昔話
三文小説 も SFも、19世紀末の今、存在しているとは言いがたい。
ならば、時間旅行者なる考えもまた存在しないのだろうか? 答えは否だ。
時間の意味を広くとるならば、『ティル・ナ・ノーグ』も『ふたりの兄弟』も(もちろん『浦島太郎』も)、はるか昔から存在していたのだから。人の想像力は、ジャンルに先駆けもする。
ファンタスティカのない時代、僕の背景を話してみても分からないだろう--今思えば、この考えこそ傲慢ではなかったか。もちろん、昔話と現実とは別だ。別の話ではあるけど、昔から似た話があったとなると話は変わってくる。
それはすなわち、話が人の想像力に訴えかけていること、親しみ得る題材であることに他ならない。
そんな想像が今、僕の行動を後押ししようとしていた。
思い込みは視野を狭め、空想を必然に変える。話しても問題ないだろう、いや、問題ないはずだ――“彼女への説明”に追い込まれた僕にとってそれは、控えめながらもっともらしい理屈に思えた。
あるいは、僕は疲れていたのかも知れない。
異国での共通語、ロシア語をしか使わない生活。
二十数年浸かってきた母語の、一切が通じない暮らしに。




