膿んだ傷跡 (2)
マクシミリアン・ガードナー及びウィリアム・ガードナーは、王都に近い小さな僧院に埋葬されていた。
彼らの死に余計な関心を持たれたくないという思惑から、埋葬場所はごく一部の人間を除いて公には知らされていない――埋葬したウォルトン副団長から、マリアはその話を聞かされた。
花をたむけにきたマリアは、ガードナー伯爵の墓の前にたたずむ男に目を丸くする。
マリアと同じく、飾り気のない黒い衣装をまとったエンジェリク王だ。
その表情はどこか虚ろで、亡き近衛騎士隊長を偲んでいるようで。マリアは静かに踵を返そうとした。
「……オルディス公か。よい。マクシミリアンたちに、花をたむけてやってくれ」
王に呼び止められ、マリアは墓前に近付く。そっと花をたむけるマリアに、王は話し続けた。
マリアに話しているというより、それは独り言に近かった。
「マクシミリアンと初めて会ったのは、まだ余が王太子の時でな。あやつも少年と呼ぶべき年の、頼りない騎士見習いであった。それでも余を守るため腕を磨き、気が付けば近衛騎士の隊長にまで……。長年忠義を尽くして王を守った男が、このようなわびしい僧院の片隅で人目を避けるように埋葬されるなど……あってはならぬことだ……」
顔を背け、王はグッと目元を押さえていた。
「……すまぬな。年を取り、感情の抑制が難しくなってきた。即位したとき、感情など捨て去ると誓ったはずだというのに。いよいよ余も、王座を退く時が来たのだろうな」
「次の王へと時代が変わり、時が経てば、ガードナー隊長の功績も再び日の目を見る時が訪れることでしょう。陛下にとっては、かえって心安らかにお過ごしいただけるやもしれません」
マリアは控えめに微笑み、王を見上げた。
「ですが、いまはまだその時ではないと――他ならぬ陛下ご自身が、それをよくご存知ですわ」
王に対して気安い口調だと自覚していたが、王はいま、それを求めている。なぜか、マリアにはそう思えてならなかった。
王は気を悪くした様子もなく、フッと笑みをこぼした。
「なかなか厳しいことを言う。年老いた余に、まだ働けと」
マリアたちを照らす日差しは眩しく、暑い。
今年は春の朗らかさを楽しむ余裕もないまま、気づけば夏がもう目の前。
この時期に黒の喪服は、いささか着ている者の体力を奪った。
「場所を変えよう。もう少し、年寄りの思い出話に付き合ってくれ」
王について、マリアは僧院の中に入る。
門から入ってすぐの場所で待機していたナタリアの前を通り過ぎるとき、王は、侍女も中で待たせるとよい、と声をかけた。
ララは僧院の外だ――異教徒の彼は、さすがに僧院に足を踏み入れることをためらった。
門の前に立っていた熟練の騎士たち。いまさらながらに、あれは王の護衛をしている者たちだったのだとマリアは気付いた。しかしあれは、近衛騎士ではなかった。
あの騎士たちは、ニコラス・フォレスター宰相の私兵だ。宰相の屋敷で見かけたことがある。
王を守る騎士は、本来ならば近衛騎士隊の隊長が選ばれる。しかしガードナー伯爵が辞職し、その後任はいまだ定まっていない。隊そのものが壊滅状態にあるのだ。隊長を選んでいる余裕がない。
……もしくは、王がガードナー伯爵の替わりなど選びたくないのかもしれない。
小さな僧院は人が少なく、年老いた修道士と時折すれ違うだけだった。
客用の小さな休憩室の、質素な長椅子を指して王がマリアに座るよう促す。王の厚意に従い腰掛けるマリアの前に、跪くように王が座った。慌てるマリアに構わず、王がマリアの顔に手を伸ばす。
じっと、マリアの瞳を覗きこんでいた。
「そなたの目はマリアンナと同じだ。マリアンナ・オルディスのことは知っておるか?」
「私の大伯母様――陛下の最初のお妃様ですね」
マリアの祖父の姉。残念ながら、顔は知らない。先祖の絵は強欲な伯母が紛失させてしまい、祖先の顔は分からない状態だ。
ただ、マリアの目元は母、伯母、祖父ともにそっくりらしい。きっとこの緑色の目は、オルディス家代々のものなのだろう。
「聡明で、おっとりした見た目に反してなかなか気の強い女性であった。余が弱音を吐けば、容赦なく叱ってくるような有様で……いつも余の心に寄り添ってくれた。余と彼女の間に情熱的なものはなかったが、マリアンナは余をよく支え、良き妃であった……」
マリアを見つめる王の目は、どこか遠くを見ている。
きっと、マリアの中に見える大伯母の姿を王は見ているのだろう。
「キシリアの王妃アルフォンソ様は、ガードナー家のご婦人方を歓迎してくださっているそうです。キシリアで不便なきよう、心安らかに暮らせるよう、精一杯もてなしたいと」
マリアから仔細を聞かされた王妃は、手紙でそう返事をしてくれていた。
アルフォンソ王妃ならば安心だ。エンジェリク王も頷く。
「キシリアの王は、良き伴侶を得ておるのだな。いや、王が良き夫であるからこそ、王妃とも強い絆で結ばれておるのかもしれん。それを思えば、ジゼル王女が余に反発していたのも、やはり余の責任が大きい。気の毒なことをした。あの頃の余は特に周囲を思いやる余裕がなく、孤独な王女に寄り添ってやれなかった」
外国からたった一人で嫁いできた王女。国のために差し出され、その祖国すら滅んでしまった。王宮での孤立は、想像もできぬほどのものであっただろう。
マリアは黙って王の話を聞いていた。
「ヒューバートに最後に会ったのは、あれが八つの時だ。母親の葬儀で――王女に拒絶されていたのをいいことに、病床にあった彼女を見舞うことすらしなかった。葬儀の場で顔を合わせたヒューバートは、母親の死に涙を流すことすらせず。すべてを諦めたように淡々とした様子で……。感情を封じ込めてしまった息子に、自分の罪を見せつけられているような思いがした。それ以来、余はずっとヒューバートから目を逸らし続けていた」
自嘲する王に、マリアは意外な思いがした。
ヒューバート王子のことを語る王は、息子への後悔と罪悪感をにじませている。父親としての情すら感じられて――チャールズ王子には、他人行儀なほど冷淡だったというのに。
私的な場面だからだろうか。
「長年会おうともしなかった息子に、自分ができぬからと友を討たせるとは。余はまこと、人の親には向かぬ男よ。そんなところは、余も父親に似たということだな」
先王陛下。
先進的な豪傑と言われ、いまも偉大な王としてエンジェリク国民は慕っている。
もっとも、晩年には偉大な王の人格にも陰りが見えていたのだが……死後、後ろ暗い部分については、人々は都合よく忘れてしまったらしい。生前は、批判的な意見も確かにあったというのに。
「大胆不敵にして革新的な王――遠くからあの男を眺めていた者の目には、そう映ったことだろう。近くにおった者は、あの男にどれ程振り回されたことか。あの男の息子に生まれたばかりに、余は生涯に渡ってあれの後始末に追われる羽目になった。即位して最初に余が行ったことと言えば、諸侯に頭を下げて回ることだ」
先王は、悪く言えば独善的な男であった。
旧い慣習を打破し、停滞していたエンジェリク宮中を大きく動かした――それは、必ずしも良いこととは言えない。
長年積み上げられてきたものを、強引に動かしたのだ。軋轢も反発も当然多くあった。
それを無視して良い結果だけが語り継がれているが、いまの王が即位した頃にはその綻びも無視できないほど重篤と化していた。
だから王は、時計の針を巻き戻した。
先王の横暴に耐えかねて城を離れてしまった貴族たちを頭を下げて呼び戻し、先王の独断で行われた政策を白紙に戻し――いったんもとに戻さなければ、次に進むことはできない。
そういった王の姿だけを見て、弱腰で保守的な国王と揶揄する声もある。エンジェリクを建て直そうとする王の努力と判断は、たしかに先王に比べれば地味で、一見すると分かりにくい。
その煮え湯を、王が何度飲まされてきたことか。
「屈辱も、マリアンナたちがいたから余は耐えることができた。しかし余は、共に耐えてくれた同志に何一つ報いることもできず……。マリアンナの子を王にしてやることもできず、ギルバートを城より去らせ……挙げ句、マクシミリアンまで裏切り者の汚名を着せて死なせてしまった……」
マリアの祖父ギルバート・オルディスは、マリアンナが妃として王から強く寵愛されたために政治から離れることになった。
王太子時代から苦楽を共にした王子妃への愛情は、彼女が亡くなった後も……王が新しい妃を迎えた後も、揺らぐことはなかった。特に、王太子として期待される王子も、マリアンナ妃は生んでいて。
マリアンナ妃の弟であるギルバートは、王から強く信頼されていた――それは、諸侯たちの不安を招く。
先王のように、一部の臣下だけを寵愛し、自分たちは蔑ろにされるのではないか。
その不安を払拭させるため、王妃の外戚であるギルバート・オルディスは城を去り、自ら領地に引っ込んだ。
当時は、そうでもして諸侯を城に留めねばならぬほど、王の足場は脆かったのだ。
「……マリア。そなただけは奪わせぬ。オルディス公爵を、二度も手放してなるものか」
王の声の暗さに、マリアは目を見開く。王の手が、膝の上に置いてあるマリアの手と重なる。
――王から離れたほうがいい。
そう判断するのが遅すぎた。王の手を振り払って立ち上がるよりも先に、マリアは長椅子の上に押し倒されていた。
「陛下、お戯れを……!」
「戯れに見えるか。余はそれほど甘い男ではない。そなたがヒューバートに近づいていることも見抜いておる。目的までは分からぬが……レミントン候や、その取り巻きが気付けば、ヒューバートごと消されるぞ。そのようなことは余が許さぬがな」
服を引き裂かれながらも、マリアは王の言葉をはっきり聞き届けた。
宰相がマリアとヒューバート王子の接近を知っているのだ。王が知らぬとは思っていなかった……が、ここまではっきりと言い切られるとは。
王の身体を押し返す手を止め、マリアは自分に覆いかぶさる王を見上げる。血の気が引いている自覚はあった。
「陛下に守っていただく代わりに、この身を捧げよと?」
声が震えそうになる。
目の前の男に屈さなくてはならない怒りなのか、王をはねのけられない自分の無力さに対する悲しみなのか。それは分からなかった。
「そのような無粋なことを言うつもりはない。ただ単純に、余はそなたが欲しくてならぬだけだ。逃げたければ、逃げるがよい」
ますますもって、自分がまずい状況に置かれていることをマリアは痛感した。
単なる一時の慰めで王がマリアを求めると言うのなら、それに応えてもいい。
だが王は、マリアを自分のものにしてしまいたいのだ。それは、安易に対応してよいものではない。
もともと、王はエンジェリクのためにマリアを欲していた――だから、宰相にすら相談せずチャールズ王子の婚約者に定めた。
キシリアとの繋がりがあり、エンジェリクにとって有用な存在だったから。あくまで、国のため。
それがいまや、王個人の感情でマリアを求め始めている。
王の寵愛……それは、この上ないマリアの強みになるが、それと同時に、この上ない弱みにもなる。
拒むべきか――受け入れるべきか。誤れば、破滅する……。
「チャールズがそなたに興味を示さぬのは分かっていた。あれは、余のすることには全て反発したがるからな。余が選んだ。それだけで、最初から否定しにかかるだろうと」
だから王子の婚約者であろうと、ためらうつもりはないと。
もともと純潔ですらない女だ。王子が捨ておくのなら、マリアと王の関係にすら気付かないかもしれない。
両手をしっかりと押さえつけられ、唇を塞がれる。王からの口付けを受け止めながらも、マリアは必死で考えた。
このまま噛みついて抵抗すべきなのか、いっそ、見せかけだけでも従順に振る舞うべきなのか。
王の寵愛を都合よく利用できるほどの器量が、自分にあるのか……。
マリアが答えを出す前に、一人の男が部屋に入って来た。
「陛下。無体な真似は、それまでになさってください」
ニコラス・フォレスター宰相だ。
宰相の後ろにはマリア以上に血の気を失い、真っ青になったナタリアがいる。ぎゅっと唇を噛みしめ、叫び出したくなる衝動を堪えているようだった。
「どういうつもりだ、ニコラス」
「ここは、マクシミリアン・ガードナーの死を悼む場所。そのような場所での情事は、お控え頂きたいのです。マクシミリアンは、私にとっても友でありました……どうか、今回ばかりは」
王とマリアの様子に動じた様子もなく、宰相が目を伏せ、頭を下げる。
王もマリアから離れ、静かに長椅子から立ち上がった。マクシミリアン・ガードナーの名は、王の心を動かした。
「……そうであったな。余の行いは、マクシミリアンへの冒涜だ。すまなかった」
いえ、と頭を下げたまま答える宰相の横を通り過ぎ、王は部屋を出て行った。
王の姿が見えなくなるとすぐにナタリアはマリアのそばに駆け寄り、持っていた上着をマリアにしっかり着込ませる。王に服を引き裂かれ、マリアの胸元が露わになっていた。
長椅子に呆然と腰かけたままのマリアに静かに近寄り、宰相が声をかける。
「陛下の執着を侮るなと、忠告したはずだ」
「返す言葉もございません。まさか、あそこまでとは思わず」
実際に、そこまで執着されているとは思ってもいなかった。
エンジェリクの王は、感情というものが見えない。宰相のようにポーカーフェイスというわけでもないのに、人間らしい顔というものがいままで見えなかったのだ。
今日のやり取りが信じられないぐらいで――いまも、あれは白昼夢だったのではないかと思うほど、現実感がない。
「マクシミリアン・ガードナーを失ったことで、陛下も貴女に対する執着がより深まったようだ。喪失感の穴埋めをしようと……」
乱れたマリアの髪を撫でながら、宰相が言った。
マリアを見つめる目には憐憫の色がある。王に執着されてしまったことを、本心から気の毒に思っているようだ。
「次は私でも助けられん。陛下と二人きりにならぬよう、気をつけることだ。陛下の執着に引きずり込まれたくないのならな」
男から薄暗い欲望を向けられることには慣れている。
慣れているはずなのに、マリアはなぜか身震いした。
いままでのように、その欲望を煽って利用すればいいと割り切れるだろうか。
失敗すれば、その力をもって確実にマリアを屈服させることできる相手だというのに。




