紫煙
相手の名前は知らなかった。
名乗り合うほどの平穏など、この救命ボートにはまだ無い。
なので今は仮に、熊と呼ぼう。
あらためて、目の前の熊を見る。
顔ではない。
特にどこを見るともなく、全身を。
熊の周囲、紫の煙にも似たものが見える。
決して錯覚ではない。いっそ明快な紫。
踏まえてもう一度、顔を見る。
なぜ話を聞こうとするのかと言う、それは困惑。
紫と困惑。確かに、分からなくもない。
同時に、分かることもあった。
なるほど、と僕は思う。
相手の感情を察せるにしても、だ。
感情を素直に表する相手では、意味が薄いのだと。
僕が見た色。
誓って、それは嘘ではない。
けれども、偽物ではないというだけだ。
本物であっても、それがささやかな事もある。
虚空から花を取り出せたとして、その花が手品より地味ならどうか。
それはつまり、手品よりもつまらないという事ではないか。
本物ならば、いかに本物ならではと思わせるか。
逆にあるいは、いかに何ひとつないと思わせるか。
結局は工夫次第、ということになるだろう。
――そしてそれは、きっと手品でも同じ話なのだろうけど。
「聞かせて欲しい、だと?」
その口調に、問い詰める様子はもはやない。
「お前に何が分かる。それとも、時間稼ぎか?」
分からないとの、それは表明だった。
この分からなさが解けるなら、付き合わなくもないとの。
とは言え、時間稼ぎとの邪推は当たっている。
背丈の高さだけではない。
勘の方も、決して悪くはなさそうだ。
熊の紫が淡くなっていく。
考える内、落ち着いていくのが分かる。
「――こっちの方の話は言ってもいい。だが先にいま、その意味とやらを言ってみろ」
さて、どうしたものか。
思案する内にも、熊は続ける。
「もし出任せなら」
「違う」
「なら!」
「違うけれど、いま言えるのは君にだけだ。目の前の鉄塊の、意味――」
言葉を探りながら、つぶやく。
「意味。いや、使いようと言えばいいかも知れないけど」




