248枚目 「往訪」
バクハイムを出発して四日目の朝。
洞窟を抜けた先の崖から、一行は樹冠の境目に縄梯子を下ろした。
降りてみれば、蔦で編まれたような隘路が出迎える。
先導する蝙蝠を追って進むと、ある地点を境に視界は開け――最初に視界に入ったのは、黒い木肌で作られた家屋の屋根だった。
木々に囲まれた気持ちばかりの広場には家が三軒あるだけで、他には何もなかった。
村の奥へ続くだろう小道の痕跡はあるが、道の原型をとどめないほど荒れている。
「ここが……骨守の本村……」
潮風と共に、草木を生のまま煮つめたような青臭さが鼻を掠める。
ノワールは眉間に皺を寄せるとラエルの腕に着地して、そのまま丸くなった。
「しゅるるるる、崇められるほど聖地っぽくはねぇし。活気もねぇな」
「活気以前の問題だろ。家はあるみたいだけど、誰も住んでないみたいだし」
狭い敷地に建てられた三件の木造建築をそれぞれ調べたが、いずれも空き家らしい。三軒とも、家具に埃が積もるばかりで人の気配はなかった。
長い間使われていないらしい農具は錆び、雨どいには葉がつまり、花壇の土は干からびて、腐ることもできなかった茎と根がそのままになっている。
ハーミットは周囲に気配がないことを確認して、グリッタとキーナを手招きした。
「この家には寝台があるんだけど、使わせてもらう前に一度室内を調べたいんだ。ノワールはラエルたちと待機。二人には力を貸して欲しい」
「え、僕たち?」
「俺は第三大陸の文化に精通していないからね。地域独特の防犯トラップとかあったら対処に困るし、サンゲイザーはその辺慣れていそうだけど、小回りは効かないだろう?」
「……なるほど。そういうことなら力になれそうだ」
グリッタと共に、一番近い住居へと歩いていくキーナ。
ラエルはノワールを腕にしたまま眉をひそめた。
疑問を呈そうとしたところを、サンゲイザーに呼び止められる。
「しゅるるる、気長にいこうぜ。とはいえ、アイツも内心冷静じゃあないだろうがなぁ」
「分かってるわよ……それにしても、凄い匂いね」
「匂い? あー、この青臭いやつか」
「ええ。獣避けだと思うのだけど……ノワールちゃんが顔をしかめたまま固まってしまって」
腕の中に抱えた伝書蝙蝠は縮こまって動かない。獣にはかなりの苦痛らしい。
「ノワールちゃん。昨日もこうだったの?」
『んなわけないです』
「そうなのね。……村の外側からは全然気づかなかったから、魔術陣とかを使って内側に撒いているのかも知れないわ」
「伝書蝙蝠が村に忍び込んだのを見て。昨日今日で獣避けをした者がいるということですか?」
「しゅるるる。そうなるなぁ?」
「……」
人の気配がせずとも、抜け殻のようなこの村にも誰かが住んでいるということだ。
件の信者たちか。先に行ったという衛兵か。
ラエルは、いつの間にか握り締めていた手を緩める。
水色の手袋の内側は汗でじっとりと濡れていた。
「……まずは、レーテさんの安全を確保しなくちゃいけないわ」
言いながら顔を上げて、気を紛らわせる為にハーミットの元へ駆けて行くラエル。黒髪がたなびく背中を見て、白魔術士と蜥蜴の獣人はゆっくりとその後を追いかけた。
ハーミットが目をつけた空き家に、トラップはなかったらしい。
埃を取って換気をし、寝袋を敷き詰めたベッドにレーテを横たえる。ツァツリーとキーナ、グリッタの三人を残して、残りの三人と一匹は黒い家屋を後にした。
ラエルとハーミットとサンゲイザーは、ノワールのナビを元に村の探索を進めることになった。鼻が曲がりながらも仕事を完遂しようと、伝書蝙蝠の案内は続く。
『この集落では区画ごとに小さなコミュニティを形成していたみたいです。この先のものを含めて、五カ所ほど似たような立地条件の住居群があることを確認済みです』
「五カ所もあるなら、一軒ぐらいは人が住んでいそうなものだけれど……」
「やっぱり、人気はないね」
「……ええ」
ラエルは俯きながら相槌をうつ。道中の川にかけられた小さな橋が、そもそも多くの人々を受け入れられる場所ではなかっただろうことを物語っていた。
人気のない村を歩いて進むこと半時間。
五カ所目の住居群を抜けると、話に聞いていた衛兵の服が見つかった。
昨日の今日で地面に落ちているが、名称や所属を示す刺繍は鋭利なもので切り裂かれていて読めない――しかしハーミットは一人頷く。どうやら服の持ち主に心当たりがあったらしい。
「ラエルも会ったことはあるよ」
「えっ………………と……」
「サンドクォーツクで手紙運びの依頼を受けただろう。あの時に対応してくれた衛兵さんが、この服の持ち主。本人のカフスブローチがそのままだ――けど、どうしてここに居るんだろう」
「そ、うなの」
見事に忘れている。というか、一度会った程度の相手の顔を覚えているはずもない。
ラエルは視線を逸らし、先へ行った蝙蝠を追いかけた。
「しゅるるる! 他人の人相を覚えるのってムズいよなぁ、分かるぜ。獣人以外の種族は骨格が似たり寄ったりだもんなぁ!」
「そうかなぁ。俺だって獣人の国でサンゲイザーに逃げられたら見つけられる自信がないよ」
蜥蜴と針鼠はニコニコとしながら言う。
この場で喧嘩が始まりそうに思えたが、そういう気はないらしい。が、言葉の刃がちらつくような会話をされるのは困る。仲が良いのか悪いのかはっきりして欲しいものだった。
ノワールは剣呑な視線を二人に飛ばし、枝のひとつに足をかける。
『記憶力の優劣は大抵、興味の有無で決まるものです。針鼠はああ見えてずば抜けてるですから、ラエルは気にしなくていいです』
「……」
『ラエル?』
「……ええ。スカリィさんが言っていた『骨守』が船都市の衛兵さんだったとしても、私がしたいことは変わらないわ」
変わらない。と、ラエルは繰り返して口を閉じる。
サンドクォーツク、天幕市場、イシクブール。
これだけ第三大陸を探ってきたにもかかわらず、肝心の信者たちの気配がない。
情報収集に長けたノワールやハーミットですら彼らと接触はしていないのは不思議を越えて異常のようにも思うし――それに情報を辿れば、渥地の酸土がラエルを砂漠から連れ出し始めた時点から、ラエルは信者らしい信者と顔を合わせていないことになるのだ。
(どうして、そんなことを思い出すんだろう。私は、正しいことを――正しくないことを。しようと、してるだけ……よね?)
少なくとも、親を連れ去られたなら助けたいと思うだろう。
こちらを酷い目に遭わせた相手は同じように害したいと思うだろう。
目には目を。歯には歯を。
そうして気を晴らしたら、安全な場所で、昔と変わらず生活できたらと。願っている。
(この感情も、間違っているの?)
『ここが問題の地点です』
ラエルは蝙蝠の言葉に顔を上げる。
これまで見たものより、多少大きい橋が池にかけられていた。中央の浮島を介して渡った先には、石の壁がある。武骨な灰色の石壁に、ぽっかりと穴があけられている。
入り口近くまで寄ってみれば、これもまた手彫りの洞窟だった。
事前の報告通り、周囲には魔法陣を刻んでいたらしい土壁が崩れて転がっている。
洞窟の内側に破片が散っていることを考えると、外部からこじ開けでもしたのだろうか。
蜥蜴の獣人は槍を手にすると肩に置き、黄金の瞳を細めた。
「オレはここで待っていようか? 邪魔されたくねぇんだろ」
悩んだ針鼠に、ラエルは首を振る。
「捕まった人を盾に何かを要求されたら困るもの。戦力は多い方がいいわ」
「……そうだね」
「くく。すっかりやる気だな」
「ええ。咄嗟に動けた方がいいでしょう?」
「いいねぇ。用意周到の心構えっつーのは悪くない」
サンゲイザーは裂けた口を歪めると、自ら先行して穴に潜っていく。
ラエルとハーミットは顔を見合わせ、蝙蝠と共に後を追った。
洞窟といっても大岩をくり抜いたような造りで、内側はさほど湿気が溜まっていなかった。徐々に濃くなる魔力も、バクハイムの地下で体験したものには遠く及ばない。サンゲイザーもノワールも、この程度ならどうってこともないらしい。
罠も、仕掛けも、扉もない。
崩落を防ぐための木枠だけが均等に設置されている。
ただただ真っ直ぐな通路を行くと、外からは気づかなかった柔らかな明かりが目に入る。
そうして村へ足を踏み入れたときと同じく――急に通路が途切れ、目の前が開けた。
「……」
「……」
「……」
『……』
四者四様に、声が出なかった。
八方の壁にはカンテラが下がり、中央にはポツリと祭壇があった。
橙色に照らされたそこは、何とも分からない液体で湿っている。
ぽちゃりぽちゃりと、嫌な音がして、それを滴らせているものが天井にある。
まるで巨大な卵のような。或いは巣のような。
人の骨をかき集めたような白さで、その形は胸骨のようにも見えて。
それが二枚貝が蓋を閉じるように、隙間なくかみ合っていた。
閉じた隙間から、溢れて零れる。何とも分からない。何か。
人の気配がしないとか、例の信者が襲ってこないかとか、そんなことを考える余裕すら与えられなかった。ラエルはただ、その卵とも巣とも形容しがたいものから目が離せずに――本能的に、一歩後ろに下がろうとしてしまった。
重心が崩れる。足が擦れる。石ころを踏みつける。
ぱきっ。
「っ!!」
「え」
壁がばらばらと崩れ出したのはその時で――いや、正確に言うなら。壁だと思っていた黒いものが雪崩れるように落ちてきたのが、その時だった。
ラエルの腕を引いたハーミットは、退路があった場所を眺めることしかできない。
胸の無い虫。腕が四本、足が四本、計四対の細い脚。はちきれんばかりに膨らんだ腹。揺れる牙。八つの目。呼吸の度に横に開かれる顎。
……蟲である。壁一面を覆うような巨蟲の群れ!!
ばきばき、みちみち、と音を立てながら道を塞ぐ蟲にサンゲイザーが槍を振るうも弾かれた。艶と光るそれを見て、蜥蜴の獣人は引きつった笑みを浮かべる。
「……!? んだこれ見たことねぇぞ第三の固有種か!?」
「報告にはないよ。本村もバクハイムも含めて最近は初耳なことが多すぎるけどね!!」
「頼りになんねぇな魔導王国の情報網ってのは!!」
「それはごもっとも――って!?」
針鼠は蜥蜴の獣人の顔を伏せさせる。遅れて詠唱が聞こえるなど、久しい感覚だった。
「――『霹靂』!!!!!」
怒声と同時に水色の手袋が弾けるような閃光を放つ。
瞬きの間に、轟音と共に閉所を雷が吹き荒れる――嵐のような魔術の使い方だ。壁に貼り付いていた蜘蛛は腹を貫かれると潰れて、ばらばらと下に山を作る。時折動いてはミチミチ音を立てているが、蟲の身体はじゅくりじゅくりと青い煙を吹き出しながら、傷痕を塞いでいるようだった。
ふら、と倒れかけた身体を持ち直し、切れたリリアンも解けた髪も気にすることなくラエルが顔を上げる。
力任せに魔術を放ったからか、以前塞いだ傷痕が開いた音がした。
「ラエル……!?」
「やっぱり。それが本体なのね」
ラエルは呟く。紫目が爛々と光を放つ。
ハーミットには少女に何が見えているのか分からなかった。ただ、視線の先にあるものが何なのかは理解できる。
「ちょ、待って。体制を立て直してから対処すべきだ。三人の手に負えるものじゃ」
「この白い塊が、ここに居る蟲と接続されていて……」
「っ、駄目か、聞いてない!! サンゲイザー、退路の確保を頼む。ノワール!! 外の全員に状況報告と退避指示!!」
『御意!』
ラエルが撃ち落とした蟲の山を越え、新たな蜘蛛が道を塞ぐ直前で蝙蝠が通り抜ける。
蜥蜴の獣人は切り裂かれた蟲の傷痕に槍を差し込むと、零れた体液を中心に凍らせ、蹴り砕いた。
「オレらはどうするよ!!」
「決まっているだろう、引き摺ってでも彼女を連れて脱出する!!」
「そりゃあ、骨が折れそうだなぁ――!!」
蟲で塞がりかけた壁を凍らせては蹴りつける。
サンゲイザーは槍を解き、素手で殴る方法へ切り替えた。
針鼠は走る。走るが、目の前に蟲が落ちて邪魔をする。黒髪の少女との距離は開く一方だった。
まるで、ラエルの行く道を阻ませないかのような。
(――なんだ、この違和感は)
例えば虫に知性があったとして、あからさまに大切なものを壊されそうになっているのに守らないということはないだろう。
卵にせよ、巣にせよ、群れにせよ。傷つけられたら相応に報復するはずだ。
一方ラエルは『霹靂』で蟲を焼き払ったにも拘らず、周囲には蟲が寄りついていない。恐怖や忌避から回避しているのではなく、避けているようにすら見える。
竜骨を洗う蟲。山脈を守る虫。
そもそも山脈を守るとは、どういうことを指していたのだろう。
(彼らは竜の尾骨を守るために採掘をしたというが、同時に人里を守るため聖樹を許容した……許容、した? そもそもどうして許容できたんだ? 聖樹の成長は「魔力の吸い上げ」だ。周辺の豊かさと引き換えになるはずなのに)
どうしてこれまで、目立った被害が出なかったのだろうか。
逆に「最近まではバランスが取れていた」ということなら?
ハーミットは襲って来る蜘蛛の脚を捩じり折り、潰れた蟲を視界に入れる。
再生する蟲は、何を力の源にしているだろうか。
回復術やそれに足る治癒力を発揮する為には、魔力が必要不可欠だ。
その供給源は人から、だろうか。土地から、だろうか。
まさか。崇める山脈の優先順位こそ一番低いということか?
(もし、そうだとしたら。ここの蟲を殺してはいけない。この村に閉じ込めてでも生きながらえてもらわなければ困ったはずだ――この村に剪定士が居ないなら尚更)
けれど。そこでまた一つ疑問が生まれる。
何故虫たちは外へ逃げ出さないのだろう。この土地を喰らい続ける内に、外にも大きな餌があると気づくはずだ。近づけないほどだった聖樹の剪定が済んだ今なら生息域を広げることは容易いはずだ。誰かが結界を解いたにも拘らず、なぜそれをしなかった? しない理由でもあるのか?
したくない理由があるのか?
本能に逆らって、この地に留まりたい理由が……できない理由が?
そうして、現実に引き戻される。
最初の疑問に、引き戻される。
――何故。あれだけ殺気を放つラエルのことを敵視しない。
パズルのピースを嵌めるように、嫌な想像が積み重なっていく。
ハーミットの推理が正しいなら、これは想定した最悪を軽々と越える状況だ。
そしてそれは、ラエル・イゥルポテーにとっても。
「――っ、ぁあああああ!!」
蜘蛛を跳ねのけて、蟲の足を引き千切って前へ進む。
金属製の鎧に身を包んだような蟲を、押し返して前へ進む。
……が。尚、少年の手は届かない。あと少し、祭壇への距離が詰められない。
背中の針に手をかけ、躊躇う。
狙いが定まらない手で放つ針が、彼女のどこを貫くか予測できなかった。
蟲の足に絡まれ、引き摺り倒される。小柄な体を四方から押さえつけられる。
突き立てようと振り下ろされた牙をすんでのところで回避して、革靴の底で蹴り飛ばした。
こうなるともう、届けられるものはひとつしかない。
「――ラエル!! 戻れ!! それ自体に脅威はない!!」
「だから引け」と。ハーミットはそれしか口にできなかった。
ラエルは足を止める。
そこは既に巨大な巣の下、捧げものを置く祭壇の中央だった。
まだ新しい靴が、粘性のある蟲の汁で汚れていく。
「……脅威はない。って。貴方も彼も襲われているのに、それはないんじゃないの?」
呟く言葉に覇気はない。ただ、真っ直ぐに塊の境目を狙う。
彼女の目には糸が見えていた。洞窟中に張り巡らされた細い魔力の糸。そのひとつひとつが蟲の頭に繋がっている。黒魔術士は、その目で見てしまったのだ。
糸の中心にある「これ」が蜘蛛に関係するなら。やるべきことは決まっている。
(本当は、私たちを騙した信者に怒りをぶつけたかったけれど。ずっと怒り続けるのも、疲れるものなのね)
多分、これも間違っているのだろう。今まで通り。
(ごめんなさい。ハーミット)
詠唱と同時に、閃光がほとばしる。
彼女にしては珍しく暴発せず――壊すと決めたものを貫いた。
ぐらりと揺れた巣は、その後元の位置に戻る。
揺れた程度で落ちることなく、開いた穴から何かを溢した。
「…………!!」
「っまじか、つぅかあの威力だと――あ?」
真下に居たラエルは数歩後退して、返り血のように飛び散った液に足を滑らせた。
咄嗟に立ち上がろうとして失敗する。指先までがビリビリと感電したようになっていた。
暴発はせずとも、魔力濃度の高いこの場所で高威力の黒魔術を放った反動である。
「ぎちゃり」と、頭上から音がした。
「……」
全身の血の気が引いていく。ラエルはそこでようやく、手を出してはいけないものに障ったと分かった。
きしきしきしきしきし……きしきしきしきしきしきし……。
固く閉じられていた巣の蓋が開かれる。少しでも穴が空けばあっという間だった。
爪が這い出る。
黒曜馬の角より輝き、獣人のそれよりも薄い刃物に似た黒い爪だ。
牙が現れる。
腕に抱く程の大きさがあるそれは、むき出しにした針を隠さない。
頭が抜け出る。
八つの巨大な瞳は、ひとつひとつが人の頭ほどの大きさだった。
腹が零れる。
重厚で精密な鎧に似たそれが、折り重なってガチガチ音を立てながら、やがて一つの影になって、ラエルの目の前に飛び降りた。
着地の音は案外静かだった……そんなものを、聞く余裕すらなかった。
背中に貼り付いた鎧が蠢く。羽がわりの黒い棘が屹立する。
やがて起床したそれには穴が空いていた。ラエルが放った『霹靂』が穿ったのだろう。ひびが入ったそこから、バリバリと皮が剥がれるように皮が落ちていく。
蜘蛛の後頭部に角のように生えたそれから、黒い鎧が剥がれる。
そうして何枚目かが祭壇に零れた頃に。内側から人の肌が見えた。
零れ。剥がれ。蟲の背で現れるヒトの形。
だが、ラエルは目を逸らせない。
見てはいけないと分かっていても、何があっても受け入れると決めていたばっかりに。
蜘蛛の後頭部に下半身を埋め、現れたのは女性の上半身だった。
顔を覆っていた鎧が剥がれ落ち――その瞬間。紫の瞳が溶けるほど涙に満ちた。
ボロボロと音もなく零れるそれが、頬を湿らせては祭壇を濡らす。
何とも分からない液を中和するように、滝のようなそれは止まらなかった。
静かな落涙は、次第に音を帯びる。
少女は、まず嗚咽を零したが。じきに、壊れたような笑い声へと変わった。
こんなのはありえない、こんなの、死んだ方がマシだと、叫声に換わって。
……ラエル・イゥルポテーは、やがて何も言わなくなった。
口を半開きにしたまま、ぼんやりと蟲を見上げたまま。
その場に座り込んだまま、動かなくなってしまった。
少女を見下ろし、人型がキシリと呻く。
蟲の爪が彼女の腹を貫いたのは、間もなくのことだ。
麦の村、バクハイム。一軒しかない宿屋の二階。
明かりを消し、カーテンを閉じ。ベッドを椅子がわりに本を読む男性がいる。
「……なぁ、カーリー。人とそれ以外との境目って何だと思う?」
床に座った男が居る。彼はここ最近、食事も碌に取らなかった。
大陸に落ちた際の会話が夢のようだと思うほどに。彼は兄の言葉に反応しない。
「人の形をしていれば人なのか? いいや。内側に魂がなければ意味が無い」
本を持った男が本を閉じる。
「人と同じような知性を持てば人なのか? いいや。それなら精霊や蟲だって人だろう」
本を持った男が指を折る。
「では、人の知性を持ちながら人でないように振る舞うのは? これは人だろうか」
本を持った男が足を組み直す。
「種族でも分けられるかもしれないな。けれどこれも違う。番って子を育めるなら、それは人同士で間違いないのだろう」
本を持った男が栞を差した頁を開き直す。
「なら、かつて人であったものはどうだろうか。意思疎通ができるにせよできないにせよ、人の形からかけ離れ、人の営みからかけ離れ、それでも生きる為にもがき続けた――本能を具現化したような生物は?」
本を持った男が頁をめくる手が止まった。
「……やはり、今は読めないのか」
気に食わない内容だったのかと思えば、それは白紙だった。
白紙の左端へ向かって、文字が消えていく。少し戻れば右端から文字が現れていくのだ。
栞は全く動かしていないのに、捲った頁の分だけ――本の中央まで栞が押し戻された。
「まったく、真面目なものが報われない世界だよ」
血のように赤い花を閉じ込めたそれを指にとって、男は三白眼を細めた。
「そう思わないか? 紫目の君」
黒い革表紙の本を閉じる。
最後に読んだ一文には、「母」の文字があった。
―― 5章(完) 6章へつづく。
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【お知らせ】
Planet_Ranaです。
強欲なる勇者の書をお読みいただき、ありがとうございます。
本作品は今週の投稿をもちまして「夏休み」に入ります。季節を先取りですね。
書き手の不眠がなかなかぶり返してきていることと、次章の制作に集中したいということが理由です。
しばし投稿をお休みしますが、作品制作は続けていきますので、ご安心ください。
詳しい更新再開の時期につきましては、活動報告を参照ください。
現時点では、8月ごろに戻ることを目標に制作を続けていく計画です。
改めて、この話まで読み進めて頂いた貴方に感謝を。
かき氷にシロップをたっぷりかけるなどしつつ、彼らの物語を心待ちにしていただけたら幸いです。
2022/06/12




