260枚目 「Deflect」
吹き抜ける風が水面を波立たせる。
針葉樹の葉が落ち、川が土を削る。
どれくらいそうしていたのか分からないが、ラエルは顔に当てていた手を徐に外した。
(…………)
再会した父親と価値観が合わなくなっていた現実も、何も重要なことを教えてくれなかった針鼠の態度も、今はさして重要なことではない。
ラエルがこれからどうするか、が問題だ。
(考えなきゃ)
黒髪の少女はうずくまったまま、思考を回し始めた。
――君は、彼女を殺せるか?
この問いに、ラエルは答えを用意しなければならない。
回答によってはトカやハーミット……ここまで共にやってきた全員と、ラエルは対立することになるだろう。
(天幕市場の時は、それ以外に手が無かったから魔術発現に踏み切れた。蚤の市の時はキーナさんとペンタスさんが居てくれたから無茶ができた。……でも、今回は違う。私の行動を肯定してくれるような味方は居ない)
そういえば、「トカ」という保護者と合流した時点で、ラエルは魔導王国の使者である以前にイゥルポテー一家として括られてしまったように思う。
言うほど、家族という繋がりは「同陣営」なのだろうか?
必ずしも、そうではないはずなのだが……。
まぁ、その親と折り合いがつかなそうだという時点で、ラエルは精神的にも立場的にも追い詰められてしまった。
この問いかけにはラエルが答えを出すほかない。
ラエルがひとりで考えて、ラエルがひとりで決めるしかない。
そう。ハーミットが求めているのは、他の誰でもない「ラエルの意志」なのだろうから。
嫌な予感は的中してしまったわけだし、ラエルも怪我を負って間もないが……正直なことを言えば、今できなければ、今じゃない自分に決断が下せるかどうかも危ういと思っていた。
決められないことを決めるには、理由が欲しい。
そもそも「彼女」がキーナやサンゲイザーや行方不明になっている衛兵を含めた他者をひとりでも害していたとしたら、ラエルの立場では庇いようがないのだ。
ラエルの意志と情だけで、重罪人の命を優先できるわけがない。
交渉を促せど「知性を有しているか判断する術がない」と言われたらそれまでだ。
自問する。
ラエルは自らを殺そうと爪を向けた「彼女」を、心から愛しているだろうか。
今は即答できそうにない。
どう答えようか、迷ってしまう気がする。
血が煮えるほど嫌いな蟲の形をした……けれど、白砂漠で身を削ってくれた事実を忘れられるわけがないのだ。見捨てられるわけがない。
けれど、憎い。
感情を抱くことすら、辛いくらいに。
繰り返すが、決断には理由が欲しくなるものだ。
「きっかけ」にせよ、「必然」にせよ、納得する為の理由が。
(だから。今の私には、決められないけれど。決めなきゃいけないから)
理由を手に入れる為には、知らなければならない。
(本当は。無責任に、無知に、感情的に選びたいけれど)
本心は、何も知りたくないと言うけれど。
「でも私は、私が正しいのか、判断できない……から。知りたい。知らなきゃいけない」
そうでしょう、ラエル・イゥルポテー。
ラエルは、絞り出すように現状の答えを声にした。
言葉にしたなら、撤回はしたくない。
知りたい知りたいと好奇心に突き動かされて来た今までとは違う。目を逸らしたくなる現実と向き合う心の準備はできた……はずだ。
少なくとも、針鼠や父親と向き合った時よりは気持ちの整理ができた気がする。ラエルは両頬に喝を入れて立ち上がると、扉を背に伸びをした。
血の足りなさで身体がふらつくのを慌てて誤魔化す。
ラエルは眩んだ視界が整うのを待ちながら、ともかく気まずい空気を味わわせてしまったハーミットに一言謝罪に行こうと思った。ついでに、父親の前では聞き出せなかった情報を手に入れておきたいとも。
ハーミットに話を聞いた後は、父親にしっかりお礼を言って事情を聞き出すことにしよう。トカがラエルに何もかもを隠そうとすることは目に見えているので、話を聞く順番としては間違えていないはずだ。
ラエルたちより先にこの村へやって来ただろう父親なら、こちらが知らない情報を持っているに違いない。なぜこの場所に留まっているのかを、聞き出す必要もある。
「大丈夫。やらなきゃいけないことを、間違えては、ないと、思うし」
最悪、情報収集の順番をひっくり返してもいいのだと。
優柔不断に言い訳がましく、思考は可能性を反芻する。
思考する。
思考する。
思考する。
今度こそ。
間違えないように。しないと――
「……」
気づけば、一歩も動けないまま時間が過ぎていた。
踏み出せない黒髪の少女の足元で、背丈の短い草が軋む。
この場で動けなくなる理由も、切っ掛けも、ラエルには心当たりがなかった。
ただ、呆然と、漫然と――疲れてしまった気だけが、して。
どうやら身体のだるさも相まって、気が重くて仕方がなくて。
……なので。この時のラエルは、いつの間にか隣に立っていた人物の存在を全くと言っていいほど認識していなかった。
耳元で爆音の柏手が鳴らされる。
ぱぁん!!!!
「ば――っ、ぅ、うわぁ!?」
一瞬仰け反るようにして飛び上がったラエルは、黒髪を振り乱しながら後退する。見開かれた紫目が捉えたのは、手のひらを重ねた状態できょとんとこちらを見つめる獣耳の獣人、ファレだった。
細長い鍵尻尾が、ゆらりと宙を泳いだ。
相変わらずどこを見ているか分からない両眼が、ガラス玉のようにラエルの姿を反射する。白藍の目は髪に隠れていたが、淡い銅色の目が瞬くのは確認できた。
「な。なに、今の音!? ファレさん!?」
「にゃあ」
「そ、そう……敵襲じゃないならいいわ。びっくりしたけれど。私に何か用?」
依然跳ね続ける心臓を抑え、ラエルは深呼吸をする。
隣に立たれても気配が掴めないとは珍しい。気が散っていたとはいえ、まるでスターリングを相手にしている気分になってくる。
(そういえばあの絵描き、サンドクォーツクの衛兵さんと面識があるみたいなことを言っていたわよね。「よろしく」とか言って……)
それなら、トカたちも例の衛兵と面識があるかもしれない。聞かねば。
「あの、ファレさん」
「ファレ」
「え? あ、……えっと……ファレ。貴方に聞きたいことがあるのだけど」
「なに」
「この村にサンドクォーツクから衛兵さんがひとり来たはずなの。どこへいったのか、知ってる?」
「……」
「……」
返事がなかなか返ってこない。ラエルが粘り強く待ってもファレの興味は既にラエルにないらしく、話を聞いてくれているようにも見えなかった。
きまぐれで我が道を行く思考回路には覚えがあるので、ラエルは自省しつつ眉間に皺を寄せる。
そうだ。イシクブールでも情報収集には時間がかかったものだった――それこそ、落ち込んでいる時間が勿体ないくらいに。
手帳を取り出して何やら書きつけ始めたラエルにファレは首を傾げ、傾げた首をそのままにずんずん距離を詰めていく。
今度はラエルも驚くことなく、しかし最終的にファレが立ち止まったのが頬がつきそうな至近距離だったので、思わず顔を引きつらせた。
「これは仕事用のものだから、見せられないわよ」
「ほっ」
「ああっ!?」
細い指先に、器用にも少女の手の内から手帳が抜き取られる。取り返そうと手を伸ばすラエルを軽々といなしたファレの手元で頁がパラパラとめくられた。
それはラエルが第三大陸に降りる前に用意した手帳で、モスリーキッチンのことからスターリングのこと、イシクブールの裏話などを割と全部まとめて、読み返しやすいように書き連ねたものだった。
個人的なメモ帳と違って、間違っても外部の人間に読まれていいものではない機密情報の塊だ。いくらなんでもハーミットに怒られること必至だろう。
保身に走る思考とは裏腹に「邪魔」の一言で掴み取られた腕はびくともしなかった。腕の長さすら勝てないラエルの手はファレの手元に全く届かない。
文字が詰まった紙がまた一枚、一枚とめくられていく。
やがてファレは視線を手帳に注いだまま、淡い銅色の目を瞬かせた。
「……」
「かっ、返してほしいのだけど……!」
「これ。大事?」
「ええ! 大事な物よ!」
長い睫毛と共に厚い瞼が二回降り。二回上がる。
返却してくれと訴える紫色と、色違いの双眸が合う。
「針鼠」
「え?」
「獣人もどきも、これ持ってた。オマエ……ラエルも、これ持ってる。読む時、書く時、同じ顔」
ファレは言いながら自身の眉間をぎゅっと寄せる。
細やかな毛皮がたるみ、三つ分の山ができた。しかしそれをすぐに解くと首をぶるぶる振って、肩をすくめる。
「見てるとこっちも嫌になる。大切は良い、けど」
閉じられた手帳を丁寧にラエルの手に戻すと、ファレはげんなりした顔でそう言った。
思ったよりも表情が豊かだとか、まさか無傷で返してもらえるとは思っていなかっただとか、黒髪の少女は一瞬だけ現状を把握しようと思考を巡らせる。
目の前の獣人が何を言わんとしているのかを必死に考えた結果、仲のいい赤魔術士の顔が浮かんだ。
「……もしかして、元気づけてくれてるの?」
「にゃぁ、そんなことない。こんなのが大切なの? 滑稽」
そんなことはなかったらしいし、手帳を大切にするのは滑稽だったらしい。
なんとなくショックを受けたラエルは言葉に詰まりながら相槌を返すしかなかった。
(……それにしても、ファレは独特な挙動をするわね。ジェムシさんもそうだったけれど、何か動きに制限でもかけているような)
彼らの動きがぎこちないことを指摘しようと思うほど、ラエルは彼らを知りたいとは思っていなかった。浮上しかけた好奇心をなけなしの理性で沈める。
現状は蟲のことと、攫われた二人のことと、父親のことと、ハーミットのこととで一杯一杯だ。これ以上の荷物は持てそうにない。
彼らの事情に下手な興味を持ってしまわない為にも、ここはやり過ごすのが得策だろう――そう考えつつ手帳を懐に収めていると、釣り場の方から二人の白き者が駆け足でこちらへやって来るのが見えた。
ラエルがツァツリーを呼ぶより早く、ファレが腕を伸ばす。
「ジェムシー」
「だから伸ばすなって! で、どうしたファレ。急に居なくなってよ」
ジェムシの言葉に、ファレが「にんまり」と笑む。
ラエルは思わず口を手で覆う。何だか嫌な予感がした。
「朗報。蜥蜴男、生きてる」
「あぁ!? 兄さんがか!?」
「あと。例の一件で追ってた子ども、この人。ラエル」
「うぇ!?」
「でも違う。色々ごちゃごちゃ。結局は蜥蜴が悪い、蜥蜴が良かった」
「…………」
「…………」
何時の間にか項垂れていたラエルを見て何かを察したのか、同じように頭を抱えるジェムシ。
ファレが口にしたのは、どう考えても先程手帳を盗み見られた際に得た情報だろう――これで、否応にも関わらずにはいかなくなってしまった。
ここまで意識しないように注力して来たつもりだったが、言葉尻の内容から判断して……彼らは、盗賊なのだろうから。
「にゃあ、みんな捕まったって。ファレたち以外は檻の中ー」
「えーと、そうか。うん、ちょっと待てよー、整理するからなー」
ジェムシは眉間の皺を抑えつつ頭をフル回転させる。自分だけではなく黒髪の少女も頭を抱えているとなれば情報の出先は一目瞭然だった。
不穏な空気を読んだツァツリーが間に入るも、ラエルはさめざめと首を振るしかできないようだ。
ジェムシは遠慮がちに、紫目の少女を見据える。
「あー、その。お二人さん、どういうことか説明してくれるよな?」
「……釣り場に居る全員を巻き込んでもいいなら……」
「いいんじゃないでしょうか。事情を話して来ますね」
「お、お願いしますツァツリーさん」
ああ、絶対怒られる……。
黒髪の少女が心底不安げにつぶやいたのを、立ち耳の獣人はパチクリと目を瞬いて眺め、手袋の革で顔を洗った。




