2-11 裏切の婚約者
数時間後、マリアが目を覚ました。クリスは椅子に座りながら眠り、ベッドからも竜の寝息が聞こえる。
マリアは立ち上がると、竜に近付く。だいぶ顔色も良くなっていて安心した。
「彼の様子はどう?」
その時、クリスが目を覚まし、マリアに声をかけた。
「ごめんなさい。ベッドとソファまで占領して……起こした?」
マリアはすまなそうにそう言った。突然、夜中に押しかけられたクリスが、何も言わずに引き入れて、治療までしてくれたことに感謝する。
「いいや、別にいいよ。病人を治すのが僕の仕事だしね」
「本当にありがとう」
「いいんだって」
その時、竜の顔が強張るのを感じた。顔色はすっかり良くなっているが、相変わらず悪夢を見ているようで、時にうなされているようだ。
「竜様……」
「悪夢でも見ているようだな。あいにく僕の専門は、精神分野じゃないんだけど……」
クリスはそう言いながらも竜の額に触れた。すると、すぐに竜の顔が穏やかになっていくのがわかる。
ネスパ式の医療は、ネスパ人の持つ癒しの能力を使った医療で、傷や病気を治す外傷的分野と、精神的な治療を行う心療的分野に分かれ、その能力もまったく別である。クリスの持つ能力は、身体的な怪我や病気を治す分野のようだ。
「すごい……」
「一時的なものだけどね。精神科医に見せれば、もっと良くなると思うけど……お湯でも沸かそうか。お茶でも飲もう」
「うん。私がやるわ」
マリアは奥にある台所へと駆けて行く。クリスは濡らしたタオルを絞ると、竜の額にかけてやった。
その時、竜がハッと目を覚まし、クリスと目が合った。
「……君は?」
竜はとっさに身構えると、辺りを見回し、状況を把握しようとする。
「僕はクリストファー。クリスと呼ばれている医者です。あなたは?」
「……織田だ」
「織田さん?」
「ここはどこ?」
寝起きの頭を振って、竜は辺りを見回しながら記憶を辿る。
「僕の家です。昨日、マリアがあなたを担ぎ込んできました」
「そうだ、マリア! 彼女は?」
昨夜のことを思い出し、竜はクリスを見つめた。
「竜様?」
マリアは竜が目覚めたことに気付き、ベッドに駆け寄る。
「マリア」
「大丈夫ですか? ご気分は。昨日、突然倒れられて……」
「ああ、そうだった……すまない。迷惑かけたようだ」
普段通りの竜を前に、マリアは胸を撫で下ろして首を振った。
「今、お茶入れますね」
マリアはそう言うと、台所へと戻っていった。残されたクリスは、竜の額に触れる。
「熱は下がったようですね。あとは食事でもして少し休めば、すぐに回復すると思いますよ」
「クリス、といったか。君はマリアの……」
未だ完全に起きていない目を擦り、クリスを見つめて竜が言う。
「従兄弟です。もっとも、昨日偶然に再会したばかりですが……」
それを聞いて、竜はまじまじとクリスを見つめた。
「そうか、従兄弟……どうりで似ている」
竜の優しい顔を見て、クリスも微笑み頷いた。そこにマリアがお茶を入れてやってくる。
「お茶が入りました」
そう言いながら、マリアはカップを配る。
竜は上半身を起こし、布団に入ったまま熱いお茶に口をつけた。もうすっかり顔色の良い竜に、マリアは静かに微笑んだ。
「じゃあ私、そろそろ仕事に行かないと……」
「もう?」
竜とクリスが、同時に言う。
「はい。クリス、突然ごめんなさい。後でお礼に伺うから、竜様のこと、よろしくお願いします」
「それはいいけど、仕事は休んだほうがいい。ほとんど寝てないし、顔色も悪いままだ」
マリアとクリスは、見つめ合ってそう言った。
「でも、もう仕事は休めないから」
「僕はまだ君と出会ったばかりで、君の事情は知らないよ。金にこだわりがあるらしいが、そんな身体じゃ、いつ倒れたっておかしくないぞ。しばらく入院して、静養しないと……」
「養育費なの。穴を開けるわけにはいかないわ」
説得するために重い口を開いたマリアに、クリスは衝撃を受けた。未だクリスの中で、マリアは婚約者としても大事な女性だったのだ。
「……嘘だろう? 君が子供?」
「本当よ。もうすぐ五つになるの」
「まさか、この方の……?」
クリスが肩越しに竜を見る。しかし、マリアは首を振った。
「違うわ。竜様の、弟様の子供……」
「一緒だ! 恥を知れマリア。こんな自由のない場所で混血児だなんて、子供が可哀想だ!」
突然、クリスがそう怒鳴った。マリアが生きていてくれたことに喜んだのも束の間、マリアにはすでに子供がいて、しかも相手は日本人だという。クリスはマリアが許せなかった。
「でも愛し合って産んだの。父親も混血よ。だから私の子供は、ほとんどネスパの血よ」
「……結婚しているのか?」
「いいえ……」
二人の間に沈黙が走った。竜はそのやり取りを見つめながら、静かに口を開く。
「すまない、クリス。すべては弟がいけないんだ。亮が……」
「リョウ? リョウ・オダ……?」
最高指揮官の名前だということに気付き、クリスはマリアと竜を交互に見つめる。とっくにクリスの中では、衝撃の許容範囲を越えていた。
「そう。国家よ……」
マリアが言った。突然のことで、クリスは驚きを隠せない。
「それじゃあ……向こうは結婚していて、子供もいるんじゃないか。おまえとの子供は、罪の子じゃないか!」
悲痛の顔で目を見開くクリスは、マリアのことが信じられなかった。いったいこの何年かの間に、マリアに何があったというのだろう。婚約していたマリアの裏切りも許せなかったが、更に疑問が渦巻く。
「彼が結婚前のことだけれど、同じ事よね……でもあの子に罪はないの。お願いだから、そんなことを言わないで……」
マリアは俯いた。同じネスパ人でも、親戚同士でも、マリアの置かれた状況に同情する者はそうはいない。改めて自分の罪を認識せざるを得なかった。
「……私、本当にもう行かなきゃ」
「ああ、俺も行くよ。腹も減ったし、宿舎で仮眠する」
マリアに続いて竜も立ち上がり、クリスを見つめる。
「突然すまなかった。治療代を……」
「いりません。ここは病院ではありませんし」
顔が強張ったままのクリスが言う。竜はそれを聞いて、軽くお辞儀をした。マリアもクリスに近寄る。
「本当に突然でごめんなさい。ろくに事情も説明出来なくて。後で寄るから、その時にでも……」
「いいよ。突然いろいろなことを聞いて、驚いただけだから……それより、マリアは休むことが一番だ。礼を言いに来るくらいなら休むんだ。いいね?」
落ち着きを取り戻そうと、冷静さを装ってそう言ったクリスに、マリアも静かに微笑んで頷く。
「ありがとう……」
「それから、困ったことがあったら、遠慮せずにおいで。僕も安月給だから金の面ではあまり役に立てないだろうが、生き残った親戚同士じゃないか。それに僕はまだマリアのことを、婚約者だと思ってるよ」
「クリス……」
「婚約者の君が、倒れそうなのは見ていられないよ。いいね? 休める時は、ちゃんと休め」
「……ありがとう。クリス」
頷きながらマリアはそう言うと、竜とともにクリスの部屋を出ていった。
「ありがとう、マリア。また君に助けられたね」
外に出るなり竜が言った。そんな竜に、マリアは首を振る。
「いいえ。ご無事でなによりです」
「……彼は、婚約者だったのか?」
「ええ。子供の頃に親の決めた……ずいぶん昔の約束ですし、お互いに相手がいなかったらという程度のもので、正式なものでは……お互いに死んだものだと思い、その約束も消えたと思ったのに、クリスは……」
マリアは悲しく微笑み、言葉を続ける。
「私は幸せ者ですね。生き別れの親戚まで見つけられて、竜さんにもこんなに親身になっていただけて……」
そう笑ったマリアの手を、とっさに竜が掴んだ。すぐにでも居なくなりそうな感じがした。
「竜さん?」
驚いているマリアに、竜は思い直して微笑む。
「ああ、いや……じゃあ、また。今日はありがとう、マリア」
「いいえ。お大事に」
「君もな。俺ももう一度、真紀にかけ合ってみるから。今の生活が続けられるとは、到底思えない」
マリアは静かに首を振る。
「いいえ。やめてください……クリスに言われて、やはり私のしてきたことは罪なんだと再認識しました。今更、罪から逃れようとはしません。これが罰で試練なら、私が一人で越えなければならないものだと思います」
「マリア……」
「では、お大事になさってください」
そう言うと、マリアはお辞儀をして去っていった。
マリア本人に拒否をされれば、竜が動いてやれることは何もない。竜の中でマリアは、倒れそうだが芯の強い花のように思えた。
その日もマリアは、休みの合間を縫って仕事探しに出かけた。寝る間を惜しんで探したおかげで、やっと夜中に数時間だけ、織物工場での仕事が増えた。しかし、それだけでは到底間に合わない。最後には人身売買屋に世話になるしかないと、腹を括った。




