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212枚目 「シンビオージ湖と針鼠」


 しばらく一人で湖を眺めていたいというハーミットの申し出もあって、ラエルとグリッタは昼食の調達をかねて市場を巡ることになった。


 黒髪を束ねた少女の斜め後ろに付き添って、商人は市場をぐるぐると連れ回される。


 彼女の周囲を常にガードしていたあの針鼠が、一時とはいえ「離れる」と口にしたことも意外だが……それを何の疑問も無く受け入れたラエルの反応も気になっていた。


 ラエルは目に入る店に突撃しては何かを購入して出てくる。

 肉屋で獣肉を買い、魚屋で牙魚とダシ貝を買い、野菜屋で根菜を買い。


 昼食の買い出しというよりは、旅人がやる食料調達のように思えた。


「なあ嬢ちゃんよ。そんなに買ってどうするんだ」

「どうするって。ポフに戻ったらちゃんと下処理するわよ?」

「そうじゃなくてだな……ほら、蚤の市ももう終わるだろう。その後もお前さんたちはイシクブールに留まろうっていうのか?」


 グリッタは、ラエルたちの目的をイシクブールの情勢調査だと聞いている。


 蚤の市の一件があったとはいえ、事件の前と後では町の人から貰える情報にも幅が出るだろう。故にカフス売りの商人は、二人がもう一度聞き取りを行うものだと考えていたのだ。


 一方のラエルは紫目をぱちりと瞬かせて、隣に立つ商人が何故こうも慌てているのかを推測する。

 グリッタの方こそイシクブールを発つと言っていたが、あの町で襲われた一件については片がついたのだろうか。ハーミットが何も言わないので、とっくに解決しているんだろうけど、と。


 黒髪の少女は少し考えて、飲み物を調達することにした。


 店の前で立ち話をするわけにはいかないし、通路は人の通りが多すぎる――と、ブロック分けされた市場のあちらこちらに用意された食事用スペースが視界に入る。


 休憩を挟むという名目で腰を下ろし、ラエルは口を開いた。


「治療もそうだけれど、まだ仕事が終わっていないのよ」

「……成程、蚤の市の事後処理か」

「ええ」


 情勢調査についての資料は既にまとめられているが、蚤の市初日に起きた事件とその被害状況の把握、損害賠償と補償を何処が担うのか、賊たちの処分すら決まっていない。


 賊たちを利用した存在を追うのも、骨守が抱える事情を解決するのも、アダンソンの本拠地を探すのも。大枠に「事後処理」と言い張って間違いないだろう。


(それにしても、嘘を吐かずに事実を隠す方法ばかり上達している気がするわ……)


 果実水を口に含む。成程、味がしないとはこのような状況下で起こるのか。

 その後はだんまりになったラエルに、グリッタは苦笑する。


「へぇ。それでいて、旅支度か?」

「……」


 ラエルは、音を立てて果実水を飲みこんだことを後悔した。


 グリッタはカマをかけたに決まっているのだ。

 だが、ラエルはハーミットのように場数を踏んできたわけではない。


 挙動が正直な彼女が人を思うように動かすなど、夢のまた夢だった。


「どうなのさ、その辺り。お兄さんに黙ってこそこそしてるみたいじゃないか? うん? お前さんたち、病み上がりじゃあなかったっけかぁ?」

「う、嘘は吐いていないわ……イシクブールに長期滞在する理由ができたのも本当よ」

「ふぅん? 旅支度してるのにか」

「そうよ。どうしても知りたいのなら、ハーミットか町長さんに聞くといいわ。私からは何も。随分と自由にさせて貰っている自覚はあるけれど、監視されている立場だし」

「ほう」

「本当のことよ?」


 紫目は果実水を飲み干した。カフス売りの商人も同じようにして、二人とも土の器を砕いて捨てる。魔術で作られた土器は、形を奪われて土へと還った。


 その後も、ラエルは装身具や魔法具の店には目もくれず素通りする。

 黒髪を揺らす小さな背を、カフス売りの男は追いかけ続ける。


「嬢ちゃん、何か欲しいものとかないのか?」

「これといって無いわね。でもそうね、昼食を買いに来たのに調達していなかったら怒られそうだし、美味しい軽食があれば教えて欲しいのだけど」


 振り向きざまにそう言って、ラエル・イゥルポテーはにこりと笑う。


 浪費癖もなく、装飾品に目を眩ませることもない。魔法具には興味を示しているようだが、それを差し引いても物欲があまりないように思えた。


 グリッタはふむ、と唸りながら足を止める。


 成程、こいつは手ごわい相手だ。ある日突然、馬の骨とも知らねぇ輩に横から掻っ攫われるとも限らねぇぞ――と、誰に忠告するわけでもないが。


 物で満足して貰えないとなると、労いに用意できるのは食事ぐらいのものだろう。

 幸い、カフス売りの商人は、市場(バザール)に関する知識だけはある。


「ふ、お兄さんにまかせてくれ」

「……?」


 どこに気合が入る要素があったのかは定かではないが、カフス売りがそうしたいのであれば止める必要はなさそうだ。ラエルはこの後、グリッタが勧めたパン包みの店で、油びたし肉詰めパン包みなるカロリー飯を購入することになる。


 因みにラエルが一日二食しか摂らないことをグリッタが知るのは、三人分の軽食を購入した後だったりした。







 シンビオージ湖。底の見えない水面が揺らぐ。

 鼠顔の少年は、暗く暗い湖の底を想起する。


 彼は一度だけ、この湖に身を沈めたことがある。


 魔導王国で生活するようになって、魔術のみならず魔法が一切通用しないその体質は研究の価値が認められて尚、忌避された。その血に「強制解術」の効果があると分かったことも、事態を加速させる理由になった。


 魔族は不死鳥信仰の一環で血を神聖視するが、それは魔力が含まれた血に限るらしい。


 「シンビオージ湖に残る白木聖樹の胞子を除去する」という名目で足に重りを結ばれた少年は、湖の中心まで船で運ばれた。そして、怨恨と嫉みを動機に、投棄された。


(まあ、死んだと思ったよね)


 ただしそこは仮にも勇者と呼ばれた少年だ。身体を鍛えていたこともあって最後の抵抗ができてしまった。


 重りを足に着けたまま、彼は湖の水面に辿り着き――しかし、息継ぎをした直後、無防備になった身体は水上から槍で貫かれた。


 何度も。何度も。


 継ぎ足した空気が水泡に帰し、重りに引き摺られた身体が水面から離れてゆく。


 小舟の影と、月が作った煌めきが目に入って眩しかった。


 酸素が足りなくなって、意識が摩耗して。思い返せばそれなりに苦しんだはずだが、視界に入った湖の底では、かつて守れずに瓦礫になった町が無言で両腕を広げていた。


 だからだろうか。大して怖くはなかったのだ。

 血の帯が湖を濁らせることが、悲しいと思えるほどには。


 赤い髪を三つ編みに束ねた魔族が、血の付いたレイピアを片手に自分の腕を掴むまでは。


(……)


 先代嫉妬の件もある。殺したいほど憎まれている自覚はあった。

 それなのに、四天王嫉妬は何者でもなくなったハーミットを湖の底から引きあげたのだ。


 燃えるような赤い瞳を歪ませて。「こんなに楽に死なせて堪るか」と呟いた彼の顔を、忘れることはない。


 ともあれ。そのような一件があったのが、魔導戦争終戦から数か月後のこと。

 あの時ハーミットを殺しかけた魔族たちは現在、檻の中にいる。


(アネモネが居なかったら、俺の死に場所はここだったんだよなぁ)


 ぼんやりとそう思いながら、鼠顔を深く被り直す。

 ハーミット・ヘッジホッグは振り返りざまに「やぁ」と声をかけた。


 市場に行ったラエルとグリッタが戻って来たのではない。そこには、湿った草に足を取られないようにと高い背を屈めた獣人の青年――ペンタスの姿があった。


「め、めぇぇ」


 最大限の注意を払い、気配を消したつもりでいたらしい。

 針鼠は慣れた足運びで丘陵を昇ると、青年を手招きしつつ湖の縁から距離を取った。


 足を滑らせて転がり落ちたら洒落にならない。


「つ、つけていたこと、気づいていたんですか。めぇ」

「まぁね。あれだけ全速力で後を追って来たら流石に気づくよ」


 町の石畳を駆ける音は、しっかりと少年の耳に届いていたらしい。

 ペンタスは何とも言えない表情をしながら、羞恥と闘っているようだった。


 ハーミットはペンタスの言葉を待つ。

 青年はしどろもどろになりながら、けれど意を決して言葉を紡いだ。


「めぇ。ハーミットさんたち、近い内、この町を出るんじゃないかと思って」

「……勘が良いね。そうだよ、俺たちは近い内にイシクブールを出る」

「そう、ですか。めぇ」


 明日にはアステルたちの披露宴があるが、その口ぶりから出席する予定はないのだろう。

 ペンタスは一度目を閉じ、そして開く。歪んだ瞳が、硝子玉の瞳を見据えた。


「……ボクは、貴方に面と向かって聞く勇気がなくって。グリッタさんにお願いして、質問をしました。卑怯な真似をした自覚はあります。だけどどうか、その答えを、聞かせて欲しいんです」


 針鼠の少年は針頭を揺らす。


 魔導王国への不信と、シンビオージ湖の発生について。

 人族であるハーミットが、某国へ籍を置く真意について。


 ハーミットは、西地区でグリッタに問われた質問の内容を思い出せてしまう。


 そんなことは知らないと、突き放す方が簡単だった。

 だが、忘れていたと謀るには記憶が鮮明すぎた。


「――魔導王国は、投降した第三大陸の住民を守ることに尽力した。そこに政治的意図はない。あの場にあったのは、聖樹の反転を止められなかった勇者一行への失望だけだよ」


 本心を吐露する。


「……それと、俺はあの国を正しいとか正しくないとか、そういう尺度で測ろうと思うことがあまりないんだ。魔導王国が俺の居場所だから、大切にしたいと思うだけだね」


 偽の本心を用意する。


 ハーミットは、ペンタスの顔を伺う。

 硝子の瞳の内側からは、一人頷いた獣人の姿が見て取れた。


「君の納得がいく答えを用意できたかは、分からないけど」

「めえ。……十分です。ありがとうございます」

「そうか。それは良かった」


 ペンタスが何故、追いかけてきたのかは分かった。

 しかし、ハーミットからも彼に確認したいことがある。


「ペタくん。俺からも一つ質問していいかな」

「は、はい?」

「俺のこと、誰だと思ってる?」

「へ? ま、魔導王国の役人さま……めぇ」

「そうじゃなくて。誰かと同一視してたり、見間違ってたりしない?」


 ――万が一。彼に看破されていたとしたら、魔王が提示した条件に引っかかる。

 処置か処分か。針鼠の預かり知らぬところで「残火」が動きかねない。


 人命救助を優先にごり押しした彼の父親とは状況が違う。ハーミットは立場上、ペンタスのことを庇えない。


 ツノつきの獣人は少し考えるようにして、へにゃりと力が抜けた笑みをつくった。


「めぇ、例え貴方が否定するとしても。聖典を読んでしまったボクにとっては、貴方がそうでなければならなかった。……ボクは、あの火の中で死ぬかもしれなかった。だから感謝しています、ハーミットさん」

「……」

「めぇぇ、ぎりぎりですか?」

「ぎりぎり、かもしれないなぁ」


 ぎりぎりもぎり、である。


 獣人の青年が明言しなかったこともあって、何処からともなく吹き矢が飛来することも、黒子が首を狩りに現れることもなかった。どうやら魔王は見逃してくれたらしい。


「聖典が絡んでいるからかなぁ。閲覧事故は珍しくないらしいし」

「めぇぇ、綱渡りしたかいがあった! あ、誓って誰にも言わないので安心して下さい」

「……鼠の心臓を無闇に試すのは辞めてほしいなぁ」

「めぇ。鼠ではなく、ダッグリズリ―の間違いでは?」


 第二大陸ジョークで打ち返され、思わず吹き出すハーミット。ペンタスは笑いながら、市場から歩いて来るラエルとグリッタを見つけて腕を振った。


 有角偶蹄の系譜に特徴的な、死線を潜り抜ける能力の高さを思い知る。


 思い返せば蚤の市の一件でも、彼はハーミットの捜索と重傷者の治療を瞬時に天秤にかけ、後者を選択することができた数少ない一般人である。


「まさかとは思うけど。キーナくんの思い切りの良さって、生来じゃなくてペタくん由来だったりする……のか……?」

「それは、アステルさま辺りに聞くといいと思います。めぇ」

「ここまで真相を知りたくないと思ったのは久しぶりだよ……」


 少年は呟いて、青年が向く方へと振り返った。







 かくして少年少女と蝙蝠は、夕方の蚤の市を堪能した後にイシクブールを後にする。


 林に張り巡らされた結界の向こう側へ。案内役のレーテと共に、馬車の積み荷と混ざってガタゴトと揺られること数時間。空が白み始めた頃になって、一行は隣村へと辿り着いた。


 朝日に目を細めながら降車した彼らの目に入ったのは、異様な光景だった。


「……なんだこれは?」


 レーテが呆然とぼやく。ラエルたちも同じような反応だった。


 隠された村。穂に実をつけて風に揺れる麦畑。

 その半分が、螺鈿のような青色に染まっていた。





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