私の婚約者が、妹の頭ばかり撫でている理由
私の世界は、いつだって妹を中心に回っていた。
妹のルナは、春の日差しを凝縮したような金色の髪と、空を映したような碧眼を持つ、それはそれは美しい少女だ。
そして何より、彼女には才能があった。
国でも数人しかいないと言われる「聖なる治癒魔法」の使い手。
怪我を癒やし、病を払い、枯れた花さえ蘇らせる奇跡の力。
対して、私、エマ・ウィンスレットは、くすんだ茶色の髪に、特徴のない焦茶の瞳。
魔力はゼロ。剣の才能もなければ、商才があるわけでもない。
ただ文字が読めて、計算ができて、刺繍が少し得意なだけの、どこにでもいる「凡庸な姉」だった。
両親は、ルナを溺愛した。
それは当然のことだ。ルナはウィンスレット家の希望であり、誇りなのだから。
私はそれを妬んだことはない。……いや、嘘だ。幼い頃は妬んだ。
けれど、ルナ自身が私のことを「お姉様、大好き!」と無邪気に慕ってくるものだから、毒気を抜かれてしまったのだ。
私は諦めることを覚えた。私は、ルナを引き立てるための背景でいい。
そう思って生きてきた。
だから、私の婚約者がルナに優しくするのも、当然のこととして受け入れていたのだ。
「ルナ。今日も魔力制御の訓練、頑張ったんだな」
「はい! アレク様!」
我が家の庭園。
私の婚約者である騎士団長、アレク・バーナードが、ルナの金色の髪を優しく撫でていた。
アレクは、若くして騎士団のトップに立った英雄だ。
漆黒の髪に、鋭い眼光。普段は厳格で人を寄せ付けない彼が、ルナの前でだけは、兄のように目を細める。
「偉いぞ。その調子だ」
「えへへ……。アレク様に褒められると、もっと頑張れます!」
ルナが花のような笑顔でアレクを見上げる。
美しい絵画のような光景だった。
少し離れた場所で、私は冷めきった紅茶を飲みながら、それを眺めていた。
アレクと私の婚約は、父が決めた政略的なものだ。
騎士団との繋がりを欲した父が、私を差し出した。
本当はルナを嫁がせたかったのだろうが、彼女は「国の聖女」として王家に囲われる可能性が高かったため、平凡な私が選ばれたのだ。
(お似合いだわ)
心の中で、乾いた音がした。
アレクは優秀な騎士で、ルナは稀代の治癒術師。
戦場で傷ついた彼を、彼女が癒やす。なんて完璧な組み合わせだろう。
魔力のない私には、彼の傷一つ治してあげることはできない。
包帯を巻くことくらいはできるけれど、それは侍女でもできることだ。
アレクがルナの頭を撫でるたび、私の胸の奥がチクリと痛む。
でも、私は何も言わない。邪魔をしてはいけない。私は「背景」なのだから。
◇
ある日の夕食後。
父が私を執務室に呼んだ。
「エマ。お前に話がある」
重々しい口調だった。隣には母も座っている。
「アレク殿との婚約の件だが……解消しようと思っている」
予感はしていた。
心臓が冷たくなるのを感じながら、私は静かに問い返した。
「それは、アレク様のご希望ですか?」
「いや、向こうから正式な申し出があったわけではない。だが、見ていればわかるだろう? 彼が本当に大切に思っているのは、ルナだ」
父は、まるで決定事項のように語った。
「ルナも16歳になった。王家に嫁ぐという話もあったが、ルナ本人が『騎士団の力になりたい』と言っていてな。アレク殿となら、公私共に最高のパートナーになれるはずだ」
「あなたもそう思うでしょう? エマ」
母が同意を求めてくる。
私は、膝の上で拳を握りしめた。
悲しい。悔しい。
でも、反論の言葉が見つからない。
客観的に見て、父の言うことは正論だった。
無能力者の私よりも、治癒魔法を使えるルナの方が、騎士団長の妻にふさわしい。それは誰の目にも明らかだ。
「……はい。お母様、お父様のおっしゃる通りだと思います」
私は声を絞り出した。
「わかりました。アレク様には、私からお話しします。……円満に、妹へ譲る形にしますわ」
それが、姉としての最後の矜持だった。
捨てられるのではなく、譲るのだ。そう思わなければ、心が壊れてしまいそうだった。
◇
翌日、アレクが屋敷にやってきた。
いつものように、ルナの魔力訓練に付き合った後、庭のガゼボで休憩しているところへ、私は向かった。
近づくと、二人の会話が聞こえてきた。
「……アレク様。もう、大丈夫です。私、強くなりました」
ルナの声だ。いつもの甘えるような響きではなく、どこか真剣な声色だった。
「ああ。よく頑張ったな、ルナ」
アレクが、またルナの頭を撫でる。
その光景を見るのが、これで最後だと思うと、視界が滲んだ。
私は深呼吸をして、笑顔を作った。
努めて明るく、軽やかに。
「ごきげんよう、アレク様。ルナ」
二人が振り返る。
「姉様!」
「エマか」
アレクは私を見ると、撫でていた手をルナの頭から離した。
その手が、私に向けられることはない。
「少し、お時間をいただけますか? 大切なお話があるのです」
私はアレクの向かいに座った。
ルナが気を利かせて席を外そうとするのを、「ルナもいてちょうだい」と引き止める。
「アレク様。……私との婚約を、解消していただきたいのです」
単刀直入に切り出した。
アレクの碧眼が、わずかに見開かれる。
「……理由は?」
「私では、貴方様の力になれません。魔力のない私では、騎士団長の妻という重責は担えませんわ」
私はルナの方を見た。
「でも、ルナなら違います。彼女の治癒魔法があれば、貴方様を、そして騎士たちを支えることができます。……お二人は、とてもお似合いです」
言い切った。
震えそうになる声を必死に抑えて、私は微笑んだ。
「父も母も、そう望んでいます。どうか、ルナを……私の自慢の妹を、貰ってやってください」
沈黙が落ちた。
鳥のさえずりだけが、やけに大きく聞こえる。
アレクは、じっと私を見つめていた。
怒っているのか、呆れているのか、その表情からは読み取れない。
やがて、彼は深いため息をついた。
「……エマ。君は、一つ大きな勘違いをしている」
「勘違い、ですか?」
「ああ。俺がルナの頭を撫でていた理由だ」
アレクは、隣に座るルナを見た。
ルナは、気まずそうに下を向いている。
「俺が彼女を褒めていたのは、彼女が『治癒魔法の制御』を必死に特訓していたからだ。……何のために特訓していたか、知っているか?」
「それは……国のため、騎士団のため、でしょう?」
「違う」
アレクは首を横に振った。
「彼女の魔力は強すぎるんだ。制御できなければ、周囲の『魔力を持たない人間』に害を及ぼす可能性がある。……つまり、君だ、エマ」
「え……?」
私は言葉を失った。
「ルナは、君と一緒にいたがった。でも、自分の力が君を傷つけるかもしれないと知って、泣いて俺に相談してきたんだ。『どうすれば魔力を抑えられますか』『お姉様と一緒にご飯が食べたいんです』と」
ルナが、顔を上げて私を見た。その瞳には涙が溜まっている。
「だって……姉様は魔力がないから。私が感情を高ぶらせて魔力を放出したら、姉様が『魔力酔い』しちゃうって、先生に言われたの。だから……」
「だから俺は、彼女に魔力制御を教えていた。彼女が頑張っていたのは、全て君のそばにいるためだ」
アレクが、静かに語る。
「俺が彼女を褒めていたのは、『よくやった、これでエマと一緒にいられるな』という意味だ。……それ以外の感情など、あるわけがないだろう」
頭が真っ白になった。
私が「見せつけられている」と思っていたあの光景は、全て私のためだった?
ルナが私を避けるようにしていたのも、アレクがルナにつきっきりだったのも、私が魔力に当てられないように守るため?
「そ、そんな……。でも、お二人はとても親しげで……」
「それは、同志としての親愛だ。俺の心にあるのは、最初から君だけだ」
アレクが、私の手を取った。
その手は、剣ダコで固く、そしてとても温かかった。
「エマ。君は自分を『何もできない』と言うが、それは間違いだ」
彼は私の目を真っ直ぐに見つめた。
「俺が遠征に行くたびに持たせてくれる、刺繍入りのお守り。激務で疲れた俺のために用意してくれる、ハーブティーのブレンド。騎士団の家族への細やかな気配り……。君がしてくれる『当たり前のこと』に、俺がどれだけ救われているか、君は知らないだろう」
アレクの言葉の一つ一つが、凍りついていた私の心を溶かしていく。
「魔力や剣技で守ることは、俺やルナの役目だ。だが、戦いに疲れた俺たちの心を癒やし、帰るべき場所を守ってくれるのは、君にしかできないことだ」
彼は、私の手を両手で包み込んだ。
「君は『背景』なんかじゃない。俺にとっての『陽だまり』だ。……どうか、俺の前から消えないでくれ」
涙が溢れた。
ずっと、自分には価値がないと思っていた。
華やかな妹の影で、誰にも気づかれずに生きていくのだと思っていた。
でも、この人は見ていてくれたのだ。私の小さな刺繍を。一杯の紅茶を。
魔力がない、私自身を。
「……アレク様……」
「姉様! 私も、姉様がいなきゃ嫌よ!」
ルナが泣きながら私に抱きついてきた。
今、彼女の体から溢れる魔力は、優しく、穏やかに制御されている。
これなら、私でも大丈夫だ。
「ルナ……。ごめんね、私、勘違いして……」
「ううん! 私がもっと早く、できるようになればよかったの!」
私はルナの背中を撫で、そしてアレクの手を握り返した。
「……アレク様。婚約解消の話は、撤回させてください。私は……貴方のそばにいたいです」
「ああ。許可する。……というか、最初から解消する気などない」
アレクは、いつもの厳格な表情を崩し、優しく微笑んだ。
それは、ルナに向ける「兄の顔」ではなく、一人の男性としての、情熱を秘めた顔だった。
◇
その後、父と母には、アレクとルナからたっぷりと「お説教」があったらしい。
「エマの価値を理解していない」「あんなに素晴らしい娘を道具扱いするな」と、騎士団長と聖女に詰め寄られ、二人は縮み上がっていたそうだ。
数ヶ月後。
私はアレクと結婚式を挙げた。
教会に集まった騎士たちは、皆、私が刺繍したお守りを剣に結んでくれていた。
「綺麗だよ、エマ」
純白のドレスを着た私を見て、アレクが囁く。
私は少し照れくさくて、でも誇らしい気持ちで、彼の隣に立った。
私は、剣も魔法も使えない。空を飛ぶことも、傷を癒やすこともできない。
けれど、最強の騎士の心を癒やし、最高の聖女に愛される「姉」であることはできる。
「はい、あなた」
私は満面の笑みで答えた。
これからは、私が彼を支える番だ。
誰も見ていない場所で、誰よりも温かい愛で。
それは、魔法よりも尊い、私だけの力なのだから。




