282枚目 「丁番と枯れ葉」
――ラエルが意趣返しのつもりで浮かべたはずの笑顔は、次の瞬間には埃まみれになっていた。
ベッドの横にあった棚に向かって、突き飛ばすように魔力で吹き飛ばされたと分かったのは相手の顔と体制を目にしてからである。
それでもラエルは首を傾げる。疑問しか浮かばない。
トカの意思を代弁しただけに過ぎず、その事に納得した自分がいるはずだ。
それなのに視界が定まらない。ぼろぼろと、決壊したように左目だけ涙があふれて止まらない。慌てて手で押さえるが、指の間からこぼれた涙からは酷い味がした。
そして、もっと分からなかったのは。そうされたラエルよりも、そうした本人の方が「なぜ自分自身がこのように行動したのかが分からない」と言わんばかりに、普段は細い眼を大きく見開いていたことで――ラエルは、トカがそのように取り乱すのを久しぶりに見た。
(最後にあんな顔を見たのは。いつのことだったっけ)
心臓が苦しい。眉間の奥がつんとする。
目の奥が痛いのに、目が閉じられない。
こちらを振り向いたはずの、金髪少年の顔を見ることができない。
少女の視界を白服が遮ったのは、その直後だった。
「――どういうことですかトカ・イゥルポテー。これは、看過できる範囲を超えています」
「……」
「黙っていないで答えなさい!!」
「……魔導王国の、白魔術師、か」
その言葉にツァツリーが顔を歪めるのとほぼ同時に、トカは魔力糸を張り巡らし屋根に空いた穴から外へと飛び出した。鏡面の靴裏はあっという間に空中を踏み台に、姿が瞬く間に見えなくなる。
「――っ!!」
「行って。ハーミット」
「っ、でも」
「追いかけて欲しいの。今の私じゃあ追いつけない」
その代わり。と、ラエルの言葉は続いた。
少女は痛いほど自覚している。どうあれ、自分の言葉がきっかけなのだと。
そして同時に、この状況が「正しくない」だろうことも。理解できる。
(「親と思え」と育てておいてあの言い分はなんなんだ。子どものように思えないなら、そう思っていると面と向かって言えばいいのに。逃げるような言葉回しでのらりくらりとしてくれちゃって――ムカつく)
そう、ムカつくのだ。トカの態度がムカつくのだ。
本当の親じゃなかったとか、子どものように思われていなかっただとか、そんなことはこの際どうでもいい。ただムカつくのだ。ムカムカする。辛抱ならない。
ただの小娘一人に面と向かって嫌だともああだこうだとも言えず、ハーミットにあれだけ啖呵をきっておいてラエルが出てきたら話もせずに無理やり押しのけて逃げるところとかが、特に!!
だからラエルは、それが自分よがりな正しさだと分かっていても口を止めることができなかった。
これ以上は、自分自身に嘘を吐けそうにない。
「お願い。絶対に、連れて帰ってきて。私だって、言いたいことが山ほどある」
「ああ、任された。引きずってでも連れてくる」
風が吹いたかと思えば、金髪少年はもうそこに立ってはいなかった。
最後まで表情は読めなかったものの、確かに信頼できる声が耳に残っている。
身体が、じんわり熱を帯びる。
(……昼間に鼠顔を外すのは珍しいのに、見逃しちゃった。残念)
後に残されたのは、ラエルを庇うように立つツァツリーと瓦礫の山。
壁が落ちた部屋には燦燦と日差しが差し込み、伸びる影を濃くしている。
視界の端に、蜘蛛の糸に似た魔力糸が漂っていた。
「ラエルさん。顔以外に痛い場所はありますか、意識は? 視界は?」
「大丈夫。ちょっと涙腺が馬鹿になってるだけで、他は全然痛くないから」
ラエルは瓦礫の部屋から出て、外で立ち尽くしていた賊たちに手を振る。
後をついてきたツァツリーにも、赤くなった目元をこすり笑う。
「それより、おかえりなさい四人とも。よければこのまま、お昼にしない?」
――糸魔術使いトカの逃げ足は、想像以上に早かった。
数秒目を離した間に小屋二つ分の距離を取られていたハーミットは、その場に転がっていた丸太を踏み台にしながら屋根に上がったものの、その人族離れした身のこなしですら追いつくことができなかったのだ。
姿は見えているが、当然と言えば当然である。
「あいつ、糸の上走っていきやがった……しかも」
トカは蟲が闊歩し住居群がある東とは真逆、中州の浮島から真西にそびえる山肌を目掛け一目散に駆け上がっていったのだ。太い川の上を、失速する様子もなく。
ハーミットは糸術使いの靴裏がキラキラと反射するのを目で追うが、すでに鼠顔に搭載された魔力可視性能では目視が難しい距離である。最早どこに魔力糸が張られているのか、張られていないのかも分からない。
指示を出す前に飛び出した伝書蝙蝠の姿も、トカと共に見えなくなった。
今のハーミットには、彼が走り去っていった山麓を眺めるしかできない。
(いや、まだだ。魔力糸だけであんな風に渡れるってことは、魔術でどうにかなるってことだろ。俺には使えないというだけで、この世界には魔術が存在するんだから)
持ちうるバイアスを破壊し、固定観念をぶち抜くようなアイデアがあれば――あるはずだ。あの背を追う方法が。
(考えろ。それが俺の仕事だろう、ハーミット・ヘッジホッグ……!)
空を飛ぶ魔術、風。
いや、本人が飛ぶならともかく飛翔距離の補助程度では対岸に辿り着けないどころか着水に危険が伴う。氷魔術はどうだ、使い手がいない上に距離がありすぎるか?
走りながら魔力供給し続けるだけで中空から地面に落ちないような仕組み……空中に床を作る技術。
魔力糸。魔力塊。魔力板。魔力壁。
氷や土の橋でなくとも、足場になるものであればいいか。
透明でもなんでもいい、足場が必要だ。
(……待てよ。そういう仕組みの通路を、割と最近に使ったような気がする)
針鼠は視線を地面へと戻す。
屋根の下には、慌てた様子の結界術使いとカフス売りの商人がいた。
ハーミットは二人を見て一考する。
「うわぁ、高いな!? 一体どこから糸を引っ張っているんだか!!」
「――レーテさんの目には糸の足場が見えますか?」
レーテの目の前に、音もなく黄土色のコートが舞い降りる。
鼠顔を外したハーミットが琥珀の眼を向けると、結界術使いは嫌な予感がしたのか引き気味に歯を食いしばって見せた。
「み、見えないことは無い。だが、基本的に魔力糸というのは術者以外の魔力と相性が悪いものだ。触れた我々が弾かれるだけでならいいが、糸が切れれば彼の身が危なくなる」
「なるほど、魔力糸への干渉は悪手ですか。……あの、ひとつ確認したいことがあるんですが」
「う、ん?」
「浮島の島外螺旋回廊を設計した際、レーテさんも技術者として関わっていましたよね?」
「えっ」
「いましたよね?」
「あ、あぁ……はい」
「良かった、俺の記憶違いじゃなかったみたいですね。お願いがあります」
ハーミットは言いながら、頭の中で資料を広げる。
この場合の浮島とは、空の上に浮いている「魔導王国浮島」のことだ。結界術式の構築に関わる部分は、浮島の安全にかかわることなので一部の人間を除き秘匿事項として扱われている――が。その程度の内容を四天王であるハーミットが知らないはずもない。
あの浮島が空に浮いていられるのも、気圧や寒暖差の影響を大きく受けないのも、島を守っている結界のお陰である。その魔力のほとんどを王様が、維持は司書ロゼッタが担っている。勿論この二人を除いても関わった魔術士は数多いが、数えきれない「知」を集めて作られた浮島の魔術式に「増設」の意味合いで関わった魔術士となると、実はそう多くないのだ。
例えば、円滑な外交を目的にした『虚空に建つ門』の再開発。
空間術式が浮島に過干渉しないよう設けられた、島外螺旋回廊の設置と構築。
それらは腕のある魔法具技師と結界術使いを中心に、ほんの数名で行われた。
上記の件で活躍した魔法具技師はフラン。
結界術使いは――レーテだ。
以上を踏まえ、ハーミットは脳内資料室を閉じ。にこりとした。
顔を引きつらせたレーテを逃がすつもりは全くなかった。
「あの原理で、ここでも似たようなことはできますか?」
「…………」
「よかった、できそうなんですね」
さらりと無茶ぶりを口にしたハーミットに、レーテは絶句する。
魔術の構築には難易度がある。魔力消費や構築難度に加え、得意不得意得手不得手、術者の精神状態に応じて発現結果が常に僅かに変化する。
一度できたことだからといって、それをそのままに再現することはとても難しいのだ。とても頭を使うしとても魔力を使うのだ。間違っても、「一度できたから、やります!」と手を上げられることではないのだ。
だが。この針鼠にはその辺りの憂いが一切ない。
魔術を使えない体質だからこそ、魔術の再現と応用の難しさを知らない。
素直な琥珀の視線には「この人ならやりとげてくれるだろう」という期待と羨望しかない。
そしてそれが魔術を使う者にとっては耐えがたい激励なのだと――少年には、自覚がないのかもしれなかった。
(いや、彼自身はそのことを知っているのかも、しれないが)
得意な魔術を褒められて嬉しくない魔術士が、この世にいるだろうか?
「……っ君なぁ、主語を言いたまえ主語を、それで理解できる私も私なんだけども――あぁ、滑り台並みの働きを求めるなら私が適任だ。今すぐ魔力補給瓶をよこしなさい!!」
「ありがとうございます!! いくらでもありますよ!!」
待ってましたとばかりにハーミットは鞄に突っ込んだ腕を引き抜く。レーテは薬瓶を受け取って、苦い顔をしながらも地面に手を向けた。
(なに、イシクブール全体を囲う様な結界構築を求められたわけではないのだ。水に浮く床板を作る程度なら、なんのこれしき――!!)
「付与術式『丁番』――『表示式・空ろの合板』!!」
詠唱と共に、空中の魔力がレーテに吸い寄せられ黄色に輝く。
魔力糸が布になり塊になり糸になり板になる。地面に接した石材タイルの如き板。それが幾枚も現れるとバラバラ剥がれて宙を舞い、細くとも確かな足場を形成する――そうして、中州の浮島から山麓までを繋ぐ一本のランウェイがあっという間に構築された。
ハーミットにはどういう理屈で地面外に結界の床板に似た魔力塊を水面上まで引き延ばしているのかまでは分からなかったが、ともかくこれで道ができた。
針鼠は礼を言いつつ水の上に早速足を乗せようとして、背後から首根っこを掴み引っ張り上げられる。
「だーっ!! 待ちなさい!! 魔導王国で採用されている術式はもっと時間をかけて組み上げたものだ。これだけでは水に敷いたカーペットと変わらない!! 土素体を練り込んで硬質化させるか、渡る我々の体重を軽くする必要がある――しかし、案ずることは無いさ。私も考え無しではないんだ、あてがある」
言うと、レーテは赤茶の髪を振って後方へと視線を投げた。
レンズカフスを通してトカの背姿を追いかけていたグリッタは、視線が自分に向いたと気づいて徐にこちらを向く。
先刻のレーテと同じく、まさか自分に話が振られるとは思ってもいなかった顔である。巻き込み事故が起こった瞬間だった。
既に巻き込まれているレーテの方は、そのようなこと知ったこっちゃないと言わんばかりに営業スマイルを作る。
「グリッタ君、手ごろなカフスの品ぞろえはあるかな?」
「ま、まさかとは思うが……カフスの魔術付与頼みで走り切ろうって?」
「ああ。先日の会話や蚤の市の出店記録を踏まえても、君は重量操作系の魔術を付与したカフスを、最低二つくらいは持っているはずだろう?」
ぴしり、と。空気が凍る。
レーテにしてみればグリッタは娘の一人に子どもを産ませた挙句認知していない旅商人であり、グリッタにしてみればレーテは亡き親友と愛した女性の父親だ。
バクハイムでも意識しないよう努力していた事柄がプレッシャーとなって、バンダナの内側が湿気るほど冷や汗が吹きだす。
いくら魔術付与されたカフスの仕入れが困難かつ高価であろうとも、提供の結果赤字になろうとも、手元のこれが現状必要なものであることに変わりはない。そもそも、グリッタがこの状況で逆らえるはずもない。
売りきれない相手にだって、売るしか、ない――値札を剥がしてでも。
「……っ『地道よ人をはじけ』の使い切りカフスなら二つと言わず六つはある。緊急時だ、使ってくれ……!!」
「ありがとう、グリッタ君!!」
「ああいいぞ……! 緊急だからなぁっ……!」
顔には出さないが相当の損失なのだろう。しかし彼はレーテからお金が取れない。とることを自らのプライドと贖罪の念とが許さない。
ハーミットは因果応報だと思ったものの、後でカフス代だけでも工面しておこうと脳内メモに書き留めた。
ヤケクソ気味になりながらも、グリッタはハーミットにカフスを見せる。
赤銅色のカフスには、どれも中央に枯れ葉模様が刻まれていた。
「……それで? どうするんだ。これがあればラエル嬢ちゃんも渡れるだろう、呼んでくるか?」
「あ」
一瞬思案して、しかしハーミットは首を振る。
「……いや、俺たちで行こう。トカさんにも、彼女と距離をとりたがる理由があるかもしれない」
グリッタは意外だと思いながらも枯れ葉模様のカフスを二つ手渡す。
レーテは魔力補給瓶を飲み込みながら少年の言葉を反芻して、目を瞬かせた。
「私たちも、かい?」
「はい。結界術式は維持するために精神力を多く割くと聞いています。対岸に着き次第速やかに解術してもらうためにも、レーテさんを置いて行くことはできません。グリッタさんに同行してもらうのは俺が水に落ちた場合に拾ってもらう為ですね。……あと、その。彼の説得や事情の聞き出しに関して、俺では力不足だろうなと……」
ハーミットの言葉が詰まる。
レーテとグリッタは少年の様子に眉根を寄せ、顔を見合わせた。
「構わないとも。私も彼の言葉には思うところがあった。一人の父親として、力になれればいいのだが」
「あー。この状況で、このカフス売りが役に立つかまでは分からんが……お前さんは、それでいいのか?」
「……うん、十分心強いよ」
少年は礼を言い、三人は合図と共にカフスの魔術を発現させて水上を行く。
枯れ葉が滑るように水面に響き渡る波紋の群れ。
立ち耳の獣人は屋根の上で鍵の尾を揺らす。無言の眼差しで彼らを見送った。




