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潜行
手持ち無沙汰になり、僕はわずかばかりの、自分の荷物を確認する。
バッグの中にあるのは、一冊の本と銅製の水筒、それにハンカチだけだ。
ショルダーバッグ、と言えばいいのだろうか。
無論、化学繊維はまだ存在していない。
恐らくはなめし皮と布でできた、小振りながらも丈夫なバッグ。
古びているとは言え、僕のいた時代ならたぶん、それなりに値段がついただろう。
一冊だけの本は、グルジア語の辞書。
もちろん、本文はほとんどロシア語だ。
――街にとけ込むつもりなら、共通語よりもグルジア語を覚えるべきよ。
それが彼女の判断だった。
僕としても、全く異論はなかった。
旅をしてみて、英語で押し通すより現地言葉の方が反応がいい。
そんな風なことは、それなりに経験済みだった。
巧拙はさておき、よそびとが母国語を話して、悪い気はしないだろう。
もっとも、たとえば元の日本に戻るようなことがあると、4,50人にしか通じないのだけど。
ロシアとトルコに挟まれ、カスピ海と黒海に挟まれた山国。
あの頃、僕にとってのグルジアは遠い、ひどく遠い土地だった。




