ナハトという名の希望
冒険者ギルドの中は何時にも増して緊張感が張り詰めていた。
ヨルノ森林の異常は若手からベテランまで多くの人間にまで周知されていた。
だが、彼らはそれを明確な脅威とは認識していなかった。森の騒乱は数年、あるいは数十年に一度は起こることで、ベテラン冒険者の間では、実体験を持つ者もいる。
彼らにとって、森の騒乱は危険が大きい反面、稼ぎ時であることも言えたのだ。
ヨルノ森林の騒乱の度に出される緊急依頼は、Dランク以上の冒険者には参加資格があり参加するだけで報酬は支払われる。さらに討伐数や質に応じて追加報酬を貰える上、深層の素材そのものである魔物を狩るチャンスでもあるのだ。
危険は確かに大きいが、命の危険を傍において、戦うことこそ冒険者の仕事であるのだから明確な危機感を覚える人間はほんの一部だけだった。
だが、今は違う。
誰もが困惑し、焦燥に駆られ、落ち着きなく過ごしていることが目に見えて分かる。
ある者は依頼用紙を見て頭を抱えていたり、またある者達はお互いにどうすべきか相談しあっていたり、パーティで口論を交わしたりと、冷静さを保つ者は少なかった。
ナハトがここに来た三日前とは空気がまるで別物だった。
料理と酒を片手に談笑しあう冒険者の姿はなく、ナハトを舐るような視線も熱く見つめてきた視線も今は感じられない。ナハトが感じていた懐かしい空気がそこにはなかった。
それは、彼らに余裕がない証拠なのだろう。
「随分と様変わりしたな――」
ナハトが呟く。
ゲームや小説の中の冒険者を現実に見て、少し心が躍ったものだが、彼らの姿はかつてのものではなかった。
ギルド内の空気が気分を害するが如く重い。そんな空気を伝ってくる恐怖心が蔓延していて、どこかつまらないものだった。
「皆さん、難しそうな表情です――」
アイシャが不安そうに言う。
「ハウスマンはそれだけ多くの冒険者に慕われていたからな――」
今回ナハトが呼ばれた理由は、正体不明の雷の竜について聞くことと、ハウスマンが森の異変を調べ、二人組みの女を相手に交戦、生死不明に陥っていることが報告されたため、この緊急事態に助力を願おうとクリスタ自身がギルド長に提案をしたからだった。
消耗しきった様子だったハウスマンの弟子、フウカとカイトの姿を見た者は多くいた。
だが問題はそこではない。
A級冒険者とは、普通の冒険者にとって雲の上の存在なのだ。
勿論、仕事仲間としては皆が絶大な信頼を寄せている。そんなハウスマンでさえも手に負えない事態。それに脅えぬ冒険者はいない。報告の一部も聞えてはいた。深層にグリフォンが存在していたと聞いただけで、もう立ち向かう気力さえ湧いてこなかった。それなのに、中には古代魔族が出現したなどという話も噂ながら聞えてくる。幾ら冒険者とはいえ、危険を無視する人間は長生きできない。命を賭ける前に力をつけよ、というのが交易都市の冒険者ギルドの教えでもあった。
「ふむ、それはまあ、悪いことをしたな――」
クリスタはナハトの言葉に小首を傾げた。
口ではそう言ったが、別にナハトは罪悪感を感じているわけではなかった。
勿論、そのハウスマンとやらが出動し行方不明になったのは、ナハトが解放した古代魔族が原因であろうことからもナハトのせいだと言える。
だが、そんなことはナハトにとっては些事でしかない。
ナハト自身も故意で行ったわけではない。放っておくのは無責任といえるだろうが、ナハトの中では罪悪感と呼べるものは存在していなかった。これも半人半龍となった影響だろう。かつての徹ならば確実に自室で一人土下座をしていたに違いない。
だが、今はこの状況さえも楽しんでいる自分がいた。ナハトは確実に、古代魔族という未知に出会えることに心を喜ばせていたのだ。
そもそも、古代魔族という名称の固体を閉じ込めておくこと事態ナハトは同意しかねていた。
太古の時代、古代魔族が何をしたのかさえ今はもう分かっていないにもかかわらず、何時までも伝説や常識を理由に自由を縛ることをナハトは好まない。
自由になったそいつが何をするのか、それはその古代魔族の責任だ。もっと言えば、古代魔族に憎しみを与えたかつての人々のせいだろう。
だが、仮にその古代魔族とやらが、ナハトが現状住まうこの場所を襲う気でいるのならば話は別だ。ナハトにはこの場を滅ぼされてはならぬ理由がいくつかある。
大人しくお引取り願うとしよう。
その程度の責任ぐらいは取ってやろう、とナハトは思っていた。だからこそ、邪悪な笑みを浮かべながらナハトは小さな口を開いたのだ。
「辛気臭いな――冒険者と言っても所詮は腑抜けの集まりか――さっさとギルド長に会うとするか」
傲岸不遜なナハトの言葉に苛立つ者が多くいた。
テーブルに杯を叩きつける音や、椅子を蹴落とす音が聞える。
はわわと慌てるアイシャの声がはっきりと聞えた。
苛立ちを顕にする冒険者の中で、剣を帯びた長身の青年がナハトの前に立ち塞がり、大声を上げた。
「てんめぇー! んでそんなに偉そうにしてんだよ! ガキの癖に調子にのんじゃねー!」
それを見たクリスタが慌てて男を制止しようとするが、ナハトはそれを手で制す。
「偉そう? まあ、それでこそ私なのだが、それはいい。
不満か、青年よ。だがな、私も不満ではあるのだぞ? 自らの無力を嘆き、その不満を外に喚き散らし、あまつさえこの私に当たろうとする貴様のような冒険者に興ざめしている所なのだ」
ナハトはやれやれ、とばかりに大仰に肩を竦めて見せた。
「てんめぇ! 冒険者でもねーただのガキが、ランクC冒険者、このヘンリに生意気言ってんじゃねー! いいか、よく聞け! この都市ははもう終わりだ! 俺達にできることは何もねー! カイトの野郎はグリフォンだけじゃなく、喰人鬼や飛竜も見たって言うんだ! それに、それだけじゃねー! あの様子じゃもっとやばいもんを見たにちげーねー!」
ヘンリはカイトと同期で冒険者になった人物だ。
だからこそ、震えながら涙するカイトを見て異常だと思った。
カイトは優秀な成績でCへと昇ったヘンリよりもなお上の才能を持つ、優秀な男だった。常に冷静で、状況を正確に捉え、判断を下せる決断力があった。カイトはヘンリにとって目標ともいえる存在だった。
今回も、交易都市では誰もが知るA級険者ハウスマンにつき従い、依頼をこなすはずだった。羨ましいとは思うものの、ヘンリもその仕事振りは、カイトの努力と熱意は、信頼にも似た何かを感じていたのだ。
だが、帰還したカイトはヘンリに向かって呟いたのだ。
『この都市は、もう駄目かもしれない――お前は、お前達は王都に逃げるべきだ』
それは友人に向けた助言だったのだろう。せめて見知った人間には生きていて欲しい、そう告げたのだ。
だが、言葉の裏側では暗にこう告げてもいた。
お前達程度では、役に立たないだろうと。
「ギルドはDランク以上の冒険者に対して魔物討伐の依頼を出すだろう。それを見越して逃げたやつもいる。だが、それを責めるつもりはねー。俺達は所詮日銭に囚われたただの下民だ。思い入れがなきゃ稼ぐ場所を変えればいい、それだけだからな――」
ナハトは少しだけ、面白そうにヘンリを見た。
「お前は逃げ出さないのか?」
ヘンリはナハトの言葉に皮肉気に答える。
「はっ、俺は交易都市の冒険者だ。家族も街にいるし、平民だから逃げ出せねー。俺だけ逃げたって、きっとそれは、俺が駄目になる。ここに残ったやつは大抵が何かしらここに縛られる人間だ。なら、もう、戦って、死ぬときを待つだけなのさ…………」
ヘンリの表情は、どこか歪んでいて陰鬱としたものだった。
だが、ナハトは対照的に楽しそうに笑っている。
「何が可笑しいんだよ、小娘」
ナハトに向かってヘンリが言う。
「ははは、いやなに、中々に面白い人間もいるものだなと思ってな。口では諦めや哀愁を漂わせているにもかかわらず、心の内では確かな闘志を持っている。お前は、ちゃんと、死に物狂いで戦う気ではいたのだな。だが、それに周囲を巻き込まないため、現実を告げ逃げれる者は逃がそうとする気遣いもしている。私に突っかかってきたのも、周りの不満を爆発させないためか。いや、中々に面白い――」
ヘンリはそんなナハトの言葉に肩を竦めながら言う。
「へっ、随分と妄想が逞しい小娘だな」
と、そこで初めて、ヘンリはナハトという存在を思い出した。
闇の衣を纏ったかのような美姫が冒険者ギルドに訪れたという噂を聞いたのは確か三日前のことだった。その女は、伝説の傭兵デュランを打ち破り、A級冒険者クリスタ・ニーゼ・ブランリヒターを救ったという。
エルフの従者を連れた、絶世の美少女――
「そうか、お前が――」
その噂がどこまで正しいのか、ヘンリは知らないが、一部は確かに正解だと思いナハトを見た。
隙一つない佇まいはそれだけで実力者であると告げているが、そんなことを感じる前に、その美貌に目が眩む。怒りに任せて叫んでいるときは容姿など目に入らなかったが、改めてみると、それはまさに別格だった。
「ははは――今の私は気分がいい――どれ、ここで一つ絶望している諸君等に、希望というものを見せてやろう」
ナハトは高らかに宣言すると、周囲の人間の目を一様に集めた。
自作自演のようだとは思うが、ナハトは今をただ楽しむように舞台に立った。
「さあ、ヘンリとやら、剣を抜け――」
「はぁ?」
困惑するヘンリに、ナハトは剣を抜くよう再び声をかける。
渋々剣を引き抜いたヘンリを見て満足して頷く。
それを見て、ナハトは指を一本だけ立てた。
まるで芸術のように澄み切った人差し指と、紅玉のような指に誰もが目を向ける。
「さて、では全力でかかって来い。無論、ハンデはやろう。私は一歩たりともこの場から動かないことを約束する、加えて、こちらが攻撃に使うのはこの人差し指一本だ」
高らかにナハトは宣言した。
「はぁ? お前、何言って――」
「希望を見せてやるといったのだ。お前達の味方ではないが、お前達に協力するこの私の実力を、強さを、見せてやろう。圧倒的で、絶対的で、どうしようもないほどに恐れ抱く私の力を、勝利への希望とすることを許す」
これ以上の言葉は不要だとばかりにナハトは指で合図を送る。
周りの雰囲気もどこか高揚していて、ヘンリも引くに引けない状況だった。
「怪我、しても知んねーぞ!」
ヘンリは交易都市のギルドの中でもかなりの腕前を持っていることは周知の事実だった。
次の昇格試験ではBランクになれるのではないかという噂も多くある。
それを、指の一本で相手をするなど、最早不可能というしかない。どうぞ、好きな所を斬りつけてくれと言っているようなものだった。
初手、ヘンリは剣の腹で、ナハトを殴り倒すつもりだった。
それは文字通りの手加減だ。
無防備な少女相手に、ヘンリも本気で挑むはずがない。
できる限り怪我をさせないようにと放った一撃は――
「ふむ、聞えなかったのか? 私は全力で来いといったぞ?」
――弾かれた。
金属がひん曲がるような鈍い音だ。
銅を目掛けて放った横薙ぎの一撃は、ナハトがいつの間に動かした一本の指で、弾き飛ばされた。目を見開いたのはヘンリだけではなく周りの人間も同じだった。見るからに重そうな剣撃が、触れば折れそうなほど華奢な指に弾き飛ばされたのだから。
「は――?」
意味が分からない。
ヘンリは手加減はしていたが、体重は乗せ、気絶させるに十分な力を込めたはずなのだ。一方でナハトは宣言どおり一歩もその場から動いていない。
「全力で来い。魔法が使えるならば使うが良い。お前の持てる全てで――殺すつもりでかかって来い」
刹那、ナハトの闘気が爆発する。
ごくり、とヘンリの喉が鳴った。
手加減?
馬鹿を言うな。
先ほどの自分を思わず殴り倒したい気分になった。
そこにいたのは、凡そ人知を超越した何か、だったのだから。
ヘンリは魔力を巡らし、身体能力を強化した。周りにいる人間も、一流は当然にして、三流の冒険者に至るまで、ヘンリが本気になったことに気がつく。
それは、決して少女に向けていいものではない。
だが、ヘンリは長剣の刃を真っ直ぐナハトに向いていて、殺気まで放っている有様だった。
ギルドの床を踏み抜くような鋭い一歩。
ヘンリは再び横薙ぎの攻撃を放つべく、正面に構えた剣を引いた。
「武術――水薙ぎ!」
それは攻撃の早さを重視した一撃だった。
水面を波紋すら立てずに切裂く剣閃をナハトの龍眼が確かに捉える。
刹那。
リィィィイン、と高い音が鳴った。
そんな音を聞いた時にはヘンリの手は痺れを通り越して麻痺していた。空を掴むように広げたその手の中に剣はない。
「ふむ、いい一撃だ。これからも精進するがいい」
ふと、天を見上げると、そこには天上に突き刺さった剣が寂しそうに輝いていた。
「「「う、ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」」」
歓声が上がる。
ナハトはそれに満足そうに微笑んだ。
「お前、いや貴方は一体……?」
ヘンリの言葉にナハトは笑む。
「私の名はナハト。親愛を込めてナハトちゃんと呼ぶがいいぞ」
高らかに宣言するナハト。
大歓声と求愛の声などを聞いて、ナハトは満足したように頷く。
「うむ、やはりギルドとはこうでなくてはな」
ナハトは誰にも聞えぬようにそう言って、かつての住処を思い出した。
興奮が満ちたそんな中で――
「何の騒ぎじゃ、これは?」
白熊ことギルド長ニグルドが少女と少年を連れて、やってきていた。
ギルド長は周囲を見回し、ナハトを見つけると嬉しそうに言葉を発した。
「おお、ナハト殿――来ていただけ――」
だが、その先の言葉は発することができなかった。
この場に満ちていた大気が、軋んだ。
金色の瞳が光の残滓だけを残して消える。
ギルド長の――元A級戦士の瞳からもナハトの姿が消えたように見えた。
突風というべき凄まじい風が、衝撃が、机や椅子を吹き飛ばす。
瞬間移動でもしたかのようにナハトはギルド長の横にいた。
「な、何を……」
ギルド長の言葉にもナハトは答えない。
「ふぇ……?」
黒装束を着込んだ少女が、すぐ傍に一瞬で現れたナハトに脅えるように声を漏らした。
そんな少女を、ナハトは掴んで――
黒装束をひん剥いた。
周囲から発せられる敵意に似た威圧をものともせず、ナハトはそれを掴み上げた。
「追跡されていたな――」
半裸になった少女が悲鳴を上げると同時。
胸元から引き抜かれたナハトの手には黒いトカゲがもぞもぞと動いていたのだった。




