210枚目 「オニオニィのバターパテ」
双月が西へ傾く頃。
黒髪の少女が就寝し、寝息を立てる時間。
針鼠の少年は蝙蝠の毛並みを整えつつ、防音用の魔法具を起動した。
「今日も一日お疲れさま。二人とも」
顔を上げると、隣には黒服を身に纏った二人の従者が立っていた。
一人は黒毛の長い耳をした獣人で、もう一人は口元を隠した魔族である。
彼らは伸びた草を折ることなくポフの屋根を伝って来たらしい。二人の懐には、針鼠が所持する物と同じ赤色の回線硝子があった。
ハーミットは顔を上げ、まずは獣人の方に視線をやった。
「何か、掴めたことはあるか?」
「……」
「特には無い、ね。そっちも同じかな」
話を振ると、口元を隠した魔族がゆっくりと挙手した。
「いえ。タレこみを土産に持ち込ませていただきたく」
「タレこみか。どういう?」
「動向を追っておりましたカフス売りの件ですね。西地区で真昼間からネオン被疑者と酒盛りをした後に、通りがかったペンタス青年に引き連れられて宿へ帰って行きました。四回は吐いていたかと思います。はい」
「……大分だな……」
実況内容から有様が容易に想像できてしまうあたり、あの商人が姿をくらまそうなどと画策して動いているのではないと判断する。彼はその宣言通り、サンドクォーツクに出頭するまでは逃げも隠れもしないつもりでいるのだろう。
真面目に思考するハーミットに対し、小柄な魔族は興味なさげに欠伸を零す。
「はあ、まあ、それほど心的内傷を負った訳ではなさそう、とだけお伝えしておきます」
「……そうか」
「どうします、このまま観察は続行する方向で?」
「ああ。俺の目が届かないところで死なれても困るから、引き続き頼むよ」
「了解。では、一足先に仕事に戻りまっす」
す、と音を立てることなく姿が消える。
何度見ても影を使う者たちの魔術行使には目が追いつかない――少年はそんなことを思いながら、立ち尽くしたままの獣人の存在に肩を跳ねさせた。
「ど、どうした」
黒毛の獣人は呆れた視線を少年に注ぐ。
わざとらしく驚くフリをするところまで含めて、気に入らないとでも言いたげだった。
「……きのうのきょうで、いくらなんでもげんきよすぎ。ふしぜんきわまりない」
「あー、それはほら。ここ最近毒にやられてた時間の方が長かったからさ。思考に余裕ができたらこんなもんだよ。いつも通りいつも通り」
「あのこから、はえたの、しってるくせに」
「……………………」
ハーミットは開いた口を手動で閉める。
「見たのか?」
「みた」
「そうか、見たのか。他に目撃者は?」
「……イシクブールの一般民、アドレア・ゼド、ピトロ・コストラ、ジェカバッド・シュロンムス、ゼェルダレー=タロム、バドブ・ロダ=バシーノ。かれらにはすみやかにそちをした。キニーネとストレンには、あなたにとめられたからなにもしてないけど、ふたりとも、いいふらすきはないみたい。ああ、でも、ペタってひとにははなしてたかな」
「多いな」
「まちなかだったもの。しょぶんするほうがかくじつじゃ、ない? ストレンにしたって、さくやのかのじょのふるまいは、はんぎゃくざいぎりぎり。あの『あざもち』だって――」
そこで、獣人の口が止まった。
目を開いた蝙蝠は、慌てて少年から距離を取る。
獣人は立ち尽くしたまま動かない。
硝子の瞳に縫い留められたように、視線を逸らすことも敵わない。
ハーミットは暫くして、一文字に結んでいた口角を「きゅ」と指で押し上げた。
獣人は長い耳を不安そうに触りながら、震える声を吐きだす。
「そう、おこらないで。よこどりするつもりなんて、ないよ」
「……分かってくれているならいいんだ。凄んだりしてごめんよ」
「ん」
黒毛の獣人はプルプルと頭を振って、無垢で澄みきった瞳を向けた。
「あのこのおや、ぶじにみつかるといいね」
優しい声音でそう言って、獣人はその場を離れる。
少年は戻って来た蝙蝠の顎を撫でながら、琥珀の瞳を濁らせた。
聖樹信仰教会の鐘の音で目を覚ます。
ラエル・イゥルポテーは蚤の市四日目にして、数日ぶりに気持ちの良い朝を迎えた。
シャワーを軽く浴びて普段使いの青いワンピースに袖を通す。着回す為に数着同じものを頼んでいて助かったと、ラエルは姿見の前でくるりと回りながらほっとした。
残念ながら手袋はまだ洗浄中らしく、手元には戻ってきていない。
クラフトを呼び出す銀の腕輪と空間転移の鍵となる指輪、左耳の翻訳魔術に右耳の晶砂岩。
腰のベルトに引き出しの箱搭載のポーチ、太ももにベルトでナイフを括りつける。足元はストレンに貰った術式付与ができる黒いハーフブーツだ。
そして、魔導王国の意匠を刺繍したケープを羽織る――これが、今のラエル・イゥルポテーが身に着けている全装備である。
胸元の紐をカフスに固定すると乾かした黒髪に指櫛を入れ、一度は馬の尾のように結ぼうとしたが、手を止める。悩んだ末、うなじの近くでリリアンを結んだ。
両手首の傷痕に残り少なくなった虹の粉をふりかけては、ざりざりと刷り込みながらリビングへ足を向ける。
金髪少年はまだ起きていないようなので、窓を開けて外から風を取り込む。
壁の留まり木で揺れる蝙蝠が、ぷうと膨らませていたものを破裂させた。
『ふぁ……おはようです、ラエル』
「おはようノワールちゃん。ごめんなさい、起こしちゃった」
『別にいいです。どうせ昼間は仮眠時間の方が長いです……ぷぅ』
二度寝した蝙蝠に微笑んで、そのままラエルは朝食の準備に取りかかる。
(魚肉と卵とパンと……材料は十分ね)
オニオニィを賽の目に切って、塩と酢と種油を少量ずつ絡めて下味をつけた。これは一旦、冷やし箱の中に入れておく。
軽く溶きほぐした卵に葉野菜を刻んで混ぜると平鍋の上で器用に巻いていく。卵は二つしか使っていないのでそう分厚くはならないが。これでいいのだ、と一人頷いた。
次にサンドクォーツクで購入した冷凍の牙魚に下味をつけて揚げ、網の上で油を落としておく。イシクブールの白いパンを中央から二等分して、側面に切り込みを入れた。
冷やし箱から引っ張り出したオニオニィに、同じく冷やしてあったパン用のバターを投入して練り混ぜていく。そう量が多いわけでも無いので、綺麗に混ざるまで時間はかからなかった。
そうしてできあがった即席バターパテをヘラでパンの切り込みに塗りつけて、冷ました卵焼きと揚げ魚を一緒に挟み込む。
手のひらで包み込むようにして数秒抑え込んで形を整えれば、朝食のメインが完成だ。
さて。これにサラダをつけるかスープをつけるか。
ラエルは振り返ってテーブルにそれを置き、視界に入った金色の髪を二度見する。
ハーミットは蝙蝠に朝食の固形飼料を手渡しつつ、振り向いたラエルにひらひらと手を振る。どうやら白い鐘のような花がついた切り花を器用にも冠状に編み上げるところだった。
「おはようラエル。今日は君の方が早かったね」
「おはようハーミット……って、いつから居たのよ。声かけてくれてもいいじゃない」
「ははは。いや、俺は料理が得意な方じゃないからさ。ちょっと観察してたんだよ」
「……観察するのは構わないけれど。スープとサラダ、どっちが欲しい?」
使ったボウルを洗いながら聞くラエルにハーミットは目を丸くする。どうやら水魔法でボウルが綺麗になる前に考えてくれということらしい。
数秒沈黙した後、金髪少年はスープを所望した。黒髪の少女はニコリと笑いかけると、綺麗になったボウルの水気を拭き取って次の準備に取り掛かる。
再び調理台に向かうラエルを目で追ったハーミットに、蝙蝠は飼料を差し出す手を催促した。
『観察というか、つまみ食いの隙を狙ってた、の間違いじゃあないです?』
「人聞きが悪いなぁ。真面目に調理してる人の邪魔はしないに限るよ」
『その心は?』
「下手に気配を殺して調理者に近づくと、お互いに怪我の元になる」
『……です』
割と正論が返って来たことに呆れた蝙蝠は、眉間に皺を寄せながら鋭い牙で固形飼料を噛み砕いた。
暖かいスープを食卓に加えて、少年少女と一匹はのんびりと朝食を済ませた。
トマのスープを飲みこんで、ラエルは口を開く。
「今日の予定はあるの?」
「うーん。情勢調査は終わっているし、必要な情報も集まった。でもスカリィさんには釘を刺されたばかりだし、今日ぐらいは休みたいところ。……なんだけど。実は午前の間に寄りたいところが二カ所あるんだ。ラエルはどうしたい? 蚤の市を見るっていうなら止めないよ?」
「うーん、確かにペタさんやキーナさんと祭りを巡るのもいいかもしれないけれど。貴方が行きたい場所って、私も行った方が良い場所だったりしない?」
「いやいや強制はしないよ。献花しに行くだけだからさ」
「献花?」
「そう、お墓参り」
ハーミットはそう言って、何処からともなく花冠を幾つか取り出してみせた。
一昨日は碌にベッドから移動できなかったので、一日中これを作っていたのだと。
「震えと痺れと痛みをいかに耐えて編み上げるか。指先を使う繰り返しの作業は、リハビリにもってこいなんだ。せっかく作ったから、供えに行こうかなと思ってね」
「そっか。明日の朝にはもう、この町を出ているんだものね」
ハーミットが言う通り、墓参りをするなら今日しか残っていない。思い返してみると、ラエルは例の彫刻士の墓にも挨拶していないのである。
「釣鐘草、まだ残っていたりするかしら」
「ん? ああ。あるけど」
「私も行くわ。せめて一つくらいは作らせて頂戴」
「いいけど、そんな短時間で作れるものじゃ――うわぁそっか君元々ノット教だったね! めっちゃ編むの速いし綺麗なんだけど! なんだそれどうやってるんだ!」
『くぁ。…………ぷぅ』
蝙蝠は、出発まで時間があるとみて転寝を始める。
蚤の市は四日目。イシクブール滞在最終日の朝は、花冠作りから始まった。




