218枚目 「浮彫アンフォアシーン」
たまには景色の良い場所で昼食をするのもいいものだ。
林の木陰に身を寄せて、白い枝と称されるパンをナイフで切り分ける。作り置きのディップソースと果肉入りジャムとをそれぞれ用意して。黒髪の少女は水筒の中身を口に含んだ。
ラエル・イゥルポテーには昼食を摂る習慣がない。その代わり、朝と夜にそれなりの量を食べている。エイブソルは目を丸くしたが、何度も食事を共にしているハーミットやレーテに驚く気配はない。村長も場の空気を読み、何も言わないことに決めたようだった。
ソースを絡めたパンを飲み込んで、顎元の髭を弄る。
「しかし、何故にこのような場所に? ここは戦時に使われていた物見台だが、道中は足を踏み外せば崖下に転落しかねない悪路。誰か誘導係がいたのですかな?」
エイブソルの疑心は尤もである。ラエルはハーミットに目配せをして、まずは「真実」を口にしてみることにした。内容が不味ければ彼がはっ倒してくれるだろうし――彼らが返す言葉に関しては、おおよその予測ができている。
「ええ。親切な旅人の絵描きに案内してもらったの。赤紫の髪に細い目をした魔族の人……彼がどのような経緯でこの村に来たのか、村長さんは知っているかしら」
「旅人? バクハイムによそ者が住み着くような場所はないぞ。町と往復する馬車の乗り手を休ませる宿屋はあるが、観光客が来られるような場所ではないとおぬしらも知っておろう」
エイブソルはカラカラと笑ってパンを口に放り込む。
どうやら、隠し味に砂糖を使っているディップソースが気に入ったようだ。
揺れることのない青い瞳をじっと見つめ、ハーミットが次の言葉を紡ぐ。
「ここ数か月の間、外から来てこの村に居ついた人はいないんですか?」
「ああそうだ……だがまあ、絵を描くというならリグだろうかの。あの兄弟は揃って魔術士かぶれの服を着るのがブームらしい。旅人と見間違うのも無理がないだろうさ」
ラエルとハーミットは顔を見合わせる。
後半は観察に回っていた少女だが、エイブソルが嘘の証言をしている様子はない――認知が歪んでいることに、気がついていないらしい。
つまり、根回しは既に済んだ後というわけである。
この場で「赤紫の髪に細目の魔族で、指名手配犯で絵描きを名乗る変態」の話をしたところで、エイブソルの認識を覆すのは難しいだろう。
隣で、「うんうん、彼は少し変わっているからね」と呟くレーテも同様だ。
ラエルはニコニコとしながらメモ帳にペンを滑らせる。「某絵描きがバクハイムに滞在中、住民に認識阻害魔術を使用、偽名を名乗っている可能性あり」と。
ラエル自身も、絵描きの顔や容姿をいつまで憶えていられるか分からない。せめてもの備忘録である。
頁をめくり、男から忠告するように残された言葉を書き出して、パンを頬張る針鼠に手渡す。
(私にはさっぱりだし。何か心当たりがあるといいのだけど)
ハーミットはそれを黙読すると、ジャムをのせたパンを口に銜え直して自分のペンを取り加筆する。メモ帳はすぐにラエルの手元へ戻って来た。
『魔力だまりが発生した原因は分かっているんだ。後で話すよ』
黒髪の少女は飲み物を吹き出した。
レーテとエイブソルに農具の調達を頼み、ハーミットとラエルは最初の石板がある場所まで戻って来た。熟睡している蝙蝠は現在、針鼠の腕の中に居る。
針鼠は辺りを行ったり来たりしながら石板の裏に回って、黒髪の少女を手招きした。
ラエルは複雑な心境のまま、先程のメモについて尋ねることにした。
「心当たり」ならともかく「分かっている」ときた。
眉間に皺を寄せながら青い麦穂を観察しただけだというのに、他に何か情報があったのだろうか?
「ハーミット。もしかして貴方、村の麦が変色しているのを見たときからおかしいって思ってたの?」
「……いや、それより前だよ。ラエルがストレンさんと靴を買いに出かけた日があっただろう、あの時、俺はアステルさんに会っていたんだけどさ。彼女が気になることを言っていてね」
アステル曰く、庭のアプルの木には年中実が成るとのこと。
「年中、って」
「そう。例外としてそんなことが実現しているのは第二大陸のとある樹海ぐらいなんだ。まぁ、あそこの魔力だまりはここの比じゃあないんだけど……」
これ見てよ。と、ハーミットが言って場所を開ける。
ラエルが石板の裏を覗き込む。中央には丸く開いた穴と、円盤の板でも嵌め込めそうなくぼみがあり、地面にはその一片にあたるだろう扇形の石片が転がっている。
手のひらほどの破片は、手にしてみればそれなりに重量がある。
しかし、施されたレリーフの全体像はラエルには分からなかった。ぐにゃぐにゃと波を打つ帯が数本描かれていることは理解できるが……それだけだ。
黒髪の少女はしばらく石の欠片を眺め、石板の裏のくぼみとを交互に見る。
僅かに残った石の曲線が、円の内側に嵌るように見えなくもない。
「……単純な絡繰り仕掛け、って。そういうこと?」
「……俺たちの勘が間違っていなければ、多分そう」
ラエルたちは辺りの地面を見る。土に埋まった灰色はうんざりするほどの量がある。物見台にも似たような石片があったし、中にはダミーも混ざっているかもしれない。
「魔術でこの一帯を掘り起こした方が早いんじゃない?」
「それができたら苦労はしないんだけどね。リスクが大きすぎるから手作業だよ」
「土を掘り返す作業にリスクがあるの?」
魔術が苦手なラエルに限った話ならともかく、あえて手作業にこだわる理由が分からない。
眉を寄せた少女の顔を見上げて、鼠顔は申し訳なさそうに笑う。
「勿論、手作業でもリスクがないわけじゃあないけど、念には念を入れてね。異常なほどに白い根っこを見かけたら手を引いて報告すること。いいね」
「それは、見たら分かるものなの」
「うん、嫌でも分かる。光ってるから」
「光る?」
「光る」
ハーミットは言葉を繰り返して、一番手近にあった石片の発掘を開始したようだ。ナイフを鞘に納めたままひっくり返し、柄の角でゴリゴリと掘り進める。
「ねぇ、ハーミット」
「うん?」
「麦の変質って、本当に高魔力地帯化が原因なの?」
ラエルの問いに、針鼠の口が止まる。
開いた襟の内側から弧を描いた口元が見えた。
「……正確には、内側と外側から十分な魔力圧がかかることが原因、だね」
「貴方がそう言うなら、前例があるのね」
「ああ。滅びる前のシンビオージ周辺がそうだったらしい」
「……あの湖の周辺が?」
「そう。あの丘陵地帯は、触れただけで肌を切り裂く剣の草原だった。海風と緑青で鮮やかに染まった丘陵を見て、それが変質したものだと気づく住民はいなかった――何世代も前からそういうものだからって、誰も深く考えなかったんだよ」
ハーミットは、掘り出した石片の土を払い落とした。
南部の砂漠由来の土は脆く、危惧していたよりは作業が進みそうだと安心しつつ振り向けば、少女は少年のことを心配そうに見つめている。
ハーミットは石片を持ったまま鼠顔をずらす。硝子玉越しだろうが裸眼だろうが、見える景色に変わりはない。どうやら見間違いではないらしい、と琥珀の瞳を瞬かせた。
ラエルは直ぐに視線を外した。
感情欠損を示す紫の目が、黒い睫毛の影をはらむ。
「昨日、墓地と湖に行ったじゃない。そのことと何か関係があるの? 戦時中にシンビオージで起きた災害と、この村で起きている異変に関連があるの?」
「……」
「説明を後回しにするのは貴方の悪い癖よ。ハーミット」
「……」
(それでもきっと、彼女は追及してこない)
針鼠の少年は冷たい思考の中、そう推測する。どれだけ彼が隠し事をしようと、ラエルはそのことを咎めこそすれ「教えて欲しい」とは滅多に口にしない。
ハーミット・ヘッジホッグが一言「話したくない」と口にしたなら、彼女は歯噛みしつつも引き下がるだろう。
魔導王国の意匠を背負っているとはいえ、彼女が監視対象である事実は変わらない。
ハーミットが彼女を監視している事実も、変わらない。
「……知って、どうするつもりなんだ?」
だから、少年は選択肢を用意した。
「ここで起きているだろう事実を知って、君が静観していられるとは思わない」
ラエルが追いかけている両親を始めとして、失踪した者たちの生存率は絶望的だ。しかも、時間を引き延ばすほどに無事である可能性は低くなる。
そんな状況でも。この村が陥っている状況を知れば、きっと無視できなくなる。
だから、麦の青き螺鈿化の原因を突き止めるより、優先して――高魔力地帯化した洞窟を無理矢理にこじ開けてでも骨守の本村へ向かうべきなのかも知れないとすら、ハーミットは考えていた。
しかし、ラエルはハーミットの言葉を聞いて紫目を丸くする。
「静観って。貴方の思考回路にその二文字があることが驚きね」
「えっ、俺?」
「そうよ。だって貴方、どうにかしようとするじゃない」
ラエルは言って、ハーミットの前に両膝をつく。
土を掘り返すのに夢中で地べたに座り込んでいた少年と、おおよそ同じ目線の高さになる。
「確かに私は父さんと母さんを一刻も早く探したいけれど、貴方がそわそわしてるのを見るのは面白くないわ。気づかない内に無理をされるのはもっと嫌だ」
「……」
「仮に私が強行突破を提案したとしても、ハーミットはこの地域を見捨てる気にならないでしょう。そんな風に言われなくても、貴方がこの村を案じていることぐらい分かっているつもりだし――全部拾うくらい無理してでも頑張るのが、貴方なりの最善じゃあないの?」
ハーミットの手にある欠片を手にすると、ラエルはその表面をなぞる。
彼女にとって、レリーフの欠片が何を表しているかなど、どうでもよかった。
重要なのは、この土地の問題についてあの男が言及したことだ。
成り行きとはいえ、針鼠の少年があの男の進言を疑うことなく飲みこんだことだ。
それらを駆使してまで解決しなければならない「何か」がこの村にはある、ということだ。
「この石板を揃えることが貴方が危惧する事態への対策になるなら、私は仕事をするだけよ。原因への興味は二の次でいい。だって、手を止めている時間が勿体無いじゃない」
だから、さっさと解決して「本題」に取り掛かれるようにするわよ。
ラエルは言って、太ももからナイフを鞘ごと引き抜いた。
ハーミットは一言多く物を言うこともなく、口を噤んだ。
その後、レーテらが合流してもハーミットが麦の変質について言及することはなかった。
黙々と作業を続け、日が落ちる前には破片を揃え。完成した円盤を土魔術で修復し、石碑の裏に嵌め込む――そうなれば、嫌でも理解できるだろうと考えてのことだったらしい。
カンテラの橙に照らし出され、影を落とすのは太い幹。
明らかになったレリーフの図柄に、その場にいた全員が閉口する。
天へ伸びた腕、地に落ちた根。
縋りつく蔦、そして埋まらなかった穴が一つ。
それは竜骨も蟲も模らない、聖樹の意匠だった。




