陰謀の影
エストールの貴族街にある邸宅の一室で、女は『それら』に命令する。
「お茶と、お菓子を持ってきなさい」
それはさながら、玉座から命を下す女王のような仕草だった。
中年に差し掛かるであろう髭面の男性と、鮮やかな金髪の女性がそれに応じる。
それらは女にとって、父と母だった者だ。だが、今では執事とメイドの役割を持つ物でしかない。
給仕が済めば、『それら』にもう用はない。
さっさと出て行け、とばかりに手を振ると恭しく頭を垂れた二つが部屋の外へと出て行った。
感じていた気配の報せ通り、ややあって――扉がノックされた。
女は、意識を切り替えるように、深く表情を沈めて、再び意識を浮上させてから声を発した。
「入っていいわよ」
先ほどまでとは打って変わって、優しさの溢れる音色だった。
声を高くして、微笑を作ってそう告げる。
扉が開き、入ってきた少女を見て、女は一層笑みを深める。
「お帰りなさい、イズナ。ほら、もっと近くに来て――ちょうどお茶の用意をしてたの、一緒に飲みましょう」
「…………うん、ただいま……おねえちゃん……」
少女の声は、酷く弱々しい。
今にも頭を抱えて蹲ってしまいそうなほど、恐怖に脅えているように見えた。
「どうしたの? ほら、おいで――」
そんな少女を気遣うような柔らかな音色。
そんな声に引かれて、とぼとぼと歩いてきたイズナが遠慮しがちに椅子の隅っこに座る。
机の上のお茶菓子にも手を出さず、視線を右往左往させていた。
「……あ、あのね……おねえちゃん。その……泉、なんにもなくて……その……」
イズナが瞳をぎゅっと閉じて、悪事を白状する子供のように告げる。
「にんむ、できなかった……」
沈痛に歪んだイズナの瞳は、潤みを帯びて揺らいでいた。
「そう――――」
静かにイズナの言葉を聞きいれていた女は、目を開いてぱぁーっと笑う。
「うんうん、いい子ねイズナは。ちゃんと報告できて」
「…………怒って、ないの……?」
「何故? イズナはちゃんと頑張ってくれたんでしょ。それに、泉がなかったなら仕方ないじゃない。お姉ちゃんは怒ってないわ。ほら、疲れてるでしょ、そう言うときは甘い物よ、頑張ったイズナにご褒美」
それは女にとっても都合のいいことだった。
古代の血統など、無くなればいいとさえ彼女は思っているのだ。腕が立つのは分かるが、特権を行使されるのは勘弁して欲しい。
この場は長い時をかけて手に入れた彼女の基盤である。それを血統がいいからと奪われては堪ったものではないのだ。
イズナの話を聞く限り、封印は何らかの要因で解かれた後だったようだ。
(さて、勇者の封印を解いたのは何処の誰かしら? それとも、イズナが見つけられなかっただけ? どっちにしろ、苦労して魔眼を取り込んだのは無駄になったかしら……)
今になっては、魔竜紛争の話も耳に入っている。どう楽観的に考えても、人間に魔王の血統が倒せるとは思わない。ある程度周辺を探らせれば、お転婆の姫様は見つけられることだろう。
問題は、どう言い訳するか、それだけだ。
だがまあ、それも大した問題ではないだろう。女は既に十分な成果を上げている。エストールを手に入れ、王国を責め滅ぼせば、あの小生意気な古代魔族もおいそれとは手出しできないだろう。
お茶菓子の袋が空き、そわそわしだしたイズナに女は言う。
「ご苦労様、イズナ――もうずっと、お母様とお父様に会ってないでしょ? 行っておいで、それでいっぱい甘えるのよ?」
「……うん、ありがと……おねえちゃん。行ってくるね――」
とてとてと歩き出し、少女の姿が消えるまで、女はずっと口元に笑みを浮かべていて――
だが、それは偽りの仮面だ。
クスクスと、不快な音色が零れ落ちる。
そして、心の奥底に沈んでいた、嗜虐心に満ちた本当の笑みが、愉悦が、抑えきれずに漏れ出した。
「あはははははははは、いひひひひひひひひ、いひははははははははははははははははははは――ばっかみたい! ありがと、とか何も知らずにお礼言っちゃって、あははははははははは、あー、お腹いたい、あのバカガキのせいよ、もう」
腹を抱えて女は笑う。
声を出して、机を叩いて、哂い転げる。
「どいつもこいつもバカばっか。脳ミソ何処に置いてきたんだろうね、あはははははは! あー、これだから人間は扱いやすくて助かるわ――」
いや、人間だけではない。魔族も、女にとっては扱いやすい道具でしかないのだ。
手のひらの上で踊るそれらを見るのが、楽しくて楽しくて、仕方がない。
自分で自分の首を絞める愚か者だけしか、この街には存在していないのだ。これ以上に楽しいことはなかった。
「でも、そっか、封印は外れか――ま、あの子はまだまだ利用価値があるし、たっぷり踊って貰わないとね」
それに、ご機嫌取りのために古代魔族、リノアのことも捜さなければならないだろう。
シナリオは概ね順調である。不備はリノアの行方不明とお気に入りの脱走くらいなものだ。
どちらもすぐに解決するだろう。これ以上なく順調だと女は思っていた。
その声が、何処からともなく響くまでは――
「随分楽しそうね、アナリシア・レーゲン――あたしも、まぜてよ」
一通り嗤い、見下し、楽しんだアナリシアに、冷や水を浴びせるような声が降りてきた。
響き渡る声に、魔族の女――アナリシアは息をのんだ。
そして、すぐにはっとなって正気を取り戻す。
「……何時からそこにいらっしゃったのですか、緋色姫様」
アナリシアは精一杯取り繕いながら視線を上げる。それでも、口にした言葉は陰々とした響きを持っていた。
天上近くに浮かぶそれは、気配を抑えてなお、アナリシアを震えさせるほどの存在感を漂わせていた。
「さーて、いつからだったでしょう?」
変声期さえ迎えていないような、甲高い子供の声だ。小生意気で、忌々しい。
できることならば、今すぐにでも壊してしまいたい。だが、それは不可能なのだ。圧倒的に戦力が足りていない。
その見た目は幼さの残る子供でしかない。身長は百三十に届くか届かないか、卵型の小顔を緋色の髪が包み込んでいて、赤みのある褐色の肌が特徴的だった。
「お戯れを……いらっしゃるなら、歓迎の支度をしましたのに」
だが、その見た目に騙されてはいけないことを、アナリシアは重々理解している。何せ、彼女はアナリシアの上司に当たる人物なのだから。
現魔王配下の中でも、一、二を争う実力者。
気分屋で、現魔王さえもその扱いに難儀していて、手綱を握ることができていないこの少女は、肩口と太ももにかけて大きく露出のある巫女服を着込み宙に浮かんでいた。
細くしなやかな肢体を惜しげもなく晒しながら、少女はアナリシアの対面まで来て、机に残されたお菓子をひょいっと摘んだ。
「いいの、いいのー、けいかかんさつ? ってやつをしに来ただけだしねー。ま、さっきの様子なら、順調そうでなによりだよ――――でも、肝心のリノアちゃんは見つかんなかったみたいだね、残念だな~」
そう、言うや否や、明るげな声とは裏腹に、アナリシアに襲い掛かる重圧がどっと増した。
「っ――!」
呼吸さえも満足にできず、荒い息遣いで己を支える。
満足に顔を上げることもできないまま、アナリシアは少女の形をした何かを見上げる。
何か、言い訳を言わなければ間違いなく死ぬ。そんな確信が湧く。だが、考えていた弁明は全く口から出てこない。
「本来はリノアちゃんを見つけるってことで、あれを借り受けてあげたんだけどな? 期待はずれだったかな――」
――壊しちゃおっか?
有無を言わさない声が降る。
その言葉は、まさしく死を体現しているようで、アナリシアは首が胴を離れる己の姿を幻視した。
「なーんて冗談」
ふっと、抜けるように空気が緩む。
「っ、ぁ……はぁ、はぁ――――」
「あいつは王国をやっつけちゃうことにも賛成らしいし、あんたにはまだ役目があるだって、よかったね」
そう言って、少女は消えた。
痕跡さえ残らず、扉が開いた気配もない。
だけど、少女はいつの間にかいなくなって、アナリシアだけがそこに取り残された。
「クソがっ!」
怒りに任せて罵倒を吐く。
「クソ、クソ、クソ! 低脳が! 脳筋が! 誰のおかげでエストールを手に入れれた! 誰のおかげで王都を攻め込めると思っている! 脳ミソの使い方を忘れた魔族の癖に、よくもこの私に恥をっ!」
アナリシアはその口元を歪ませる。
「いつか、いつかアレも手に入れる。改造して、改竄して、狂わせてやる! みんなみんな手に入れてやる! この私の手で、躍らせてやる!」
◇
「愚かな子――なんにも分かってないんだから――」
双子月の淡い黄色と碧い光、二色がかすかに交じり合う。
その光は、ただ一人を照らすためだけに輝いているとさえ錯覚を覚える。
夜闇の中を少女は巡った。
緋色の髪が炎を纏っているかのように、風に揺れて、色鮮やかに舞う。
「ま、それも仕方ないね――あの子はパパを知らないもんね」
緋色姫は知っている。
全知を持って権謀の限りを尽くそうと、愉快に笑って薙ぎ払うだろう全能の力を。
絶対的で、圧倒的で、立ち向かうことさえ愚かしい、羨望さえ抱く力の持ち主を知っている。
「でもでも、大陸割るとか、パパやりすぎっ! 余計なお世話だよ、もう! …………ほんと二千年も、子供扱いしないでよね…………ばか……」
はーあ、と。
暗闇に姿は溶けていって、いつの間にか声だけが残る。
「それはそうと――リノアちゃんは何処で遊んでいるのかなー。早く帰ってこないと、叔母さんが迎えにいっちゃうぞ」




