新しい闇 (1)
オルディス公爵領は、安定した気候と豊かな土地に恵まれた地域であった。
歴代の有能な領主によって交通路はよく整備され、用水路によって領全体がオルディスに流れる川の恩恵を受けられるようになっていた――残念ながら、用水路は十四年……いや、十五年前の大火災で焼失してしまい、長年使い物にならなくなっていたが。
しかし領民たちは辛い過去を忘れ始め、明るい未来に向けて希望と期待に胸を膨らませている。
用水路の修復工事が終了した。春を目前にして。
今年の収穫期には、オルディス領はかつての栄華を取り戻すに違いない。誰もがそう信じていた。
「良いところだね。緑が豊かで、民の顔も明るい」
馬車の窓から領地の様子を眺めていたヒューバート王子は、笑顔でそう言った。
エンジェリクの第二王子ヒューバートは、療養のためにオルディス公爵領へ移動している途中であった。
複雑な生い立ちと立ち位置から幽霊のように生き、城の中で生きているのか死んでいるのかもわからない存在としてひっそり生きていた彼は、長年閉じこもっていた離宮からほとんど外に出たことがない。
そんな王子は、初めて見る土地に興味津々といった様子だ。その姿は、故郷キシリアを離れエンジェリクへ来たばかりの頃の妹と似通ったものがある。
「うん。オルディスは良いところだよ。もうすぐ種まきのシーズンだから、私もお手伝いしに行くんだ」
「種まきか……。野菜と花じゃ勝手が違うかもしれないけれど、僕も手伝うよ」
大好きなヒューバート王子と一緒に過ごせるオフェリアは、終始ご機嫌だった。王子と一緒に庭にどんな花を植えるかあれこれ話し合う妹の笑顔に、マリアも幸福を感じていた。
……ヒューバート王子がオフェリアの笑顔を引き出しているのかと思うと、彼にイラっとするところもなくはないが。
「おじ様も、お姉様に会えたらきっと喜ぶよ。ずっと心配してたもん」
おじは、マリアたちと血の繋がりはない。母方の伯母の夫で、オルディス公爵領の領主を務めている。
手紙のやり取りはしていたが、顔を合わせるのはかなり久しぶりだ。
オルディス公爵領にある屋敷は、以前に比べるとずっと雰囲気が良くなっていた。
伯母の腰巾着をしてろくに仕事もせず周囲に威張り散らす人間か、そんな同僚と横暴な主人に怯える人間しかいなかったあの状態と比べれば、良くなっているのも当然か。
出迎えるおじも、穏やかな笑顔だった。
「マリア!本当に無事に帰って来たんだね。良かった。手紙は受け取っていたが、ずっと心配していたんだ」
そう言って、おじはマリアを抱きしめる。
おじは暴漢に襲われて以来、左手と左脚が少し不自由になっている。もともと痩せがたではあった。
最後に会ったときも、長引いた入院生活の影響でさらに線が細くなっていたのだが……。
「お久しぶりです、おじ様。おじ様も、お元気そうでなにより……。それに、なんだか前より凛々しくなられて」
マリアが言えば、そうかな、とおじは照れ臭そうに笑った。
世辞ではない。本当に、前に会った時よりおじは男らしくなったように感じる。
もともと容姿は悪くなかった。しかし伯母を始め、理不尽に貶してくる周囲の女たちによっておじは自信を失い、卑屈になっていた。その影響から、おじは陰気な雰囲気を漂わせ、その見た目も霞ませることになっていたのだろう。
「おじ様!」
「オフェリア、マリアが無事に帰ってきて良かったね。笑顔が戻ってホッとしたよ」
おじは、オフェリアに対しては本当に心優しい身内であった。オフェリアも、おじの善意をまったく疑っていない。
親愛を込めておじに抱きつくオフェリアを、おじも娘を出迎える父親のような面持ちで抱きしめた。
「お手紙でもお知らせしたのですが、今回はお客様を連れて参りました」
「うん。そうだったね。えーっと……」
馬車から下りて来る青年に、おじが少しだけ動揺するのをマリアは見逃さなかった。客が男だとは思わなかったらしい。
気まずそうな視線をマリアに送って来る。
「人に知られる危険を避けるため、手紙では明言いたしませんでしたが――この御方は、ヒューバート王子です」
「おう、じ……ええっ!?しかもヒューバートって……。マリアと婚約してる王子じゃなく!?」
「兄王子です。私が婚約しているチャールズ王子の」
マリアとヒューバート王子を交互に見つめながら目を白黒させるおじに、王子は柔和に微笑む。
「色々と迷惑をかけることになってしまいますが、しばらくお世話になります」
丁寧に挨拶をする王子に、おじも混乱しながら挨拶を返す。
オフェリアはその様子を面白がっていたが、マリアとしてはさすがにおじが不憫で、苦笑していた。
ヒューバート王子はオフェリアに案内されて屋敷に入り、ベルダとナタリア、そして屋敷の召使いたちは馬車から荷物を下ろす。それを見ていたマリアに、おじが静かに近寄って来た。
「……マリア。その……君の部屋は僕の寝室の隣にしていたんだが、部屋を替えたほうがいいのだろうか。客室から近いものに……」
おじが何を言いたいのか、マリアはすぐに察した。自信がついて凛々しくなったと思ったが、こういったところで気弱なのは変わっていないらしい。
「私の部屋は、おじ様の隣で構いません。ヒューバート殿下と私は、そのような関係ではありませんから」
そう言っておじの手に自分の手を重ねれば、おじが安心したような表情でマリアの手を握り返した。
「それより、ヒューバート殿下の部屋はオフェリアの部屋から限りなく離しておいてください。万一、夜にあの子の部屋を出入りするようなことがあったら、屋敷から叩き出してやります」
「それって……。殿下は、オフェリアを……?えっ、だってあの子はまだ……」
また混乱し出したおじの頬にキスをして、ひとまず彼を落ち着かせる。
おじの言いたいことはわかる。
恋愛対象として見るには、オフェリアは幼すぎやしないか、と。
マリアたちが屋敷に着いた時にはもう日が沈み始め、部屋で荷解きが終わるとすぐに夕食となった。
オフェリアへの恋心には戸惑っているようだが、マリアを巡る恋敵にはならないということで、おじはヒューバート王子へのわだかまりがなくなったらしい。公爵領の領主として王子をもてなし、歓迎していた。
ヒューバート王子も、おじとマリアの関係を何となく察してはいたようだが、オフェリアに何らかの不利益がないのなら特に口出しするつもりもないようで。
……実に分かりやすい男たちだと思う。
夕食を終えると、オフェリアはマリアにべったりになった。
一緒に風呂に入りたがり、何冊も本を読んで欲しいとねだってなかなか眠ろうとせず。姉と離ればなれにさせられた反動からか、いつも以上に甘えたがりであった。
そんな妹の可愛らしいわがままに答えるマリアを、侍女のベルダがいさめた。
もうお休みの時間ですちゃんと寝てください、と小言を飛ばすベルダに、ぷくうっと頬を膨らませながらも、オフェリアはベッドに横になった。
オフェリアが眠りに落ちるまでマリアは手を握って妹に付き添い、ベルダに任せて部屋を出た。
「ベルダも、すっかりオフェリアの侍女が板についたわね」
マリアが自身の侍女であるナタリアに言えば、先輩としてずっとベルダの指導役をしていた彼女は苦笑する。
「元気が良すぎるのは相変わらずですが」
故郷キシリアにいた頃から侍女をしていたナタリアと違い、ベルダはエンジェリクの――この屋敷で出会った少女だった。いとこにいじめられていたオフェリアを助けて以来、妹とは主従と言うより友人に近い関係だ。
機転が利き、オフェリアのことをよく支えてくれている……。
「ベルダを見ていて気付いたことがあるの。ヒューバート殿下にも、信頼できる従者が必要だわ」
幽霊に徹するためにあえて人を遠ざけてきたが、彼は弟王子と王位を争う決意をした。ならば彼にも、頼りになる従者を身近におく必要がある。
「メレディスが引き受けてくれれば、すぐ解決できる問題なのだけれど……」
マリアの恋人の一人メレディスは、機転が利き、格式高い伯爵家の当主を兄に持っている。何より、信頼できる相手だ。
いまのところ、これ以上の人選はいないのだが…。
「そうなると、メレディス様は絵描きの道を断念することに……」
「そうなのよ。そんなことをさせるのは絶対いや」
メレディスは、絵描きになるために家を捨てている。
いまの伯爵家当主はメレディスに好意的だ。彼が帰ってくることを歓迎してはくれるかもしれない。だが長年の夢であった絵描きの道を捨てさせるなど、マリアは絶対に許すことができなかった。
「オルディスにいる間に、良い人材が見つかるといいのだけれど」
自分に宛がわれた部屋に戻ったマリアは、テーブルの上に置かれたマリア宛のプレゼントに気付いた。
差出人はおじだ。
「これを、私に着て欲しいということかしら。着るのはいいのだけれど……。これを……私に?」
思わず顔をしかめるマリアに対し、きっとよく似合いますよ、とナタリアは頷く。
「これを……。だって、私よ?」
「オフェリア様が好みそうなデザインではありますが、マリア様だって十分お可愛らしいですわ。たまにはよろしいではないですか」
いそいそと着替えさせようとするナタリアに抵抗せず、マリアも服を脱いだ。
可愛いとは思うが……フリルとリボンたっぷりの寝衣は、少女趣味が過ぎやしないだろうか。
「ヒューバート殿下がオフェリアを、ということは、オフェリアは王子妃になるのか」
おじの寝室を訪ね、ヒューバート王子がオフェリアと結婚したがっていることを改めて説明すれば、おじが考え込むように話した。
「王子の妃ではすませません。殿下には王太子になっていただき、いずれ王となって、あの子を守ってもらわなくては困ります。もちろん私も――オルディス公爵としてヒューバート殿下を、外戚としてオフェリアを擁護できるだけの立場にならないと」
「うん……ならマリアは、チャールズ王子との婚約は解消するつもりなのかい?」
「当然です。チャールズ王子と結婚などしてしまったら、私のほうがオフェリアとヒューバート殿下にとって最大の敵となってしまいますもの」
母親を喪い、事実上の母の祖国を失っているヒューバート王子には後ろ楯がない。オルディス公爵として、マリアが王子の後ろ楯となる必要がある。
そして王子を支えられるほどの力を、チャールズ王子に利用させるわけにはいかない。
いずれ王子との婚約を解消してもマリアが不利な立場にはならないほどの力を身に着け、自分の婚約も取り消させてみせる。
いまはまだ、大人しく婚約者の役を演じているしかないが。
「そうか……。それにしてもオフェリアが誰かと結婚だなんて、想像もしてなかったよ。いつかはするだろうとは思っていたが、具体的な未来は考えてもいなかった」
マリアはクスリと笑った。
「殿下が幼女を偏愛する趣味があったなんて、ということですか?」
「いや、そこまで失礼なことは」
慌てて否定しているが、類似することを考えていたと語るに落ちている。マリアは、ベッドに腰かけているおじの膝にのしかかった。
「おじ様も同類だったりしません?私に贈ってくれたこの寝衣の趣味を見る限り、とても疑わしいのですが」
「そんなこと!ない……と、思う……。いや、どうなんだ。実は僕もそういう性癖が……?」
首を傾げてしまったおじに、マリアは声をあげて笑った。
おじは、まともに恋愛をしたことがない。女性経験も、妻との悲惨な初夜のみという気の毒さ。初夜で散々罵倒され、マリアと会うまで女性にそういった感情を抱くこともできなかったそうだ。
だから、実は自分は幼女を偏愛する性癖を隠し持っていた――という可能性も否定はできないのだろう。
「おじ様。この服、私には少々サイズが小さいようです」
マリアが言えば、申し訳なさそうにおじが驚いた。
「すまない。そう言えば、長いこと会っていなかったんだ。君にちゃんと確認を取ればよかった」
言いながら、おじが身を縮込ませていく。
服の一着もマリアに贈ることができないことを、おじは気にしていた。公爵領の財政に少しゆとりができたので、マリアのために買い求めてくれたのだろう。ちょっとした下心込みではあるが。
「そうですね、私も色々とサイズが変わってしまいましたから。胸のあたりが特に」
おじの手を取って、胸のあたりで結ばれたリボンに触れさせる。
この寝衣、サイズが小さいのは本当だ。マリアの白い胸元がかなり露わになっている。
これはそういう狙いのデザインというわけではなく、サイズが合っていないのでこんな状態になってしまっているのだろう。
マリアが指摘すれば、おじは思わず胸元を凝視していた。
「きついので、もう脱いでしまいたいです。早く解いてくださいな」
甘えたように言えば、おじがリボンを引っ張る。
忙しなく自分を抱きしめてくるおじの腕の中で、やっぱり我慢はよくないな、とマリアは思った。
これからは、もう少しこまめにおじに会うようにしよう。男の我慢の反動というものは、実に恐ろしい。




