244枚目 「苔と氷と地底湖」
夢見は悪い方だ。疲れを自覚していないときほど酷い夢をみる傾向にある。
霧の中でかつての仲間の影がよぎる。
目に焼き付いた光と共に湖に落ちるを繰り返す。
今はどうなのかというと、見知らぬ水の中へぶくぶくと沈んでいるような気分だ。
身動きがとれないのでバタ足すらできず、ぐんぐん水面が遠くなる。
水に落ちる夢はよく見るが、錯覚を疑うほどに息が苦しいのは珍しいことだった。掻き毟ろうとした喉元は革のような材質に阻まれて届かない。どうやら夢の中までコートを着込んでいるらしい。我ながら生真面目な深層意識である。
水の中を魚が泳いでいく。ヒレを器用に操って上へ上へと昇っていく。
青いヒレ。白いヒレ。赤いヒレ。妙に刺々しいヒレをした奴も居る。
器用だな。綺麗だ。
……それにしても、何か重要な事を思い出しそびれているような気がする。
…………魚なんかよりも、もっとずっと、今の俺に必要なことが。
………………なんだっけな。
手放しかけた意識の裏側で、耳元に慣れた声が吹き込まれた気がした。
油混じりの血糊で紅をひくような。こびりついた記憶。
はーみっと。それでもあなたは、わたしがこわいのですね。
それでも。わたしたちはどうしようもなく、どうざいですよね?
……まさか。忘れてはいませんよね?
「――――――っ!!!!!!」
その顔が脳裏に浮かぶ前に左拳を背後に払おうとして、思い切り利き腕を岩に叩き付けた。骨に響く衝撃と拳を貫くような痛みとで、ようやく覚醒する。
一瞬でも意識を失っていた事実を認識して、全身から血の気が引いた。
自分の呼吸が浅い。
身体が冷えている。
指先の感覚はある。
敵意の気配はない。
……どうやら周囲に危険はないらしい。
一息ついて手袋を頭に当てると、濡れた髪が縫い目に絡む。
鼠顔を含め、装備が幾つか外されていると気づいたのはその時だった。首を振ると、壁の近くに置かれたカンテラに照らされた自分の荷物が見えた。少しでも乾かす為か、岩に黄土色のコートもかかっている。
そうして身体を起こすと――斜め前方の方で、できあいの材料で作った槍を構えた蜥蜴の獣人が、黄金の瞳をかっぴらいてこちらを警戒していた。
すぐ横で水が流れる音がする。鍾乳石から水が落ちた。
ハーミットが無言のまま琥珀の目を瞬かせると、サンゲイザーは気が抜けたのか溜め息をつく。手にしていた石の槍が「ばらばら」と岩肌を跳ねて散らばった。
「なかなか意識が戻らねぇから遂にくたばったかと思えばビビらせやがって……!!」
「ごめんごめん、夢見が悪かったんだ。できうる限り最速で目を覚ましたつもりなんだけど……けほっ――そうだ、ラエルたちは!?」
本村の防衛策なのか古典的な罠にかかり、何処かへ落とされたことだけは覚えているが――ハーミットにはそこから先の記憶がない。
向けられた琥珀の目に、サンゲイザーは舌打ちをしながら胡坐をかく。
「あの後、全員水の中に落ちたんだよ。どぼんってな」
「……高所からの着水、深さが十分な地底湖か何かに落ちて――俺は溺れたと」
「そうだ。よく分かってんじゃねぇか。ついでに分断されたぞ」
ま、残りの三人なら、どっかで水から上がった音が聞こえたがなぁ。
蜥蜴は言いながら、火の消えた松明をハーミットに手渡す。
どうやらサンゲイザーは火魔法が扱えないということらしい。かくいうハーミットも魔術が使えないので、いつものように魔石を取り出した。
赤々とした小さな石の粒を見た蜥蜴の顔は引きつったが、ここで二人涼しい洞窟の中で水濡れのままいるわけにもいかない。ハーミットは迷うことなく火をつける。
荷物から取り出した木片を積み、焚き木を作る。
灯りが要らないほど明るい水辺を少し歩くと、自分たちが落ちたという地底湖があった。
二人が辿り着いたこの場所は、落ちた地底湖の隅っこらしい。
見上げた天井には鍾乳石があちこち生えていて、自分たちが落ちてきただろう逆すり鉢状に凹んだ部分と、それを外光で照らす巨大な穴とがあいていた。穴の向こうには青空が見える。
遥か頭上にある鍾乳石から落ちる水滴が、目に入る距離で波紋を広げた。
「っつーか、静かに溺れてんじゃねぇよ。引き上げても無反応で滅茶苦茶焦ったんだぞ」
「泳げない人間が重りに引っ張られて沈んでいくのをどうにか出来るわけがないだろう?」
「泳げねぇのかよ!?」
「うん」
あぁでも、鍾乳洞になっている時点で中が空洞化してる可能性は考慮するべきだったか……と一人反省会を始めた針鼠に、蜥蜴はびきりと血管を鱗越しに浮かせる。
面を貸せとも言わないまま白パンのような頬を片手で鷲掴み、間髪入れず鱗肌のデコピンが少年の額へと打ち込まれた。
前触れもなく与えられた攻撃に少年の視界が白黒になる。
ハーミットは金の髪を振り乱して数歩後退し、尻から石の地面に着地した。
「い、痛いんだけど!?」
「『痛いんだけど』じゃあねぇんだよ……はぁ」
「?」
濡れ鼠状態の金髪少年に呆れの視線を注ぐと、蜥蜴は再び舌打ちした。
焚き木が弾ける音を聞きながら、身体を温める。
しばらく無言でいると、熱が通った口元に違和感を感じた。
恐らく目の前の蜥蜴が水を飲み込んだハーミットを吐かせたのだろう。ハーミットは鞄を開くと水筒を幾つか引っ張り出し、一つをサンゲイザーに渡す。
時折思い出したかのように舌を刺激する苦い酸味を洗い流し、飲み込む。
――吐き戻す。
そのまま慣れたようすで口を漱ぎ、飲み、もう一度吐いた。
(……本当ならあと数回は胃を洗っておきたいけど、資材にも限りがある。取り敢えず、できることはしたと考えておこうかな)
慣れた動作で口から指を引き抜いた金髪少年に対し、蜥蜴は怪訝な表情を向ける。
見ていて楽しいものではなかっただろうに。ハーミットはそう思いながら口元を拭った。
「しゅるるる。なんだ、酒はよく飲む方なのか?」
「は? あぁ……いや。毒とか盛られるのに慣れてるだけだ」
「うげぇ、面白くねぇ」
「面白い話ならあるぞ。痺れ毒と爛れ毒に危うく安寧草を処方しそうになった話とか」
「洒落にならねぇやつじゃねぇか」
ハーミットは笑いながら水を胃に落として、えづきを抑えつけながら焚き木の前へ戻った。
手脚の調子を確認するも、足から着水したにしては、お互いに目立った怪我はない。
蜥蜴の獣人である彼の身体が温まれば、すぐにでも移動が再開できそうだ。
ハーミットは気を失っていた間の状況についてサンゲイザーから話を聞きつつ、着ていた服をスペアと交換していく。
鞄から無限に取り出される黒のタートルネックに蜥蜴は微妙な顔をしたし、服の下にある傷痕を目撃した際には何故か頭を抱えてしまった。ハーミットにしてみれば何も特別なことは無いのだが、サンゲイザーにとっては何かがショックだったのだろう。
岩にかけられていた鼠頭とコートを手に取り、その重さに愕然とした。ああ。これは、簡単に浮きあがれないわけだと納得する。
水難訓練の要領で「暴れない」を咄嗟に選択したのはハーミット自身だが、浮力以上に装備が重ければ水へ沈むのが普通である。人間の浮力はそう強くない。
濡れた髪を適当に乾かして、鼠顔を被り、無言で外す。
どう誤魔化しても水に濡れた被り物で、男の汗が染み込んだ一品だった。
仕方がないのでコートと共に岩肌へ戻して焚き木に向き直る。乾いた服に着替えたことでいくらかましになったが、まだまだ身体が冷えたままだ。
サンゲイザーも胡坐をかいたまま水面を眺め、黄金の瞳を細いナイフのようにしていた。
火の暖かさが沁みたのか、刺々しい鱗をした尻尾が床を這う。
「……確認しておくけど、サンゲイザーはどこも怪我とかしてないんだよな?」
「オレはアンタらみたいに要らん隠し事はしねぇ主義なんだ。自覚してる範囲で異常はねぇよ」
「そうか。よかった」
「……」
「……」
「サンゲイザー。助けてくれてありがとう」
「……くはっ。罪人に感謝する役人がいるたぁ、世も変わったもんだなぁ」
蜥蜴は言って、焚き木に背を向けて転がると尻尾を丸くする。
「少し寝る」
「ああ」
金髪少年は頬に張りついた金糸を払うと、木片を投げ入れた。
身体が温まるころを見計らい、ハーミットとサンゲイザーは洞窟探索を再開した。
残りの三人と蝙蝠とに合流することが第一の目標。外へ出ることが第二の目標である。
地底湖を調べてみると水に流れがあると分かったので、サンゲイザーが作った氷の板を水に浮かべ、それを追いかけることになった。
ゆったりと流されていく氷を横目に、ハーミットは魔力可視光を壁にあてて発色を探すも空振りする。
天井に光を向けても先には闇しかない。
ハーミットの視界では、何かが潜んでいたところで気配以上に探れるものはなかった。
「落とし穴の前の通路には何も居なかったけど、中にはいろいろ居るね。苔は生えてるし、虫はいるし、小さいけど魚も泳いでるし……」
「まあこれだけ餌になるものがありゃあ、獣も魔獣も居るだろうなぁ」
カンテラを揺らしながら蜥蜴が言う。
「天井の気配とか、やっぱりそうだったりするのか?」
「あー、刺激を与えなきゃ降っては来ねぇだろうよ」
「……降って来る……って……」
「なんだ。見えてねぇのか」
「ああ。俺には真っ暗にしか見えない」
「人族は難儀な目をしてるよなぁ。アレだ、じめじめしたところによく居る軟体生物」
サンゲイザーは指先で横に歪んだ円を描く。ハーミットは何となく、それが何を指しているのかを理解したようだ。
「宿つき?」
「いや。オレの目には宿なしに見えるが」
「あ。宿なしか……それなら、降られても頭蓋骨割られる心配はないか」
「……」
「サンゲイザー?」
「いやぁ? まあ、命にかかわることじゃねぇから気にするな」
蜥蜴の獣人は言って、金髪少年へ先へ進むよう促す。
あれこれ話す間に、水の上を滑る氷が奥の方まで行ってしまっていたようだ。
そうして氷の板を追いかけて進むこと数時間。ほどなくして小さな広場に出た。
右手と正面の壁に穴があり、それぞれに水の流れが繋がっている。
しかし氷は広場中央の水たまりへ辿り着くと、くるくると回りながら下へ沈んで行った。
「……この水たまり、底が無いな?」
「しゅるるる。朗報だぞ針鼠もどき、流れが全部この水たまりに集中してやがる」
「うわぁ凄ぇ嫌な朗報」
底のない水たまりが流れの終着点である以上、ここからは氷を流して道を探る方法が使えない。
「後は風を読むなり勘なり運なり、だなぁ?」
「俺、そういう運は悪いんだよなぁ」
「奇遇だなぁ。オレもだ」
「俺、右だと思うんだけど……」
「しゅるるるる。オレは左だと思うが?」
「……」
「……」
ハーミットとサンゲイザーは、お互い笑顔のまま顔を見合わせる。
これ以上の分断は良策ではない。なら、どちらかの道を選ばねばならないが――。
丁度、遠くから足音のようなものが聞こえた。
腰のナイフへと手が伸びていた二人は、野蛮な思考を引っ込めると肩をすくめる。
「ラエルたちかな」
「いや、歩幅が合わんだろ」
「……そうか。二人?」
「ああ、二人だ」
ハーミットは生乾きの鼠顔とコートに腕を通し、サンゲイザーは詠唱と共に槍を作り出す。
苔むした岩肌を蹴る足音。
暗闇から最初に飛び出して来たのは、黒手袋に不死鳥の意匠だった。




