2-17 兄と弟の本音
残された亮は、真紀を見つめる。
「どういうことか話してくれないか?」
「……あの子が弱ってるっていうから、私は一週間、あの子に猶予をあげたのよ。でも、竜も相当あの子に入れ込んでるみたいでね。宿舎まで提供して、ずいぶんあの子の体調も回復したみたい」
「……そう。彼女は兄貴のところにいたのか」
心の奥底で、亮の中に嫉妬が生まれていた。そんな亮に、真紀の心も晴れない。
「はっきり言って、彼女の件は竜とは無関係でしょ? 私と彼女は納得してやっていることなのに、いちいち邪魔されて迷惑なのよ。あなたからも、竜になんとか言ってくれないかしら」
「……二人が納得しているなら口出しはしないよ。でも兄貴が心配するのも頷ける。君は前に、彼女から直接養育費をもらっていたようだけど、無茶な金額や受け渡し方法は感心出来ないよ」
やんわりとだが亮が拒否して言う。そんな煮え切らない態度の亮に、真紀は溜息をついた。
「言ったでしょ。彼女も納得してやってることだって。あなたももう無関係の人だったわね」
「……わかった。兄貴には言っておくよ。でも彼女はどこにいるんだ?」
「収容所よ」
真紀の言葉に、亮は驚いた。
「収容所?」
「そう。竜もあなたも口出し出来ないところ。私のテリトリーよ」
「だからといって、どうして……彼女は自立しているはずだ」
「今のまま養育費をもらうより、収容所で奉仕した方が、あの子のためにもいいと思ったからよ。少なくとも今よりは睡眠時間も取れるし、規則的な生活が出来るでしょ。刑務所じゃないから安心して」
収容所や刑務所、囚人関係は真紀が牛耳っており、実際に亮の耳まで細かい情報が入ることはない。しかし収容所や部署によって、労働や待遇の良し悪しはさまざまだ。だが亮は、真紀を信じたいと思う。
「……部署は?」
亮が尋ねる。
「誰にでも出来る簡単な仕事場よ。とにかく彼女のことは私に任せて。殺すような真似はしないから」
「……そうだな。僕は君を信じてるよ」
「ありがとう。やっぱりあなたは話が通じるわ。じゃあ私、そろそろ部屋に戻るわね」
真紀はそう言うと、亮の部屋を出ていった。
亮は一人、マリアや真紀のことを考えていた。今の亮は、ほんの少しでもマリアのことを心配してはいけない環境にいる。マリアを思っては、妻である真紀の顔が潰される。亮には、真紀を信じることしか出来なかった。
部屋に戻った竜は、今後のことを考えていた。しかし考えていても何も始まらない。マリアと仲の良かったレストラン店主なら何か聞いているかもしれないと思い立ち、もはや夜中だが、居ても立ってもいられない身体を起こし、出かける支度をする。
その時、ドアがノックされた。
「誰だ?」
「僕だよ。亮」
ドアの向こうから亮の声が聞こえた。竜が返事をすると、ドアが開く。
「どうした。真紀との語らいは終わったのか?」
「まあね」
「ご苦労なこった」
「出かけるの?」
「ああ。マリアを捜しに行く」
竜はそう言うと、支度を整えて振り向いた。目の前には、複雑な表情の亮がいる。
「兄貴……マリアは収容所にいるそうだ」
亮の言葉に、竜が目を見開く。
「それは確かか? 真紀が言ったのか?」
「うん。たぶん、中央収容所だろう……」
二人は大きな窓の外に広がる、隣の敷地を見つめた。広大な敷地の真ん中に、監視塔が立っている。
「……おまえはそれを聞いて平然としていられるのか? 仮にも昔、愛した女だろ!」
怒りが頂点に達したように、竜は亮を言葉で責め立てる。
「平然となんてしていられないさ。でも僕には何も出来ないよ。下手に彼女に手出しすれば、彼女だって傷つくんだ。それはもう、痛いほど味わってる……」
虚ろな目で亮が言う。
マリアが昇を妊娠していると知った時も、結局、亮はマリアを救えなかった。昇を引き取りに行った時も、マリアを深く傷つけるだけだった。自分がすべてを捨ててマリアをさらう覚悟がない以上、亮は自分に出来ることは何もないことを知っている。
「亮……」
「それに、もちろん心配もあるけれど、刑務所じゃなく収容所だ。少なくとも刑務所よりは人権がある。僕は真紀を信じたい」
「それは俺も同じだが……」
二人の脳裏に、真紀の弱い部分や強い部分が浮かぶ。真紀を信じたいのは同じ気持ちだ。
「僕が出来るのはここまでだ。兄貴の存在は、子供たちにとっても僕にとっても、ずいぶん助けられてる。それはマリアの件も同じだろう……でも、いくら兄貴の正義感が強くても、これ以上は踏み込めない」
「おまえは最高指揮官だろう。俺一人、収容所に視察にでも行かせてくれればそれでいい。おまえに迷惑はかけないよ」
「兄貴。そう簡単じゃないんだ」
亮は眉をしかめると、近くの椅子に座った。竜もその前に座り、亮を見つめる。
「簡単じゃない?」
「最高指揮官なんて名前だけだ。主な役割は、日本や国連の橋渡しだからね。この街では、人事を一人動かすだけでも、いくつかの行程と会議を通さなければならない。僕の独断なんてそれこそ無理さ。何かやらかしたら、後始末が大変なんだ」
「収容所には入れないのか?」
「それもたぶん無理だ。役人だからって簡単に入れるところじゃない。収容所の指揮官は真紀なんだ。それに、たとえ僕は入ることは出来るだろうけど、マリアの探りを入れることなんて出来るわけがない」
「なるほど。おまえはこの街で知らない者はいない。おまえが一番動けないってことだな」
竜は難しい顔をすると、貧乏ゆすりをしながら、葉巻に火をつけた。
そんな竜を見つめながら、亮が口を開く。
「真紀のこともそうだよ。最高指揮官が独自に動いては、指揮官たちの顔が潰れるだろ。そうすれば、僕への不信任案が出るかもしれない」
「それは駄目だ。おまえに期待してるのは日本人だけじゃない。おまえはもうしばらくトップにいてもらわないと困る」
「だから、この先は何も出来ないと言っているだろ。ただし、役職のない役人同士の取引なら可能かもしれない」
亮の言葉に、竜は耳を傾ける。
「平の役人を買収するってことか?」
「やり方はさまざまだろうけど、指揮官の目の届かないところで、役人が裏取引をしているのは少なくないと聞いている。兄貴の部下だって、目ざとい人間くらいいるだろ?」
「なるほど。歓楽街を取り締まっていながら、歓楽街で遊び呆ける俺たちみたいなことも言うな」
「それはともかく、兄貴は僕より融通が利くのは確かだ。兄貴だって指揮官だけど、部署が違うなら目をつけられる心配もない」
「やり方次第で、マリアまで辿り着けそうだな……」
亮は静かに俯き、また竜を見つめる。
「……兄貴。兄貴はどうして、そんなにまでマリアを守ろうとしてるんだい?」
その問いかけに、竜は小さく苦笑し、葉巻の煙を吐ききる。
「どうしてだと思う?」
「え?」
「……愛してるから、さ」
それを聞いて、亮は信じられないという顔で竜を見つめる。そして静かに微笑み、口を開いた。
「……そう」
「それだけか。おまえにとっては、何もかも過去のことか」
「……兄貴と女性を取り合うなんて、もうまっぴらだ」
「そうだよな。一回目の勝負は、おまえが見事勝利して、真紀と結婚した」
失礼なまでの竜の態度に、亮は嫌悪感を露わにして立ち上がる。
「兄貴はいつもそうだ。どうしてそんなに喧嘩腰になる必要があるんだよ?」
「悪いが性格なんでね。喧嘩する気は更々ないんだ。それに、すべて真実……そうだろ?」
「……昨日、マリアに会った」
亮は気を落ち着けると、今度は竜を挑発するようにそう言う。
今度は、竜が動揺を隠せなかった。
「嘘だろ? そんな冗談……」
「嘘じゃない。偶然だけど……マリアと話して、抱きしめた」
その時、竜の平手が亮に飛んだ。
「拳じゃなくて感謝しろよ。何がマリアを傷つけるだ? 結局はおまえのその甘い態度が、一番周りを苦しめてるんじゃないか。真紀を受け入れたなら、全力で幸せにしろよ。それは俺に対しての礼儀でもあるだろ!」
「仕方なかったんだ! 僕にどうしろっていうんだ……拒否も許されず結婚して、真紀を愛するしかなかった。真紀だって、結婚当初は不安定で荒れて、僕が支えなければ死んでいたかもしれない。そんな人を愛すのは自然だった。でも心の底に殺し切れないマリアへの思いがあるのは事実だ。偶然にもたった二人きりになったら、止められなかった……」
竜は葉巻の火を揉み消すと、ベッドに横になる。
「……俺がマリアに惹かれたのは、おまえが愛した女だからっていうのもあるだろうけど、もうひとつ、おまえの母親に面影が似てたのさ……」
「え……?」
亮の中に母親の記憶は残っていない。そして竜から自分の母親のことを聞いたこともなかった。
「あの子を救えば、俺も救われるかもしれないと思った……」
今も目を瞑れば襲うであろう、竜の悪夢。それを亮は知らない。
「どういうこと? どうしてそこで、僕のお母さんが……」
「……特に意味はない。混乱させたな。もう行けよ」
「兄貴……」
「おまえはもう部外者なんだろ。この問題は、俺が必ず解決する。だからおまえは、もうマリアに関わるな。それで真紀もマリアも救われる」
竜の言葉に、亮は小さく息を吐く。
「……わかってるよ」
そう言うと、亮は竜の部屋を出ていった。
一人になった竜は、ベッドの上でざわめく心を必死に抑えようとしていた。もはやマリアへの想いは、確実に愛情に変わっている。今もなお亮を想い続けているはずのマリアが、偶然にも亮に会い抱き合ったことまで聞いて、竜は平然としてはいられなかった。
また悪評高い収容所での扱いも気になる。どうにかして早く解決しなければならないと、竜は頭を悩ませていた。




