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193枚目 「亡骸を食むもの」


 凍えるように冷たい風が吹いている。

 口元を覆う布の厚みを、僅かに残った体温をあざ笑うように灰色の砂嵐が駆けていく。


 白い砂漠。色のない砂漠。

 風が刻んだ隆線には、時々亡骸が転がっていた。


 肉にたかる鳥と虫と、それを食らいにやってくる砂魚が見当たらない。

 どの生き物もありつけない貴重な食物は時折、水脈が独り占めする栄養になったりする。


 乾いた皮が縮んで骨が見え、目が転がり落ちて身体の何処かが欠けていた。

 飢餓と乾きだろう。塩を求め、水を求め、自らに歯を突き立てて死を早めた末路だった。


 ……死ぬことは悪いことだと教えられている。


 だから孤独に死んだその誰かのことを、私は愚かだと思った。


 そんなことをせずともこの砂の下には水脈があって、夜には氷柱(ひょうちゅう)が噴出する。砂魚の群れに出くわせば食料だって事足りる。


 知識と運さえ持ち合わせれば水に困ることも食料に困ることも無いはずだと。愚かにもそう思った。


 鳥ならそうなる前に巣に還る能がある。

 虫ならそうなる前に砂に潜る能がある。


 一方、人間は「知」がなければ身体を維持していられない。


 生きる為には水が必要で、食物が必要で、健やかでいるためには場所が必要だと、知っていなければ生き残れない。


 群れ同士がぶつかった砂魚の縄張り争いが激化するように、陣地合戦のように人と人がひしめいて、居場所を求めて他人を蹴り落とし潰し合うようすが目に浮かぶ。


 白砂漠は思いのほか「土台」が小さくて、砂魚と砂虫と三つ首鷹(スリーヘッドホーク)と。私がまだ知らない何かの生物たちを抱えるので満杯だったのだ。


 人間が入り込めるような「土台」など――はじめから残されていなかった。


 私は腕に布を抱えて拠点へ戻る。炭樹(トレント)を骨子にした簡易天幕(テント)の内側から顔を出す女性に声をかける。


 これはボロボロで着るには向かないが。身体を洗う布ぐらいにはなるだろうと。


 極限の中。道徳も倫理もない砂漠で、生きるには必要のない教えを受けながら。

 使うはずもない見識と生きる為の知恵を私に植え付けた彼らと共に火を囲んで。


 この場にいる二人以外とは誰とも出会わない砂漠の真ん中で。

 私は確かに。なにひとつ疑問を抱くことなく、笑っていたのだ。







 身体が重いと感じたのは、水の流れる音と共に意識が浮上してからのこと。


 瞼を押し上げることすら億劫で、だから音に耳を傾ける。


 じゃー。と流水音が耳に届き、冷たい床に生ぬるいお湯が這っていく。暫くして、水が流れる音が少し激しさを増した。何かを濡らしたあとに絞っているのか、ぼたぼたとまとまった水が落ちる音もする。


(……直前まで何してたんだっけ。蚤の市に賊が攻めてきたのが昨日で……)


 頭に血が通い始めたのか、おぼろげな視界が解像度を上げていく。

 身体に違和感があるが、不快な感じはしなかった。紫目を瞬けば、目の前に膝をついた白服の女性が魔力で繋ぎとめた袖を取り払うところだった。


 解かれた魔力子は薄い赤色をしている。白と赤を混ぜたような、新鮮な肉のような。


 切り離した白服の一部を細くひも状にして、腰回りの布を纏め上げて縛る女性。

 そこで視線に気が付いたのか、果実を煮詰めたような赤色がこちらに向けられた。


「随分とのんびりな起床ですね、ラエル・イゥルポテー。よくも人の背中でぐっすり寝てくれやがりましたねぇ。新調したばかりの支給服が(よだれ)と寝汗でべっとべとなんですけどぉ?」


 魔族と人族のダブルである彼女は、薄い茶髪を揺らして捻くれた笑みを作る。


「……ストレン?」

「はぁい、ストレンさんですよぅ。私の名前が魂に刻まれているようで何よりですぅ」

「……陽炎……?」

「誰が人を惑わす幻ですかぁ?」


 「べちん」とおでこを指で弾かれ、ここでようやく正気に戻った黒髪の少女、ラエル・イゥルポテーは(ひたい)を指でさすった。


 元白魔術士だけあって、デコピンと同時に軽い治療を施してくれたようだ。意識の曇りが取れ、視界は良好である。


 床がほんのりと暖かい。周囲の空気がほどよく熱されている。

 ラエルは落ちた髪を掻きあげようとして、ようやく違和感の正体に気がついた。


 黒髪が肌を滑る。衣擦れの音はしない。

 つまりは素っ裸なのだ。シャワーが壁にあるので、ここはシャワー室ということになる。


 赤魔術士ストレンがどうして意識のないラエルの服を剥いてシャワー室まで連れてきたのかは身に覚えがない。ラエルが混乱していると、ストレンはわざとらしく溜め息をついて絞ったばかりのタオルを差し出してきた。


「疑心する理由はよーくわかりますが、流石に血まみれで放置は、ねぇ?」


 赤魔術士の言葉に、ラエルは自身の身体へもう一度目を落とす――赤と黄色のまだ新しい血が、黄色がかった肌の上にべったりと塗りたくられていた。


 認識してしまえば、熱気と共に噎せかえるような鉄の匂いが鼻腔を蹂躙する。

 ラエルは思わず顔を歪め、受け取ったタオルを慌てて身体にあてがった。


 わなわなと震える唇から零れた第一声は、「うっわ……」だった。


 ストレンはその様子に目を細め、額に青筋を浮かせる。


「『うっわ』じゃないですよ他人事ですかぁ? 返り血ならともかく貴女自身の血なんですからもうちょっと狼狽えて下さいよぅ!」

「じ、実感が沸かないのよ……」


(竜の像の前で魔力暴走を起こした記憶は、あるけれど)


 魔力暴走をきっかけに回復術で繋ぎ合わせた傷痕が開いたのだろう。血痕は夥しいが痛みはないことを考えれば、開いた傷口の全てをストレンが塞いでくれたということである。


 加えてラエルは、自分がどうしてシャワー室まで連れて来られたのかも理解した。


 回復術はともかく、浄化式は血液のような高濃度の魔力が通った液体には効きが悪い。

 返り血ならともかく、本人の血液であるなら親和性の高さから事故を引き起こす可能性がある。こればかりは地道に手作業で落とすしかないのだ。


 白い布は、押しあてた端から朱色に染まっていった。「何だかもったいないな」と複雑な顔をした黒髪の少女をじっと観察して、赤魔術士は緊張を解く。


「はぁ。魔力の流れも落ち着いてきましたねぇ。私は職業柄、人の裸体には慣れていますが……断りもなくすみませんでした」

「ストレンが素直だと明日は槍が降りそうね」

「あっははは。人の善意に対して失礼極まりない発言ですねぇー?」


 元気そうなのであとは任せますよぅ。のぼせそうになったら壁とか殴って呼んで下さーい。

 と、何だか怒ったような声で言い捨て。ストレンはのんびりとシャワー室を後にした。


 ラエルは冷え始めた身体をさすりながら立ち上がろうとして、血塗れのタオルを片手に首を傾げる。


 のぼせる心配はなさそうだったが、医者に症状は伝えねばなるまい。


「ストレン! 原因は分からないけれど足腰に力が入らないわ!」

「はぁーっ!? そんな重大なこと先に言えってんですよぉ!!」


 やり取りからほんの数秒後、自分用の桶に整髪剤などを放り込んでついでに浴びてしまおうと腹をくくった全裸のストレンと血塗れのラエルは再対面することになる。







 気持ちばかりのバスタブに水を張り、赤魔術士が足を組む。


「それでぇ、いったい何があったんですかぁ」

「?」

「どうして当事者が疑問形なんですかぁ。記憶でも飛んでるんですぅ?」

「えっと。それが、色々ありすぎて……何から話せばいいかと思って」


 ラエルは手元で整髪剤を泡立てながら髪の絡まりを解いていく。

 水の重みで矯正された黒髪が油色に染まった。


 ストレンはバスタブの縁に首を置いて、両腕を湯から上げる。


「何からというかぁ、私がこの町(イシクブール)に着いたのは今日の朝なのでぇ。賊が攻めてきたのを返り討ちにしたってことしか把握してないんですよぅ」


 絡めた指の間から泡球を吹き出すストレン。

 お湯から出ていた方の足を湯船に戻し、足を組み直す。


「とりあえず、直近で貴女が魔力暴走した前後の話だけで構わないですよぅ。どうせ数日以内に針鼠が報告書を出すでしょうし、公の事情は『それ』に統一されますからねぇ」


 ラエルは整髪剤をシャワーで流し、ボディーソープを手に取る。


 ストレンたちにどれだけの情報が伝わっているのかは定かではない。サンゲイザーの件はともかく、ネオンについてはラエルの口から出さない方が良さそうだ。


 キーナが言った「町の秘密」の件についても。


「……かいつまんで説明するとすれば、遠征の目的に思考が辿り着いた途端に魔力暴走を起こした感じね」

「遠征の目的って、情勢調査のことですか?」

「表向きはね。……この町の情勢調査は終わっているの。目的って言うのは両親探しの方」

「誰の?」

「私の」


 ぴちゃん。

 シャワーヘッドから零れた水滴が音を立てる。


 個人的な事情だけであれば、彼女に理由を明かしても許されるだろうか。

 黒髪の少女はそう思い至って、身体を洗う間に頭の隅に纏めていた内容を口にした。


 一連の身の上話を聞かされることになったストリング・レイシーは、話の後半になるにつれてみるみる顔を歪め、最後はお湯に沈む。


 頭の天辺までつかった後、音を立てながら這い出てきた。


「……前半はともかく、その宗教についてあの針鼠は何処まで知ってるんですぅ?」

「彼のことだし調べはついているかもしれないけれど、ここまでしっかりとは話していないわよ。嫌われたら嫌だし」

「貴女ねぇ」

「――これは私の問題だから。彼に肩代わりされちゃあ困るの」


 新興宗教に毒された両親が彼女に何をしたのか。何を押し付けたのか。


 彼等が居なくなった砂漠でラエルが死にそうになりながらも生きてきた記憶は、既におぼろげで遠いものだ。アダンソンと関わる以前の記憶とは打って変わり、苦いだけの思い出である。


「だから、両親を探し出して団体を再起不能にできたらそれで満足なの。その後なら檻の中だろうが土の下だろうが何処にでも行ってやるわよ。ええ」


 やけくそにそんなことを口にするラエルの背中を、崩れた泡が流れていく。

 ストレンは剣呑とした目つきでそれを追い、笑うことなく言葉を返す。


「まさかとは思いますがぁ。そんなに恨んでいるにもかかわらず、この町の住民に関わって()()()()()()()()ことが魔力暴走のきっかけだったりしますぅ?」


 黒髪の少女はその言葉に動きを止める。

 手首の傷痕を温めるだけの流水が、床に滑り落ちていった。


「私も大概ですが、貴女もそうとう難儀な人ですねぇ」

「……」

「無理に笑わないで下さいな。貴女まで仮面人間になるつもりですかぁ?」

「そうじゃないわ。私が笑うのは、自分の為よ」


 黒髪の少女はそう言って赤魔術士に介助を求める。

 ストレンは不機嫌そうな顔のまま湯船を出ると、黒髪の少女を支えた。


 瞬く間に魔術で身体を乾かした赤魔術士は、脱衣所に用意していた適当な服を引っ張り出す。日常生活に魔術を惜しまないところが魔族らしい。


 ラエルはぼんやりと考えながら、視界に入った見慣れぬ内装に目を瞬かせた。


「……そういえばここって何処? ポフじゃないわよね?」

「い、今更ですかぁ? 宿屋ですよぅ、蔦囲いってところですぅ」

「あぁ、あの宿なのね」


 どうやら腕は動かせると見て、ストレンは壁を支えにしながらラエルにネグリジェを被せる。少女の背中に右手を添えると左腕に足の裏を引っ掛けて持ち上げた。


「うわぁ!?」


 ラエルは慌てて袖を通した右腕をストレンの首に引っ掛けた。いきなり地面から足を放されるのは存外心臓に悪い。


「あっぶないじゃないの!!」

「あらあら、恐怖感情がない貴女にも危機感覚があるとは驚きですねぇ」

「危機感がなくちゃここまで生き残れていないと思うわ……!」

「まあ、落としたりはしませんよ。余程のことがなければ」


 ラエルと同じ型のネグリジェを着たストレンは気だるげに言う。


 赤魔術士となった現在も彼女が烈火隊の一員であることに変わりはないらしい。

 流石、筋肉娘と呼ばれるだけのことはあった。


 じっとしていることで安定すると認識したのか、乾いたばかりの黒髪をそのままにストレンに身を任せるラエル。脱衣所を出て、簡素なベッドが目の前に見えた。


 ――その横でこちらを向いたまま固まった針鼠と、目が合う。


「……」

「……」

「……」


 ストレンは無言のままラエルをベッドに腰掛けさせると腕を回して肩を解し、小指から指を順番に握り込んでいく。


 石化したかのように身を固くしていた針鼠はハッとして、武器を取ることもせず両腕を上げて降参の意思を示した。


 が、赤魔術士はニコニコと笑いながら最後の親指を折った。


「お、落ち着くんだ、少しはこっちの話も聞いてくれないか……!」

「他人の部屋に勝手に上がる奴ほど信用ならない人間はいないんですよぉ!!」

「は、ははははそのことについては正論すぎて何一つ弁明できな――ぎゃふっ!!」

「(あっ、廊下まで殴り飛ばされた)」


 開いたままになっていた玄関から廊下に殴り飛ばされる針鼠。ようやく乾いたらしい、ぴしりと綺麗に襟を立てたコートごと早くも床を転がる。


 ラエルとしては、何故針鼠がこの部屋から叩き出されたのかが分からない。


 それは廊下の方に殴り飛ばされた彼も同じらしい。外れた鼠顔を元の位置に直すことも忘れ、ただただ呆然とした様子で黒髪の少女の方を見る。目が合った。


 ストレンはどうしてこんな仕打ちを……いや、他人の部屋に勝手に上がっていけないというのは極めて常識的なルールではあるのだが、それを「そういった目的で」彼が侵すとは考えづらい。


「す、ストレン。部屋を荒らされたわけじゃないんだからそうキリキリしなくても」

「普通!! 他人の部屋に!! 予告なく侵入するもんじゃないでしょうが!!」

「えっ……確かにそうだけど……」

「ですよねぇ!?」

「いやいやいや、せめて説明を――」

「説明ですかぁ? 貴方が大人しくポフに帰ったと分かれば、私からカルツェに説明しておきますよぅ!」


 ストレンは言いながら、背後にいるラエルの様子を伺う。


 黒髪の少女はぴっちりと足を揃えて座ったまま、激高する友人の姿を見ていた。どうやら放心するばかりで身構えるそぶりもない。


 赤魔術士はその様子に心底面倒臭そうにため息をつく。

 針鼠に振り返ると、意地の悪い笑みを返した。


「ええ。彼女は今日の夕方に道端でぶっ倒れましたからぁ、過労認定で明日まで面会謝絶ですぅ。これは白魔術使いとしての判断に他なりません。いいですね?」

「……えっ!?」

「はぁ!? えっ、ストレン!?」

「そういうわけですから、明日にでも迎えに来てください!!」


 閉じられた扉を前に放心する少年が一人、廊下に残される。

 外れた鼠顔を被り直すと、彼は複雑な心持で宿屋を出ることになった。







 これが、イシクブール蚤の市二日目の夜のできごと。

 (ページ)は否応なく進む。





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