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紫色のクラベル~傾国の悪役令嬢、その貴種流離譚~  作者: 星見だいふく
第一部01 故郷からの逃亡
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未熟 (2)


「あの、すみません。僕のせいで、ノア様も残る羽目になって」


伯爵の従者であるノアが残ったのは、間違いなくマリアのためだ。ノアはポーカーフェイスのままだが、気にする必要はありません、と話す口調は穏やかだった。


「伯爵をあの人と二人きりにしても大丈夫なんでしょうか。その、あの人は男性が好きなんですよね?」

「あの男の性的対象は十代前半の男子限定です。伯爵はいくらなんでも好みから外れ過ぎています。二人で風呂に入るのもこれが初めてではありませんし、口が軽いように見えて秘密主義な男ですから、風呂に入ると言えば私やクリス君を確実に引き離せることを見通して提案してきたのでしょう。異教徒ということもあって、こちらの地域の人間はもともと警戒しているのですよ」


ノアの言葉に、マリアは考え込んだ。

単なる話好きの男に見えなくもないが、相手に真意をつかませないための話術だとすれば……やはり伯爵が警戒するだけのことはある。


商談に出されるようになってから、マリアは自分がまだまだ未熟で、世間知らずであることを痛感するようになっていた。

ムスタファほどの人間はいなかったが、それでも商人と交渉役の会話を聞いていて、自分では口を挟むこともできないほどの力量の差を感じた。


優秀だと言われて育ち、自分でもその才能を高く評価していたが、経験の壁というものは思った以上に分厚いものだ。

だからこそ、経験を積むためにもガーランド商会で働くことはマリアにとって意義があった。


「失礼します。ムスタファ様より、クリス様にお気に入りの香炉を見せるよう申し遣って参りました」


先ほど香炉入りの箱を運んできた少年がやってきて、丁寧にお辞儀をする。マリアと目が合うと、少年は愛想よく笑った。


「クリス様、ご主人様の寝室へお越しくださいますか?あれは、私たちも手を触れることを許されていない品物なので、持ってくることができないのです」

「えっと……」


ムスタファの寝室。

そんな嫌な予感しかしないところへ行くのは気が進まない。しかしムスタファの申し出を自分が断ってしまってもいいものなのか。

マリアの戸惑いを、ノアも察してくれたようだ。行きましょう、と声をかけてくれた。


「どうぞこちらへ」


ノアがついて来ていても少年は構わないようだった。ノアが一緒なら、最悪の事態は恐れなくても大丈夫だろうか。

少年の後について廊下を歩いていったが、部屋の前で少年が立ち止まり、ノアを制止した。


「申し訳ありません。この部屋は、十五歳以上の男子の立ち入りを禁じられております」


マリアはノアと顔を見合わせた。


「……年齢を誤魔化す、というのは」

「無理です。あの男に初めて会った時、真っ先に聞かれたのが年齢でした」


やはり抜け目のない男だった。

そして一人で、その抜け目のない男の寝室に入れと……。


「少しでも異変を感じたら大きな声をあげてください。扉の前で待機しています」


引き続き少年に案内されながらムスタファの寝室に入ったマリアは、注意深く室内を見回した。

寝台のあるあたりは少し薄暗いが、日の光が差しこんでいるので全体としては明るい。ムスタファはおろか他に人はおらず、誰かが隠れている様子もない。


マリアはひそかに胸を撫で下ろした。

いくら男と女の差があっても、目の前のオフェリアと同い年ぐらいの少年が相手なら自分でも何とかできそうだ。


大人が五、六人並んでも余裕で眠れそうな広さの寝台の前で立ち止まった少年は、枕元にあるサイドチェストを指差した。


「あれです。カナルナガル王国からご主人様が買い付けた物だそうで……私では詳しいことがわからないのですが……」


少年は困ったように話すが、マリアも困る。

父親が使ったことがあるという程度でマリアも香炉に詳しいわけではないし、カナルナガル王国も多民族国家の複雑な国だ。覇権争いも頻繁で王朝も変わりやすく、歴史は学んだがいまもマリアが知っている王であるとは限らない。


香炉にはすでに火が点いているので、手に取ることはやはり難しいだろう。陶磁器の、見事な細工が施された物であることは分かるが……。

芸術に関して、マリアは芸術センスのない父親のほうを受け継いでしまったらしい。亡き母や、妹の方が感性が優れている。オフェリアなら何か気付いてくれたかもしれない。


「香炉に書かれた字を読むぐらいのことしか僕にもできませんよ。えっと、これは多分……宗教的な、祈りのこと、ば……」


視界がぐらりと傾き、マリアは寝台に手をついて倒れ込んだ。

――おかしい。急に力が入らなくなって、自分の身体を支えることすらできなくなっている。這うのも精一杯で、立ち上がらなくては、と思うのに手足はマリアの意思に反して動く様子がなかった。


「香りで人を操るというのは、なんとも面白いことだと思いませんか。それこそが私のお気に入りなのですよ」


足下から聞こえてきた声にぎくりとなり、なんとか顔を動かす。

寝台のそばに、ムスタファが立っていた。別れた時より服装が肌蹴ており、おそらく伯爵との風呂から適当に離れてきたのだろう。ムスタファのうしろには、マリアが入って来たものとは別の出入り口がある……。


最初から疑っていたが、ムスタファはこの状況を狙っていたに違いない。嫌な予感は当たってしまった。


力の入らない身体では、ムスタファにのしかかられただけでも簡単に自由を奪われてしまう。仰向けに引っくり返され、喉元に冷たい何かが触れるのを感じた。

薄暗い部屋でもキラリと光る刃物に、マリアは息を呑む。


「動けないとは思いますが、抵抗はやめなさいと一応言っておきましょう。刃物を押しつけられた人間は、たいてい恐怖を感じる。その表情が好きなだけで、君の美しい肌を傷つけるつもりはないのですよ。ですから……動いてはだめですよ。それがお互いのためです」


ムスタファは、ナイフでスーッと衣服を切り裂いていく。刃先が肌を掠める感覚に、マリアは息を止めた。


完全に油断した。よしんば襲われたところで、女の自分は大丈夫だというおごりがあった。

しかし、女だということがわかって、逆上したムスタファがそのままナイフを振りおろしてきたら?ムスタファが片手で持てる程度のナイフだが、それでも胸を一突きされたら……首を斬りつけられたら……。いまのマリアでは、何の抵抗もできない。


「この香りは、身体の自由を奪う。といっても、実は効き目はそれほど強くないのですよ。君のような少年には耐えがたいものですが、健康な成人男性ならば少し頭がぼーっとする程度でして」

「道理で。納得しました」


ムスタファの言葉にかぶさるように、ノアの声が静かな部屋に響いた。

自分の身体を押さえつけていたものがなくなったと気付いたときには、マリアはノアの腕の中にいた。


「そこまでクリスに執着するとは思わなかった。やはり連れて来るべきではなかったな」


無様に床に倒れこんでいるムスタファのそばには、軽く服を羽織っただけの伯爵がいた。

風呂から抜け出したムスタファに、伯爵が気づいてくれたのだろうか。だからノアも異変に気づいて助けに来てくれたのかもしれない。


「私のお気に入りだと分かっていて手を出そうとは、君も思い切ったことをするものだ。それとも、単に私が侮られているだけなのかな」


伯爵はそう言って笑ってはいたが、普段以上の凄みがあった。マリアの位置からは横顔しか見えないが、目が笑っていない。伯爵に睨まれ、ムスタファもやや怖じ気ついたような表情を見せた。


「人のものというのは何より魅力的なのですよ。それが隙など見せない君のものとなったら、俄然欲しくなるのが人の性というものではありませんか」


それでも抜け抜けと話すムスタファに、マリアは感心してしまった。

明らかに体格に差のある男に囲まれていても、平然と振る舞うその度胸は見事だ。


「ノア、クリスを部屋の外へ連れていけ。ここでは落ち着くこともできないだろう」


ノアに抱きかかえられ、部屋どころか、そのまま屋敷の外にまで連れ出された。

屋敷へ来たときに乗ってきた馬車に運び込まれる頃には、マリアの状態もかなり改善されていた。


「すみません。頂いた服、ボロボロになってしまいました」

「もう私には着ることのできない物ですから、気にすることはありません。それに謝るのは私の方です。助けが遅れてしまい申し訳ありませんでした。伯爵がいなければ、私は気付くこともできなかった。下男に呼ばれて風呂を出て行ったムスタファの戻りが遅いので、まさかと思い慌てて探しに来たそうです。寝室の前で私と会い、クリス君が一人で部屋にいると聞いて、ムスタファの目的を察してくださったのです」

「ノア様が謝罪する必要はありません。あの男に油断するなと、伯爵から教えられていたのに」


他ならぬ自分の油断が、伯爵の忠告を無駄にしてしまった。

異変を感じたら声を上げろとノアからも言われていた。

それも、タイミングを逃したのは自分の慢心が原因だ。


結局、危険な男だと頭では分かっていても、警戒を怠っていた。見た目で侮って、男じゃないから大丈夫だと思い込んでいた。あの男が本気を出したら、自分では歯が立たないのに。


「クリス、大丈夫か。奴は後遺症などは心配ないと言っていたが、今日はこのまま休むといい。デイビッドには私から話しておこう」


馬車に戻って来た伯爵は、マリアを気遣った。

マリアにケガがないか、手を伸ばして確認してくる。風呂上がりだから、伯爵の手は熱くて、とても心地良い。冷たい刃物を押し付けられて冷え切ったマリアの身体も、ぬくもりを取り戻していくようだった。


「申し訳ありませんでした。私がついていながら」

「まったくだ。奴との商売など無視してしまえと言っていた君が、ムスタファの申し出を断らなくてどうする」


頭を下げるノアに、マリアは慌てた。


「ノア様は悪くありません。僕の油断がすべての原因です。伯爵の気遣いもノア様の注意も、すべて僕が無駄にしてしまいました」

「油断という点においては私も同罪か。奴の執着を侮っていた。牽制のために君をお気に入りだと言ったのがまずかったな。かえって執着を強めてしまった」


そう言いながら、伯爵はマリアの頭を撫でる。


「詭弁でも、伯爵のお気に入りと言ってもらえて嬉しかったです」

「まったくの詭弁と言うわけではないぞ。有能で有望な君には大いに期待しているし、成長を心待ちにしている。だからこそ、あんな胡散臭いやつには引き合わせたくなかった」


冗談めかして言いながら、伯爵は笑う。マリアもはにかみ……でも、どうしても笑顔が強張ってしまう。ムスタファのことを考えると……。


「あの……あの人とは、これからどうなるんですか?僕のせいで商談がめちゃくちゃになってしまって……」


うさんくさくて油断ならない男だったが、ガーランド商会にとっては大事な取引相手でもあった。

それを自分が台無しにしてしまった。

助けてもらえてよかった、なんて。そんなのんきな感想を抱いている場合ではない。


「何も問題はない。さすがに奴もやり過ぎたと感じたらしい。驚くほどあっさりと、こちらの提案をのんだ」


さすがと言えばいいのだろうか。ムスタファの怯みを見逃さず商談を成立させてしまったらしい。

マリアが感心半分、困惑半分の気持ちでノアを見れば、ノアは「やれやれ」とばかりに首を振るだけだった。


「結局そういった方向に利用したのですか……」

「むしろ利用しなければ悔しいだろう。こちらばかりいいように翻弄されて、そのまま引き下がれん」

「僕はお役に立てたのならばそれで構いませんが」


呆れたように伯爵を見るノアに、マリアは精一杯フォローする。甘やかさなくていいんですよ、とノアから一蹴されてしまい、マリアは苦笑するしかなかった。


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