った。その言葉に竜が顔を上げる。
「え?」
「心底腹が立つわ。あの子もあなたも」
「……そうかい。じゃあせいぜい俺が居なくなって喜んでろよ。一年したら戻ってくるけどな」
竜の言葉を聞きながら、真紀は目の前のグラスを手に取った。亮が飲んでいたのだろう。少しのワインが残っている。
「ワイン足して」
「新しいグラス出せば?」
「いいわよ。亮と間接キスで」
「ハハ。やってろよ」
軽く笑いながら、竜は真紀の持つグラスにワインを注ぐ。真紀は注がれるワインを見つめながら、静かに口を開いた。
「本当、何がそこまで、あなたを突き動かすのかしらね……」
その言葉に、竜は真紀を見つめる。そして相手の出方を伺うように、冷静を心掛けて静かに口を開いた。
「何が言いたい? 大嫌いな親父にすがってまで、一人の女を助けたいっていう、無様な男の姿か?」
真紀は苦笑した。
「よくわかってるわね、自分のこと」
「おかげさまで。でも何が突き動かすのかといったら、原因はおまえだろ」
「え?」
「おまえがマリアをあんなにしなければ、俺はここまでしなかった」
竜の言葉に、真紀の顔が強張る。
「……あなたがあの子に関わらなければ、私はあそこまでやりはしなかったわ」
今度は竜の顔が強張った。
「そうか……どちらにしても、俺とおまえがあの子を追い詰めているのは変わりなさそうだな」
「そうね。それはそうと、あの子に会ったそうね」
その問いかけに、竜は一瞬、眉を動かす。
「……なんのことだ」
「しらばっくれるならいいわ。どうやって入り込んだのかは知らないけど、やってくれるじゃない」
「……警備員を脅してね。少ない人数だったのが功を奏した」
「能書きはいいわ。べつに警備員を咎めたりしないから安心して。私はお義父様がいらっしゃることで頭がいっぱいよ」
竜は苦笑した。しかし、すぐにマリアのことを思い出し、頭を抱える。
「どうして……どうしてあんな目に合わせた? あの子を犯して、あの子の誇りまで汚して、毒入りの食事をさせたり、おまえは本当にあの子を殺すつもりだったのか?」
必死な目の竜に、真紀は嫉妬すら覚える。だが、すぐに思い直して竜を見つめた。
「そうね……半分は殺すつもりだったわ。それよりも、あの子が苦しんで泣きわめくところが見たかった。でも、それは最初だけ……すぐに張り合い失くしたわ」
次の瞬間、竜は真紀の頬を叩いていた。しかし真紀は動じずに竜を見つめる。
「俺はおまえのことを買い被って見ていたようだ……そんな残酷な女だとは思わなかった」
竜はそう言うと立ち上がり、窓の側で外を見つめる。
「……残酷な女にしたのも、あなたよ」
「なんでも俺に押し付けるな! 胸糞悪い。さっさと出て行け!」
いつになく竜は本気で怒っている。真紀は立ち上がると、竜の側にカードのようなものを放り投げた。
竜は意味がわからず、真紀を睨みつける。
「特別任務で刑務所に入れるパスよ。どうせまた忍び込む気でしょうから、今度は正門から堂々と入りなさい。そして一週間後に備えて、あの子がちゃんと食事するように躾けておいてちょうだい」
「……どういうことだ?」
「お義父様が、あの子の様子を見たいんですって」
初めて聞く話に、竜は顔を顰める。
「親父があの場所に行くっていうのか?」
「そのようよ。お義父様も変わった人で困るわ」
竜はそれを聞いて、父親の真意に気付いた。世間体を気にし、先の先まで読んでいる父親は、好奇心という言葉だけでなく裏があると思う。
それは、あの状態のマリアを牢から出すのは、世間的に悪いと思っているのではないか。あのままのマリアは、牢を出されてもすぐに死んでしまう可能性が高い。刑務所で拷問紛いのことをされていると周りに知られれば、真紀たちの立場も危うい。そうならないためにも、自分の目で確かめてから、マリアを解放するに違いない。
「そうか……」
竜は通行パスを掴むと、真紀の肩をわざと突き飛ばし、部屋を飛び出していった。
初めて表の正門から入ることを許された竜は、何度か通行パスを見せながら、マリアのいる独房へと辿り着いた。地下のドアの前には、今朝会った警備員がいる。
「あなたは……」
「今度は正式なパスを持ってる。君への咎めもないそうだ。さっきは悪かったな」
竜の言葉に安心し、警備員は首を振る。
「いいえ。自分も……よかったと思います。この囚人に対しては、同情の念が強くて……」
苦笑した警備員に、竜も静かに微笑む。警備員の心を動かすほど、ここで惨いことが夜毎繰り返されていたに違いない。
「彼女の様子は?」
そう尋ねながら、竜は覗き窓から中の様子を覗いた。相変わらずの薄暗さだが、さっきまではなかった布団が敷かれ、マリアが横たわっているのが見える。またその近くに、食事の乗った盆も置かれている。
「今は眠っているようです。食事も少し食べたようですが、指揮官に時間をかけてでもすべて食べるよう指導されておりますので、あのまま置いておきます」
「そう……君も大丈夫か? ずっとここにいるんじゃないのか?」
「いえ。昼間、一度交代しておりますので」
警備員の言葉に、竜は頷いた。
「そうか。今は様子を見に来ただけだ。明日も夕方ここに来るから、交代の人間にも俺のことを伝えておいてくれないか。これからは、出来るだけ彼女に付き添うつもりだ」
「承知しました」
「あと、彼女が起きたら医者に見せてやってくれ。ネスパ式の医療なら、あの目もすぐに治るだろう」
「はい、わかりました」
「じゃあ頼むよ」
そう言うと、竜は力なくその場から去っていった。
竜に残された時間は、あと一週間。マリアから離れるのは辛いが、元の状態に戻れば、マリアならやり直せるだろうと思う。それまでマリアの気力と体力が戻るよう手助けしてやることが、竜が最後に出来ることだと思った。




