第26話
◇◇
12月24日 午前9時――。
国立難病治療研究所の手術室に、若い女性の看護師の声が響いた。
「メイちゃん、がんばりましょうね!」
手術台に寝かされ、人工呼吸器を取り付けられた芽衣は、コクリとうなずいた。
これからおよそ5時間ほどの手術にのぞみ、彼女が麻酔から目を覚ますのは夜中になってからだろう。
日本で行うのは初めての手術だ。
ずらりと並んだ医療スタッフたちの間に緊張が走る。
しかし、当の本人の心持ちはまったく違っていた。
『ジュンペイ。また会えるよね』
彼女の心の中は自分のことではなく、順平でいっぱいだったのだ。
そして彼女は、意識を失う最後の瞬間まで祈りを捧げていた。
『どうか神様。ジュンペイを助けてください』
と――。
………
……
深い眠りについている間。
芽衣は夢を見ていた。
うららかな陽射しが白い砂浜を照らしている。
眩しすぎる光の中、芽衣は薄く目を開いて前方を見つめた。
波ぎわから少し離れたところに、丸みをおびた男の背中と、幼い男の子の小さな背中が並んでいる。
『ゆっくり吹いてごらん』
『パパ。うまくいかないよ』
『だいじょうぶ。焦らなくて大丈夫だから』
どうやら優しい父親が我が子にハーモニカの吹き方を教えているようだ。
――ブイィィン。
ぎこちなく響くハーモニカの音。
『あはは! やったよ! ぼくふけたよ!』
『ああ、すごいぞ』
『ねえ、ママ! きこえてた!? ぼくハーモニカふけたよ!』
父と子が振り返り芽衣に笑顔を向ける。
その二つの顔を見た瞬間……。
芽衣は固まってしまった――。
なぜなら父親の顔は滝田順平、その人なのだから……。
そして男の子は自分の方を向いて、「ママ」と呼び掛けている。
ならば自分は、目の前で屈託のない笑顔を見せる可愛らしい男の子の母親なのか。
つまりここにいるのは、家族ということだ。
これは夢なのだ、というのは分かっている。
でも、彼女はそれでかまわなかった。
彼女が幼い頃から憧れていた、温かな家族がここにはある。
この夢にひたってしまおう。
これこそが、自分の夢見た『風景』なのだ――。
彼女はそう考えて、明るい声を上げた。
『ばっちり聞こえてたわ! ねえ、もう一度聞かせて!』
『うん!』
彼女が二人の横に並んで座ったところで、男の子が顔を真っ赤にしてハーモニカに息を送りこんだ。
――ブイィィン。
さっきよりも、ちょっとだけ上手に音が出た。
『まあ、上手! すごいじゃない!』
『へへ! ママ、ありがと!』
『じゃあ、次はパパの番ね! パパの吹くハーモニカはすっごいんだから!』
『ちょっと、メイ。ハードルあげないでくれよ』
『へえー! パパ! 吹いて、吹いて!』
男の子が目を輝かせながら、ハーモニカを父親に差しだしている。
芽衣もまた父親……順平を見つめた。
少しだけ彫りが深くなった顔に、重ねた歳を感じる。
でも、瞳に映る優しさは、彼女が良く知る頃の彼と何ら変わらない。
『じゃあ、一曲だけ』
父親はハーモニカを受け取ると、目をつむって吹き始めた。
何度も耳にした『きらきら星』。芽衣のもっとも愛するメロディーだ。
さながら柔らかな綿毛に包まれたかのような心地良さに、芽衣の心は安らいでいった。
いつの間にか彼女は歌声を響かせていた。
隣の男の子も彼女と一緒になって歌っている。
幸せ。
とても幸せ……。
何度か同じフレーズを繰り返した後、順平のハーモニカの音が止まった。
代わって聞こえてきたさざ波の音に耳を傾けながら余韻に浸っていると、順平と男の子がすくりと立ち上がった。
そして順平がゆったりとした口調で告げた。
『メイ、ありがとう。愛してる』
メイの瞳から温かい涙が落ちる。
でも彼女は笑顔のまま、穏やかな調子で言った。
『ジュンペイ、わたしもよ。ありがとう。愛してる』
父子は満面の笑みを浮かべながら、少しずつ白い光に包まれていく……。
覚めぬ夢などない。
それは分かっている。
分かっているが、
『行かないで!』
と、彼女は叫んだ。
しかし順平は、静かに首を横に振った。
『大丈夫。焦らなくても大丈夫。きっといつかまた会えるから』
『ほんと?』
『ああ、だから一歩ずつ前に進むんだ。約束してくれるかい?』
『うん……』
『よかった。やっぱり君は強くて美しい』
その言葉を最後に、父子は消えていった。
一人残された芽衣は、大きく息を吐く。
寂しさと悲しみでふさがれた心の扉の奥から、小さな光が顔を覗かせている。
彼女は扉をこじ開けた。
あふれてくる光に、ぐんと体温が上がっていく。
そして……。
一歩だけ足を踏み出したところで、彼女の視界は真っ暗闇に包まれていったのだった――。
………
……
「芽衣さん! 芽衣さん、起きて!!」
甲高い女性の声が、芽衣を急速に覚醒させた。
しかし丸一日眠っていた体は、そうやすやすとは動きそうにない。
しびれるまなこを懸命に開きながら、彼女はかすれた声をあげた。
「……夢美さん?」
ぼんやりとした視界が徐々にクリアになっていくと、そこには確かに夢美の姿があった。そしてその隣にはアメリカ人医師のメアリーをはじめとした数名の医師たちもいる。
少しだけ頭を上げた芽衣を見て、夢美がメアリーにつめよった。
「If she wakes up, she can move at once, right?」
(彼女は目を覚ましたら、すぐに動いていいのですよね?)
「Yes,but……」
(ええ、でも……)
「Good! Thanks!」
(いいわ! ありがとう!)
流暢な英語でやり取りをした夢美は、芽衣の背中に手を回して、ゆっくりと起こした。
「ど、どうしたの?」
状況がつかみきれていない芽衣は、目をぱちくりさせながら夢美を見つめている。
そして彼女が完全にベッドから起きあがったところで、夢美は大声で告げたのだった。
「順平くんが目を覚ましたの!!」
と――。




