第84話 赤髪エルフ──マルシスによるイクリス魔法学⑤「一番最強の魔法」
ノアは、マルシスの放った炎の口づけに額を焦がし、あまりの熱さに、雪の中にうずくまるようにして額を押さえ込んでいた。
マルシスは氷の城門を貫いた後、
投げキッスで飛ばした指先をゆっくりと下ろしながら、
淡々とした口調でぽつりと呟いた。
「……おや。まだノア君には──少し、刺激が強すぎましたか?」
その言葉の裏には“投げキッス”のように飛ばされた火花と、自信満々で繰り出したはずの十枚重ねの氷壁を完膚なきまでに貫かれた圧倒的な実力の差。
その両方を指しているかのような、意味深な響きが宿っていた。
「──これが、“天空級”魔術師の実力です」
(……すごい)
カナリアは、ただその光景に圧倒されていた。
(ノアの得意属性である氷魔法を、しかも氷原という有利環境で……マルシス先生は、炎──それも苦手属性で、真っ向から打ち破った。こんなの、普通じゃありえない)
“教師”という枠を越えた存在として、
マルシスの姿が“本物の一流魔術師”として、カナリアの胸に深く刻まれていく。
その頃──雪の中から、ノアがむくりと顔を上げた。
「最後の……ハートの魔法は余計ですよ……!」
髪をかき分け、指で額をぐいと押し上げて見せる。
くっきりと浮かぶ、ハート型の火傷。
「こ、これは……ダメだ、無理、笑っちゃう……! だってそれ、完ッ璧にハートじゃん!」
「ぷっ……ふふっ、あははははっ!! 何それノア、かわいいでちゅね〜〜!!」
普段は転生者としての余裕から、弟をバカにするようなことは少なかったカナリアだったが──
これには思わず、笑いをこらえきれず、その場で笑い転げてしまった。
「笑うなああああああ!!」
その騒ぎの中、マルシスは静かに歩み寄ってきて、
しゃがんだノアのハート火傷の額をじーっと覗き込む。
少し間を置いて、こう言った。
「……まさに、愛のある指導とは、こういうことです」
「本気で言ってんのか冗談なのかわかりませんよーッ!!」
ノアの全力ツッコミが、空島につきぬけるように響き渡った。
マルシスはそんな騒ぎをよそに、先ほどの魔術対決の考察を淡々と告げはじめた。
「ノア君──あなたの対応は見事でしたよ。二点ほど褒めるポイントがあります」
ノアが嬉しそうに顔を上げた。
「まず一点。最後の十枚目、あの“城門”のような氷壁を、他の層より意図的に強固にしたこと。あれは明らかに貫通までに時間を要しました。見事です」
「そして二点目──私の先天属性を思い出し、貫かれる直前に“闇の属性”を流し込んで防御強化を図ったこと」
マルシスはそのまま、すっとノアの顔を覗き込んで、淡々と一言。
「それにより光炎穿閃の到達を防いだのです……でなければ──その綺麗な顔が、黒こげになっていたはずですよ?」
その一言にノアとカナリアが顔を強張らせる。
「ちゃんと授業を聞くことの大切さ……これで理解できましたね?」
「……はいっ!」
ノアは額を押さえたまま、力強く手をあげて返事をした。
「それに──才能だけでは魔法は成長しません。一番の魔法は努力なんですよ。それも、忘れないでください」
マルシスが本当に伝えたかったノアが魔法に対する姿勢を自然に伝えるのであった。
「君はこの世界で、ただ一人──“全属性”を持っています。
私やギルバート様すら超える可能性があるのですから」
その一言に、ノアはハッと目を見開いた。
◇◇◇◇◇
──あの時、アデルさんが言っていた言葉。
「君は生まれた時から完成してる」
「才能だけでここまできた君には、負けるわけにはいかない」
◇◇◇◇◇
胸にずしりと響いた記憶。
その時は剣のことだけだと思っていた想いが、今になってすべてにおいて意味を持つ言葉だと理解しはじめた。
ノアは神妙な面持ちでうなずき、まっすぐマルシスを見つめた。
「……そうだよね。本当は、誰よりも僕が努力しなきゃいけないんだ」
「わかりました、マルシス先生! 僕──剣も魔法も、どっちも頑張ります!」
それを聞いたマルシスは、いつもの無表情のまま──
けれどその肩をそっと手で抱きながら、どこかほんのわずかに朗らかさを含んだ声で言葉を返す。
「……わかってくれて、なによりです」
(……この人が、“魔法の最前線”で戦ってきた本物なんだ)
カナリアの胸に、尊敬と憧れの感情が静かに芽吹いていく。
そのままマルシスは、隣に立つカナリアへと身を寄せ、声を潜めて耳打ちする。
「……これで、ノア君も──しばらくは“居眠りせずに授業を受けてくれそう”ですね」
「えっ?」
「でなければ……他の先生に、どやされてしまいますからね」
その言葉に、カナリアは一瞬きょとんとした後、
くすっと小さく笑った。
(……マルシス先生も、なんだかんだ優しいな)
だが、次の瞬間。
マルシスはゆっくりと姿勢を正し、
その表情からふっと感情の色が抜け落ちる。
「カナリアさん、ノア君。ひとつ、真面目な話をします」
双子が自然と背筋を伸ばす。
「私は“テスト前”の名目で、自分の先天属性──“風”と“光”を教えました。ですが本来、“対魔術師戦”において属性の開示は──死活問題です」
「……!」
「たった一つの情報が、勝負の明暗を分け、命の行方を決めることもある。そのことを、肝に銘じておいてください」
ノアとカナリアは、静かにうなずいた。
(……対魔術師戦。これは、私の課題でもある)
これまで感覚や直感で戦ってきたカナリアにとって、
情報の扱いや戦術での駆け引きは、まだ発展途上だった。
そんな自分に、こうして一流の魔術師が本気で教えてくれる。
(学ばなくては。──絶対に一つだって無駄にできない)
カナリアは強く胸の奥でそう噛み締め、
真っ直ぐにマルシスの背を見つめた。
「──時にカナリアさん。見学中は寒くなかったですか?」
マルシスは、興味深そうにカナリアを視線でなぞる。
つま先から頭の先まで、まるで観察するように丁寧に目を走らせながら問いかけてきた。
カナリアはその視線に少し戸惑いながらも、
自分の服装や髪のほつれを軽く整えるように確認し、頷いて答えた。
「……? 大丈夫です! 問題ありません!」
マルシスはその言葉に小さくうなずき、ほんのわずかに間を置いて返す。
「そうですか。──ならばよいのです」
マルシスは演習場を軽く見まわし、あとに続く二人に告げる。
「今日はここまでとします。帰りましょう」
マルシスの言葉とともに、彼女が飛翔の魔法をかける。
ふわりと浮かび上がった三人は、マルシスを先頭に、双子が横並びで続いた。
帰りの岐路を進む、空の旅路。
夕焼けに染まる雲。金色にきらめく風。沈みゆく太陽の眩しさ。
その帰り道の途中、カナリアはふと服のポケットに手をやり、柔らかな紙の感触に気づいた。
(……あっ、これ)
それは、演習場へ向かう前にカナリアが魔法具の爆ぜた拍子で、
まき散らしてしまった文書の一枚だった。
小さく折られた羊皮紙を取り出し、そっと広げる。
そこに載っていたのは、マルシス・ゴールドリバーの古いプロフィール記事だった。
「なになに~……魔法都市エルドランシア・アカデミックに十二歳で飛び級入学……!
在籍してから全行程を一年半で終え、その時点の成績で主席卒業……って、超天才じゃん!?」
読み進めていたカナリアの目が止まった。
「え……これ、百年以上前の記事……?」
思わず指を折って年数を数える。
──その瞬間、羊皮紙の端が“じゅっ”と赤く燃え上がった。
「わ、わっ!? 燃えてる燃えてる!!」
慌てて紙を振り払うカナリア。その様子を見ながら、
少しだけこちらへ振り向いたマルシスが、淡々と語りかけてきた。
「……個人情報ですよ、カナリアさん」
「ご、ごめんなさいっ!!」
(ひょえええっ、背中にも目があるんですかー!?)
「……忘れてください。特に──年齢のところは」
一瞬時が止まったような空気の中、カナリアはぎこちない笑顔を浮かべる。
「は、はいーっ!? なんのことでしたっけ!? あっははははー!」
カナリアは笑ってごまかしながら、さりげなく紙の焦げ跡を背後に隠した。
そして三人は、再び空を進みはじめた。
空に浮かぶ透明な道を、飛翔の魔法でふわりと漂うように進みながら、
マルシスは足を止めることなく、ちらりと横目を向けた。
その片眼には、解析の聖印が淡く輝きを宿しカナリアを捕捉している。
沈む太陽。染まりゆく雲。
横を並んで歩くカナリアの姿。
(……あの場で、最も“異常”だったのはあなたですよ、カナリアさん)
ノア君の《完全詠唱・氷牙槍》にも。
私の地形変化魔法にも。吹き荒れた雪にも。しまいには、先ほど燃やした紙の熱にさえ。
あなたは、火傷するどころか何ひとつ影響を受けていなかった。
服一枚、髪の一筋すら、揺らぎもしない。
まるで風も、魔力も、“あなた”に触れることを拒んでいたかのように。
(彼女自身も気づいていない。自らが“触れられぬ存在”になりつつあることを──)
属性がないにもかかわらず、生身で魔法を防ぐなど──到底考えられない。
カドゥランの町で目撃された、魔将ダウロを屠った黒い雪との関連があるのだろうか。
そして彼女自身の口から語られる日は来るのだろうか。
──この日、マルシスの中で静かに芽生えた確信。
カナリアは、これまでの“常識”すら塗り替えていく存在なのかもしれない──
マルシスは、そんな予感を拭いきれずにいた。
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