茜幻想
夕焼け。この時間の陽はいつ見ても 、儚い夢物語の感覚におそわれる。
連れて行かれる事はないものの、足を止めてみてしまう。
雨上がりの水溜まり、きらりと光る。
反射され、私、眩しさを覚える。
「ただいま、カナコ」
平屋の借家の玄関の鍵を開け、扉を開く。
靴箱の上の猫の置物に、そう、語り、指先こつりと軽く押す。
独りで暮らして、2年。
最初は張り切っていた自炊も、今では億劫状態。
コンビニエンスストアで買った、唐揚げ弁当が、今日の夕食。
テレビのリモコンに手を伸ばし、電源ボタンを、押す。
『週間、奥山さん!』
ローカル番組のタイトルコール。
ゴールデンタイムに地元の情報 。
グルメ、特にこの特集が、気に入ってる。
皿いっぱいに盛られてる料理、思わず喉が鳴る。
風呂、洗濯、一応しないと、後が大変。
目覚ましを5時にセット。
肌寒い。
押し入れから、羽毛布団を引きずり出して、被る。
微睡み、そして、熟睡。
「おはようございます!」
朝が来て、出勤。会社に着いたら必ず、挨拶。
返事する、会釈はまだましだ。
無愛想でなおかつ、返してもくれず、私を横切る。
こいつ、嫌い。
一応、上司。木野信治。
顎をつきだして、歯を剥き出す。
「相変わらず、だな」
その声に振り向く。
「あーっ!お化けがでたーっ」
「先ずは、おはようございます!だろ?」
微笑の青年、岡村晴一、さん。
舞い上がるのを堪えて、する会話。
「いい、か?」
前髪掻き分け、眼差しが柔らかくなる。
「はい」
―――また連絡する。
岡村さん、駐車場へと向かって、公用車に乗る。
此れから、支店に出勤。
転勤だった。
――浅田!
そう、私を呼ぶ声が好きだった。
私より7つ上。社内で一番のひょうきん者。昼食はいつも、従業員に混じって食堂でとっていた。
――色んな話が訊けるから。
コミュニケーション。
岡村さんの特技とも言える。
そのお陰でこの人の周りには、ひっつき虫のように、おばちゃん達が寄って来てた。
――それで、此処にたどり着いたのですね!
就職活動、尽く落ちて、求人雑誌で見つけた今の会社、この人は私を面接したときに、そう、言った。
呆気。
混乱。
面接する位だから、偉い人には間違いないはず。
採用決定の連絡も、岡村さん。
入社したら、やっぱり、上役。
でも、誰も肩書きでの呼び方はせず、名字に〈さん〉付けての社内アナウンス。
沢山、思い出が溢れる。
岡村さんがいた頃が、会社の空気もよかった。
歯がゆい。
みんなに混じって、岡村さんを見る。
それで、よかった。
毎日、顔が見れない。
みんなの岡村さん。が、いい。
「ごちそうさまでした」
その日の夕食は、外食。和風雑貨が壁に棚にと並ぶ、飲食店。
食後のコーヒーカップ、陶器の色に一目惚れ。
「それ、きにいったのか?」
私の仕草に気づく、岡村さん。
会計の時、陳列する商品に、それと、同じ形を手に取ると、あっという間に
「これで旨いコーヒー飲め」
包装された中身が入る紙袋を、押し込める。
強引。
選択の余地なし、当たり前。
店を出ると、どしゃ降りの雨。
「其処で待ってろ」
駿足で、停める自家用車迄行く。
岡村さん、服ずぶ濡れだよ。
家に帰ったら、即、洗濯する。
自分で?
おまえが洗ってくれるか?
無理。
出来る訳ない。
「いつでも、おまえん家に行けるけど?」
「何度も言ってるけど、向こう三件隣に親住んでる」
「カーテンの色、いまいち」
「一応、独り暮らしだから、目立つ色は、無し!」
アクセル踏んで、雨降りの道路、ブレーキランプで赤く染まる。
フロントガラスをクロスする、ワイパーの隙間から見つめる。
「じゃあな」
自宅から、うんと離れる月極め駐車場に停車。
雨はまだ小雨が残ってる。
傘は、いい。
岡村さんの、それ、を断る。
「家の前迄いってもいいんだぞ」
それにも、私は、首を横に振った。
「此れから、片道30分掛けて帰宅だ!俺、偉いだろ?」
いつも、お世話になってます。
ペコリ、と、頭を下げる私。ドアを開いて、靴底が地面に乗ると同時に、助手席のクッションがするりと、後を追って来た。
「あ」
泥水含んだクッションを焦って、拾う。
気まずい。
「棄てるつもりだったんだ。こうなって、助かった」
ドアを閉めて、エンジンが吹く音。
発車する岡村さんの乗用車。
あのクッション、お手製は、知っていた。
真っ赤な生地に、蒼い刺繍糸でローマ字のあの人の名前。
私じゃない、他の器用な人の手作り。
明かりを点けると、テーブルに、タッパにたっぷりの唐揚げ。
お母さん、また、合鍵使った。
不愉快だ。
岡村さんといるときにも、携帯電話、しつこく着信して、ぶるぶると鳴っていた。
お腹いっぱい。
好物、目の前にして、避けられない。
一口ぱくりと、頬張って、残りは冷蔵庫。
父は去年の夏に逝った。
だから、母も独り暮らし。同居はせずに、そのまま、別々。
煩わしさなんて、ないはずなのに、時々、こうして電話だ、ご飯攻撃。
――お母さんも、寂しいのだよ。
岡村さんに話したら、こう、言われてしまった。
岡村さん、私もだよ。あなたに、だよ。
仕事だって、前のほうが楽しかった。
――浅田!
あの声が、聞きたいよ。
たまに外で、こっそり会うじゃなくて、毎日会社で顔を見たい。
うたた寝してた。蛍光灯が思い切りつけっぱなし。
電気代、来月の請求書が怖い。
沸かしてたお風呂、時計を見て迷った。服を剥ぎ取り、かかり湯を掛けて、湯船に浸かった。
腕、胸、お腹、脚、凝視する。
手の感触、岡村さんのこと、思い浮かべる。
――おまえの肌、いいな。
私を抱いて、岡村さん、甘く、柔らかに、息を吹く。
唇、髪、耳、頬に、額。岡村さんのそれを、指先で拭いあげる。
目の前にぱっと、茜色。
岡村さん――。
唇は私の胸元に押し込められ、更に這う。
触れられる度に、身体は震える。
岡村さんにも、伝わるくらい、よじらせる。
見上げる天井のランプが桜の花びら。
それを、見て、瞼を閉じる。
幻想。
夕焼け空を思い浮かべる。
濡れままの髪で、私は布団に潜り込む。
岡村さんが側にいるつもりで、ふかふかの猫の縫いぐみを抱える。
感触、何となく岡村さん。
明日は、たぶん、会えない。その次の日も、だ。
「志帆ちゃん、さっき岡村さんにあったよ」
私に、満面の笑みして声を掛ける細川さん。孫が二人の五十ん歳の化粧の施し上手い、一寸昔のお姉さん。
「元気そうでしたか?」
わざとらしい、その言葉。自分で言って、滑稽だ。
「引っ越さずに、毎日県外に出勤て、大変のはずよ」
私達の側を無愛想で横切る、木野。それに険相する細川さん。
「あれ、が此処を仕切るようになったら、毎日うんざりさせられる」
細川さん、あれ、に聞こえるよ?
『横井ちゃん』と、あれの、声真似する、細川さん。
「あんたを前の部署を追い出して、上にさせたいのよ。それで、あんたのことを潰すのよ」
『横井ちゃん』あれ、のお気に入り。それ、もっぱら、社内で有名な噂だった。
“潰す”は、私が岡村さんからひいきされてることから。この人も、それに便乗してる。
同情をするふりして、腹の中は、真っ黒。見え見えだよ、細川さん。
「おい、浅田!」
え?私!木野に何も怒られること、してないよ。
「藤岡さん、今日欠勤」
「それなら、班長の福本さんにお伝えしてください」
身をかまえ、返答する私。
「まだ、出勤してないだろ?」
鼻息荒くして、のしのしと、まるで威嚇する猛獣のように、去っていく木野。
やっぱり、嫌い。
就業のベルが、耳を裂くほどうるさい。
私、配置の持ち場に脚を運ぶ。
今日の積み込み分、まだ、上がらない。
機械が故障して、生産が昼から止まったまま。
復旧は、その日の夕方迄掛かり、出荷は対応にへとへとだった。
福本さんと、みんなが帰った後も会社に残り、在庫の確認作業。
外は真っ暗。外灯が、ぽかぽかと、切れかかるように瞬いていた。
「お疲れさま」
ぼこぼこのアスファルトに靴を鳴らし、交差点で手を振りながら、福本さんと分かれる。
バス停の時刻表を、道に突き刺す外灯の明かりを頼りに確認する。
まだ、来ない。
時間潰しのつもりで、コンビニエンスストアへと向かいかけていた。
鞄の振動。携帯電話の着信ランプがぱかぱか点滅していた。
開いて、メールの着信マーク。
《今、何処にいる?》
即《会社近くのバス停》と、返信。
間をおいて、着信のメール《待っとけ》
「早く乗れ!」
乗用車に突っ込むようにして、私、助手席に座る。
「シートベルト締めろよ」
「お腹締めるのいけないの」
岡村さん、苦笑しながら私の頭上にこつりと、軽く拳を落とす。
冗談。
「いい、か?」
「はい」
信号が赤の時はいい、と契約してるだろ!
してないっ!
私に触れるその手を思い切りひねり、悲鳴の岡村さん。
また、茜幻想。
――愛おしい。
言葉の代わりに、背中に手を乗せる。
――志帆。
耳元で囁く、声。春風のように、心地よさを覚え、唇を重ね合わせていった。




