花が咲く
翌朝、マリアはまだ怒りを抱えたままシルビオとヒューバート王子の稽古を眺めていた。
オフェリアにすら不安な顔をされてしまい、妹のために笑顔を必死で取り繕う。
こんなことで苦労させられるだなんて。あいつら絶対に許さない、楽に死ねると思うなよ――という、物騒な考えは押し殺して。
「サミュエル・プラントと、ガスパルというキシリア人、自分が調査を引き継ぎます。シルビオ殿もオルディス公爵も相手に顔が知られていますから、面識のない自分が一番動きやすいと思うので」
そう言って調査へ行ってしまったマスターズを、本当はマリアも一緒に追いかけたかった。しかしメレディスからやんわりと、シルビオからきっぱりと反対された。
――ここでガスパルに逃げられたら、二度と見つけられなくなるぞ。
シルビオのこの言葉に、さすがのマリアも思いとどまった。
ガスパルはキシリアの貴族であった。キシリアの王に仕えていた――ふりをして政敵フェルナンドと通じた裏切り者。
父の愛妾エマは、父が逮捕された際、幼い息子を連れて逃亡することになった。三歳の幼子を連れた彼女は逃亡の旅を続けるより知人を頼ることを選び、ガスパルが裏切り者であることを知らず彼のもとへ逃げ込んでしまった。
父から裏切りを知らされた友人がエマ母子救出とガスパル捕縛に向かったが、ガスパルの逃げ足のほうが速かった。エマたち母子を監禁したままガスパルは逃亡、残された母子は衰弱し、幼い弟は……。
オフェリアが上げた歓声で、マリアは我に返った。
ついにヒューバート王子が、シルビオの持っていた細い木の枝をへし折ったらしい。剣で殴っただけでも折れてしまいそうな枝だったが、それでも前回の稽古では曲げることすらできてなかった。
ヒューバート王子はシルビオのしごきに耐え、著しい成長を遂げていると思う。剣に振り回されているだけだったのが、今日はきちんと剣が振れている。
シルビオも満足したのか、一度休憩だ、と王子を休ませた――こちらに向かって馬を走らせる、ノアの姿も見えてきたことだし。
「遅くなってすいません。マルセルのことを調べていたので、時間がかかりました」
馬から降りるなり、ノアが本題を切り出す。
おじのいる執務室へ移動し、マリア、シルビオ、ヒューバート王子はノアからの報告を聞くことになった。
「本名はマルセル・ド・ルナール。父親はラプラス王家に仕えていたフランシーヌ貴族の軍人です」
「ラプラス王家に仕えてた貴族が、よく生き残っていたわね」
革命により、ラプラス王家とそれに近かった貴族は大半が処刑されている。国外へ脱出して生き残った者もいるが、フランシーヌに留まって生き残っているのは本当にごく少数だろう。
「マルセルの父親ルナール将軍は、現在のフランシーヌ皇帝デュナンのかつての上司です。平民出身の彼に目をかけ、准将にまで引き上げた張本人。革命時にルナール将軍は捕縛され、デュナンが将軍となりました。そしてデュナンによって放免され、彼の下に残っていたようです」
革命のリーダーの恩人だったから許された、というわけか。そんな男の息子がヒューバート王子のすぐそばに……やはり不安しかない。
「エンジェリクに来たのは数か月前。フランシーヌからキシリアを経由してプラント侯爵領にある港に到着し、このオルディスに働きに来たようです」
外国人が働く場所としてガーランド商会を選ぶのは無難ではある。商会には他にも外国人が多く、様々な人手を募集している。
ヒューバート王子がオルディス領に来ることになったのも、前から決まっていたものではなく突発的なこと。王子を狙って働きに来たとは考えにくいが……。
「マスターズ様と共に、サミュエル・プラント、ガスパルの双方を私も調べてみます。マリア様、こまめに報告しに来ますから勝手に動いてはだめですよ」
「ノア様までそんなこと言って」
マリアが頬を膨らまし拗ねてみせれば、前科が多過ぎるのです、とノアからお説教されてしまった。信頼されていないな、とシルビオに笑われた。
ノアが執務室を出ていくのと入れ替わるように、オフェリアが入って来る。マリアとヒューバート王子を引っ張り、お外に行こうよ、と誘ってきた。
「もうすぐお水がここまで流れて来るよ!夕方からはお祭りだって。お姉様もユベルも一緒に見に行こうよ!」
工事のために一時断水をしていた用水路は、工事の完了後最終確認を経て、今日水を流すことになっている。復興を祝ってちょっとしたお祭りも行われることになっており、オフェリアはマリアや王子と一緒に行きたくて、ずっとそわそわしていた。
「マリア、私からもお願いするよ。公爵のマリアからも領民に労いの言葉をかけてあげてほしい」
領主のおじも、この開通祝いには当然参加する。
憎らしい人間のことはいまは忘れ、マリアも公爵として公爵領のめでたいことを素直に祝うことにした。
外に出れば、領民たちの喜ぶ声があちらこちらから聞こえてくる。用水路に流れる水に、誰もが歓喜の声を上げていた。この水は、領が繁栄を取り戻す証でもある。
祖父の慰霊碑がある場所まで馬車で移動している間、オフェリアは窓から外を眺めていた。馬車を見かけた領民たちがときおり手を振って来るのを、笑顔で返す。馬車にはおじとマリア、オフェリア、ヒューバート王子が乗っていた。
シルビオにも同乗を勧めたが、馬がいいと断り、後ろからついてきている――馬車よりも馬がいい彼の気持ちは、マリアもよく理解できた。
オルディス家の墓とは別に、亡くなった祖父を悼む慰霊碑がオルディス領にある。十五年前の大火災で亡くなった祖父と、同じ火事で亡くなった者たちを祀り、祈りを捧げる場。
もとは出火原因である廃墟があった場所で、辺り一面焼き尽くされた悲しくも寂しい風景であった。
その場所に、今日は領民たちで花を植えることになっていた。
すでに慰霊碑の前には領民が集まり始めており、領主と公爵の到着を拍手で歓迎してくれた。
花はガーランド商会から提供してもらった。植える花の用意をするガーランド商会の従業員の中に、マルセルの姿はない。
「マルセルなら事務所で留守番役をしてもらってるよ。従業員のほとんどがこのイベントに駆り出されてしまうから、最初から誰かは残ってもらう予定だったんだ」
マリアに花を渡しながらメレディスが言った。
このイベントには必ずヒューバート王子も参加することになるだろうと思っていたので、彼らの配慮は有り難い。
オフェリアが王子も一緒がいいと強く懇願するのはわかっていた。そしてマリアも王子も、そのおねだりを拒めない。マルセルの視界に入らないよう気を付けるしかないかと考えていたのだが、それらしい理由で最初から不在なら安心だ。
「マリア、そろそろ人も集まってきたことだし、花植えを始めよう」
おじに声をかけられ、マリアも一緒に慰霊碑の前に立つ。
慰霊碑の周りは花壇用の土が整えられており、一番最初に花を植えるのはおじとマリアの役目になっていた。
花を植えるためにおじが屈むのをマリアは支える――杖の補助もあって歩行は問題ないのだが、屈むといった行動は左脚の不自由なおじには難しいことだった。
おじは、手が汚れるのもためらうことなく花を土に植え込んでいく。マリアもそれを手伝い、周囲は静かにそれを見守ていた。
時々鼻をすする音が聞こえるほど、あたりは静かだった。
オルディスを長年苦しめた悲劇。失った命と歳月を思えば、領民たちの心に悲しみが浮かぶのも当然だ。
無念のうちに亡くなった祖父のことを、マリアも想った。きっとおじも、祖父のことを偲びながら花を植えてくれていることだろう。彼の真剣な表情が、それを物語っている。
「ギルバート様。どうか安らかにお眠りください。まだ胸を張れるほどの男にはなれていませんが、必ずやあなたの志を継ぎ、オルディスに平和と繁栄をもたらしてみせます」
慰霊碑に向かい、おじが言った。
土まみれになったおじの手が、マリアの手に重なる。マリアはそれを振り払ったりせず、優しく握り返した。
「皆もどんどん花を植えていってくれ」
おじはそう言って、明るい笑顔で領民たちに振り返る。
領民たちも慰霊碑に近寄り、花を植えていく。おじは領民たちに丁寧に声をかけ、身体が不自由で花植えが難しい者などは自ら手伝った。
オフェリアもヒューバート王子と一緒に花を植えていた。さすがに花を育ていることを趣味にしている王子は、花の植え込みにも慣れている。近くで花を植えるナタリアやベルダにまで花の植え方を的確に指導していた。
シルビオは勝手がわからないようで、メレディスにすらダメ出しされている。
「もうちょっと優しく持たないと、根が千切れるよ」
小さな鉢から花を取り出すことすら苦戦するシルビオは、眉間に深い皺を刻む。
「……もう器ごと土に埋めればいいんじゃないか」
「それじゃあ大きくなれないんだってさ」
「ならば植えたあと器を壊せばいい」
「和やかなイベントなんだし、もうちょっと平和な発想しようよ」
思わずマリアがくすくすと笑い出せば、二人が振り返った。
「二人が友達になったって、本当だったのね」
マリアの言葉に、シルビオとメレディスが揃って盛大に顔をしかめる。
「ともだ……友達?友達と言ったか、いま」
シルビオの顔は、俺はエンジェリク語を誤って覚えたのか、と言いたげだった。なんとなく、その感覚はマリアにも覚えがある。
「ノア様の手紙に書いてあったの。ガーランド商会がロランド王の招きを受けてキシリアへ行った際、メレディスがシルビオと親しくなっていたって」
ノアからの手紙にはこのように書かれていた。
――マリア様。キシリアにて、メレディス君はシルビオと仲良くなったようです。
浮気者なマリア様が可愛らしくも憎たらしいという点で意気投合し、その後、浮気が許せないならそっちが別れればいい、という論争に発展して、最終的には夕陽が見える丘で殴り合っておりました。
大変、微笑ましかったです――
最後の一文に、マリアは二度見どころか思わず三度見ぐらいした。そして辞書まで引っ張り出して読み返してみた。
この内容のどこにも微笑ましさを感じられる部分はなく、自分は誤ったエンジェリク語を覚えてしまったのかと思ったからだ。
「友達、なのかなぁ……?」
メレディスは首を傾げる。
「否定しないということは、夕陽が見える丘で殴り合ったというのは本当なのね」
「それは事実だ。こいつ、キシリアに来て絵を描いていただろう」
シルビオがメレディスを指差して言った。
そういえば、メレディスはキシリアの王都ドラートの絵を描いている。それも、夕陽が沈む時間帯を狙って。あの風景が見える場所なのだから、当然夕陽も見えるはずだ。
……そこで殴り合ったのか。
「軟弱そうな見かけに反して、やたらと打たれ強い奴だった。殴られても怯まないというのは、さすがの俺もやりにくかった」
「痛みには強いみたいで」
メレディスは何気なく言ったが、マリアは苦笑するしかなかった。
メレディスは、父親から虐待同然の躾けを受けて育った。だから打たれ強く痛みに耐性があるのだろうが……あまり笑い話にはできないことだ。
おじを見習い、マリアも花を植える領民たちの様子を見て回った。皆、様々な想いを抱えているだろうが、それでも花を植える表情は明るい。
マリアは祖父のために建てられた慰霊碑を見た。
――伯母やいとこを死に追いやり、おじを誘惑して乗っ取ったオルディス家。
自分を正当化するつもりはなかった。それでも、公爵領のために尽力したマリアのことを、少しぐらいは祖父も誇ってくれるだろうか……。
慰霊碑の陰でこっそり花を植える男に、マリアは思わず近寄った。
「あなた、ダニエルじゃないの。昔、オルディス家で働いていた」
呼ばれた男が顔を上げ、マリアに会釈する。
やはりそうだ。ダニエル・バンク――オルディス家の働いていたかつての召使いで、十五年前のオルディスの大火災の真実を知る数少ない人物。
ジェラルド・ドレイク警視総監の保護を受け、王都で暮らしているものだと思っていたのに。
「マスターズ様というお役人について、オルディスへ来させてもらってたんです。旦那様や、仲間たちの弔いがしたくて……」
「もちろん歓迎するわ。そんな隅ではなく、慰霊碑の前にぜひ花を植えてあげて」
マリアの勧めでダニエルが慰霊碑の前に移れば、おじもやってきた。おじは、ダニエルの姿を見て心から喜んでいる。
「ダニー、本当に生きていたのか。君にまた会えてうれしいよ」
「ご無沙汰しておりました、婿殿」
ダニエルはおじにも敬意を払った。
「……婿殿、お会いすることがあれば、私はあなたに謝罪しようとずっと思っておりました。旦那様に連れられ屋敷へやってきたあなたを、私はずっと軽んじておりました。しかし十五年前の大火災――あの悲劇から今日まで、誰よりも献身的にオルディスを支えてきてくださった。それほどまでに心を砕いてくださった御方を……私は、己の浅はかさを恥じ入るばかりです」
「そんなこと」
おじは明るく笑い飛ばした。
「支えたと言っても、結局何ができたわけでもない。マリアが現れるまでの十四年、どうにもならない現状を引き延ばしていただけだ」
それでも、どうにもならないオルディス領をおじはたった一人で最後まで支え続けてくれた。何の縁もないはずなのに、見捨てることなくずっと。おじがいなければ、きっとオルディスはとうの昔に破産していた。
おじが、オルディス領を守ったのだ。その事実は変わらない。何があろうと。おじを婿に迎えた祖父の判断は、正しかった。十五年の歳月を経て、それは改めて証明された――。




