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前から歩いて来る女性の黒い髪にディランは息がつまった。
女性は自分に気づくと恥じらうように微笑んだ。彼女が通り過ぎるとディランはこみあげてきた苦い思い出と痛みをため息とともに吐き出した。
ディランは幼い頃から美貌の母にそっくりな顔目当てにしつこく寄ってくる女性が大嫌いで、なるべく接しないようにしていた。
しかし、ある時。友人に頼まれたからと母に乞われて渋々会ったシンシアと婚約させられた。ディランは優しい母を騙してまんまと婚約者の座に納まった卑劣なシンシアに腹が立ち「おまえの思い通りにはならない」と徹底的に叩き込んだ。それでもシンシアはしぶとくまとわりついてきたがそのうち関わってこなくなった。
しばらくはやっと静かになったと喜んでいたが。だんだんと父親にごねてまで婚約した自分には人形のような冷たい顔しか見せないくせに、仲の良い弟や友人たちに愛らしい笑顔を振りまくシンシアにイライラしてきて。母に心配されたこともあり渋々こちらから声をかけるようにしたが。いつ会ってもかわいげのない態度をとる彼女にディランもついきつい言葉を放ってしまう。
そんな自分を気の毒がった母やシンシアの父はシンシアを叱ってくれたがますます意固地になるばかりで。頑固なシンシアを憎らしく思いつつも、それでも婚約しているのだからいつかはわかり合えると根気強く接した。
しかし、ディランの奮闘もむなしく2人の関係は変わらぬまま学園に入学した。シンシアは両親の目が届かないことを理由に「お互いに好きに過ごしましょう」と一方的に決めて、定期的な交流日以外には関わろうとしない。
シンシアに蔑ろにされる怒りとみじめさで疲れていた自分の心の傷を理解し慰めてくれたのがニーナだった。
皆に優しいニーナはどことなく母に似ていて「ディラン君は優しいんですね」と温かな笑顔を向けられると心が満たされる。
ある時、落ち込む自分を心配するニーナに心情を打ち明けると「自分がわがままを言ってディラン君と無理やり婚約したのに無視するなんてひどいわ!!」と怒ってくれた。自分をわかってくれたことがうれしくて、いつも愛くるしい笑顔のニーナと過ごす時間が癒しになっていった。
一方で婚約者の自分のことは無視するのに、友人の兄のレイモンド・フリージア侯爵令息に無邪気に微笑みかけるシンシアを目にするとどす黒い感情が溜まっていく。
そして「学園祭には1人で参加する」と婚約者の自分のエスコートを拒んだシンシアに爆発した怒りにまかせて本音をぶつけてしまった。しかし、シンシアはディランの心からの訴えも凍てつくようなまなざしで切り捨て、友人と一緒に去って行ってしまった。
一方的な拒絶にディランは深く傷ついた。一緒になって抗議してくれたニーナは呆然とするディランを助け出し、2人きりになると涙ながらに訴えた。
「ディランはこんなに優しいのにっ。ろくに話も聞かないで罵るなんてひどいわ! 私だったらディランといられるだけでうれしいのに」
「ニーナ……」
ニーナの潤んだスカイブルーの目と震える声にディランは彼女が自分を愛していることにようやっと気づき、すがりついてくる彼女を抱きしめた。
このままニーナの愛を受けいれたくなる。しかし、まぶたの裏にシンシアの笑顔がちらついてディランはそっとニーナを離した。傷ついた目をする彼女に謝る。
「……すまない、ニーナのことは好きだ。けれども、婚約している以上は彼女のことを捨てられない」
「……そう、なのね」
ニーナはディランの言葉に傷ついたように顔を伏せたが、いつものように笑顔を浮かべて見上げた。
「わかった。でも、私、このままディランがあの人に悪く言われっぱなしでいるのは許せないっ。だから、一緒に学園祭に参加して、ディランは素敵な人なんだって見せつけてあの人を見返してやりましょう!」
自分に寄り添ってくれるニーナの健気な想いと自分を拒絶するシンシアを「見返してやる」という甘美な響きに感激してディランはうなずいた。そして、ニーナと楽し気に過ごす姿を見せつけて、自分のわがままで1人寂しく学園祭に参加するシンシアを見返してやる。そのつもりだった。
――お揃いの色を身に着けて笑顔で寄り添うシンシアとレイモンド。そして、シンシアの怒りのこもった本音をぶつけられて心が砕け散るまでは。
*****
気がつくとディランはさっきまで慰めていてくれたニーナと一糸まとわぬ姿でベッドで横たわっていた。
わけのわからぬまま連行されるように家に帰され、そのまま険しい顔で待ち構えていた兄に部屋に閉じ込められた。
翌朝、疲れ果てた顔をした兄によると、ワインに酔った自分は休憩室でニーナと関係を持ったところを複数の生徒たちに見つかり、学園中の騒ぎになってしまったため謹慎処分を下されたとのことだった。
ディランは酔っていて記憶がないとはいえ大切な友人のニーナとそういう関係になったことにショックを受け、人目にさらされたことに青ざめたが。兄はそんなディランを軽蔑したような顔で見やった。
「おまえは学園中の噂とやらの通りその男爵令嬢とやらが大事だったのだな」
「噂? 何のことです?」
「とぼけるな。おまえがずいぶんと前からふしだらな男爵令嬢と愛し合っているという話だよ。他家からおまえたちの不貞の証言と苦情が殺到していて父上はずっと弁明に駆け回っている。
……はあ、おまえもバカなことをしてくれたものだ。そんなにその男爵令嬢が好きならば、昔から嫌っているライノーツ嬢とすぐに婚約を解消してその女と婚約させてやったのに」
「嫌ってなどいません!! ただ、シンシアの態度が悪かったから厳しく言っていただけです!」
「……そうか。おまえが何も反省していないということが良くわかったよ」
ディランは抗議したが兄はとりあわずに出て行った。
その後、何も知らされないことにもやきもきしながら数日間部屋で謹慎した後。ディランはくたびれた顔をした父に呼び出され、学園を退学して領地に行くように命じられた。
大勢の前で醜態をさらし各家からにらまれた以上はしばらくは学園に戻れないことは覚悟していたが、まさか退学になったことにショックを受ける。ふとシンシアとの婚約が気になって尋ねると父は兄そっくりな冷たい目をした。
「ライノーツ嬢とはおまえの有責で婚約破棄した。彼女のことは忘れろ。
一応、言っておくが。おまえが本当に愛している令嬢も退学した。望み通り婚約させてやろう。
以上だ。部屋に戻って支度をするように」
一方的な話が終わると口を挟む間もなく追い出された。シンシアとの婚約がなくなったことやニーナとの婚約に呆然としながら部屋に戻ると、泣き腫らした目をした母が飛び込んできた。
「ああ、ディラン。ごめんなさい。シンシアちゃんったら全然話を聞いてくれないの。旦那様も『おまえはもう余計な口を出すな』としか言ってくれないし。あの子ったらいつまでも素直になれなくて、あなたにひどいことばかり言って!! 自分のせいで違う女の子にちょっと気が向いただけなのに見捨てるなんてひどいわっ!!」
泣き崩れる母にディランは母が繰り返し言っていた言葉と学園祭のシンシアの言葉を思い出した。
――シンシアちゃんはあなたに恋をして婚約したのよ。あなたたちもきっと私たちのように想いあって幸せになるわ。
――私もあなたと同じぐらいあなたが嫌いです。恋人ができたからと嫉妬なんてしません。ですから、ただ父に言われて婚約しているだけの私を2人の真実の愛とやらのスパイスに使うのをやめてください。
ディランは心から大切な何かがこぼれ落ちていくのを感じながら、弱々しく泣きじゃくる母を見つめた。
その後、ディランはニーナと婚約して領地に向かった。何も知らない領民たちは温かく受け入れてくれたが、時折黒髪の女性を見ると心が鋭く痛む。
――どうしたらシンシアは自分にあの笑顔を見せてくれたのだろうか。
答えの出ない問いは今日も心の傷を広げていく。
これで完結です。最後まで読んでいただきありがとうございました!




