-番外編- 似た者父子
その夜のジェラルド・ドレイクは少しばかり落ち着きがなかった。
一般的な感覚で言えば、落ち着きの定義とは、と問われるほどに微細な変化であったが、彼をよく知る人であれば目を丸くするほどにジェラルドは動揺していた。
実際に、父親の代から彼に仕えていた執事からは、坊ちゃまにしては珍しいことですな、と指摘された。
「この屋敷に客を招くのは初めてのことゆえな。私とて、悩むことぐらいある」
表情をまったく変えることなく、ジェラルドはそう答えた。
生まれた時からジェラルドを見てきた執事は察した――要するに、めっちゃ緊張しているらしい。
馬車が到着する音を聞きつけると、召使いが客人を出迎えようとするのも止めてジェラルド自ら彼女を迎えに行った。
「お招きありがとうございます。ジェラルド様のお屋敷に伺わせていただくのは、初めてでしたね」
「私も人を招くのは初めてだ。何かと気が利かぬかもしれぬが許してほしい」
マリア・オルディス公爵を見つめるジェラルドの眼差しは優しい――と古執事は思った。
他の召使いからは、いつもと何が違うんですか、と真剣な顔で問い詰められてしまいそうだが、彼には分かった。
「お父上様は、こちらにはお住まいでは……?」
「父は別に住まいを構えている。ここはもともと、母と共に住んでいた家だった。母が亡くなり、私が成人した後は別宅を購入してそちらへ行ったきりだ。思い出が多過ぎて、こちらで暮らし続けるのは少々辛いらしい」
「そうなのですか。いまでも、奥様を一途に想っていらっしゃるのですね」
マリアの言葉に、ジェラルドがわずかに目を逸らす。
たしかに再婚はしなかった。亡き妻をいまも深く愛している――が、父ニコラスも愛人は何人か作っていた。妻を亡くして長いのだから非難されるようなものではないが、あまり父と母の仲を美談のように語られると、複雑な思いにはなる。
「久しぶりに、チェスの対戦でも」
「よろしいですわ。私、ジェラルド様に勝つ方法を思いついておりましたの」
それは楽しみだ、とジェラルドが返す。
そして久しぶりのチェス勝負は――ジェラルドの完勝であった。
「私に勝つと言い切った、あの自信は」
「勝つとは言っておりません。勝つ方法を見つけただけです」
そう話すマリアの目は真剣そのもので、単なる誤魔化しではないことはジェラルドも認めた。
「経験の差は大きすぎますもの。とにかくいまは勝負回数を増やして、ジェラルド様の手を読めるようにならなくては。負けてはしまいましたが、いずれ勝つための大事な経験です」
「なるほど」
言われてみればたしかに、甘さや隙のある手が多かった。ジェラルドの対応を把握するために、あえてそういった手も打ったのだとしたら。
彼女の考え方は、理にかなってはいる。
「ですが、負けたことに変わりはありませんね。あの……お手柔らかにお願いします」
頬を染め、甘えたように自分を見つめてくるマリアに良からぬ想いが浮かび上がってくる。
――が、今夜ばかりは、他に優先させるべきものがあった。
「私に、何か望むことはないか」
ジェラルドの言葉に、マリアが目を瞬かせた。
「もう流れてしまったことではあるが、私もオフェリア嬢より、貴女の誕生日パーティーに招かれていた。それで誕生日プレゼントを考えていたのだが、貴女が欲しがりそうなものが思い付かなかったのだ」
あら、とマリアが笑う。
「私がジェラルド様に望むことですか。お聞きすると、私という女に幻滅することになるかもしれませんよ」
それはそれで面白そうだ。ジェラルドはそう思った。
「では、ジェラルド様と一緒にお風呂に入りたいです」
「風呂」
マリアと一緒に。
……むしろそれは、自分へのご褒美なのでは。
「それで、ジェラルド様のお背中を洗わせて頂きたいです。いえ、ここはハッキリ申し上げましょう。ジェラルド様のお背中を堪能させてくださいませ!」
目を輝かせて言われたものだから、さすがのジェラルドも思わず身を退いてしまった。
宣言に違わず、マリアは本当にジェラルドの背中を堪能していたようだった。
風呂から出たあとも、上は何も羽織らないままベッドに腰掛けるジェラルドの背中に抱きついている。
マリアも薄い肌着一枚なので、背中に伝わる柔らかさをジェラルドも堪能していたが。
「男の背中が好きなのか」
「男性の逞しい身体は全般的に好きです。ただ背中というものは、何かなければ女のほうから触れることができる機会は少なくて」
女性が男性の背に触れる機会。
言われてみれば、あまり日常では起きないかもしれない。
「ジェラルド様のお背中は広くて逞しいのですね。正直に打ち明けますと、意外でした。鍛えていらっしゃるイメージがあまりなかったので」
「護身程度だ」
警視総監という職業柄恨みを買いやすく、宰相の息子ということで命を狙われやすい。そのため、ジェラルドにも武術の心得はあった。
「レオン様が、ジェラルド様は実は、自分と同じぐらい強いとおっしゃっていたのですが」
「さすがにそれは過言だ。城仕えを始めたばかりの頃は伯仲していたこともあったが、いまは大きく差がついた」
卑屈や謙遜ではなく、事実だった。
デスクワークが主なジェラルドと、騎士として第一線に立ち続けているライオネルでは、鍛練の量と質が違う。
――しかし、こういう状況で他の男を褒めるのは癪だ。しかも相手がライオネルなどと。
回されたマリアの腕を取って、うつ伏せに彼女をベッドに押し倒す。
長い髪の隙間から見える白い背中は、とても美しく感じた。ジェラルドがマリアの背に触れるのはこれが初めてではない。だが意識して触れてみればその滑らかな肌触りに……背中を堪能したくなるマリアの気持ちも、わかるような気がした。
「他に望むことは?」
「まだおねだりをしてもよいのですか?大盤振る舞いですのね」
うつぶせのまま横目でジェラルドを見つめ、マリアがクスクスと笑う。
「なら……名前をたくさん呼んでほしいです」
マリア、と呼べば、彼女も照れ臭そうに返事をした。
普段から名前で呼んでも構わないのだが、つい公爵と呼びかける癖がついてしまっていて。名前で呼ぶのはこんな時ばかりだ。
マリアからは、特別感がするからそれでいいと言ってもらったのだが。
気楽に自分の名を呼ばせているライオネルを見習う点も、あるかもしれない。そして、またあの男のことを考えることになって腹が立つ。
「他は」
「……ジェラルド様、初めて私の屋敷でチェス勝負をした時のことを、覚えておいでですか?」
マリアがおずおずと問いかけて来る。
忘れるはずがない。我慢が利かずに彼女に手を伸ばした日。らしくもなくむきになり、開き直って自分の欲望に素直になった。ジェラルド自身、自分にもあんな一面があったのかと思い知ったぐらいだ。
「あの時にジェラルド様がなさった要求の……その、五番目のもの……。あれを、もう一度したいです」
最後は聞きとることも難しいほど小さな声で、マリアが言った。ジェラルドはしばらく言葉を失い、シーツに顔を埋めるマリアを凝視した。
「……気に入ったのか」
「その問いかけには答えません!何でも望んでよいとおっしゃるから、言ってみただけです!勘違いされては困るので念を押しておきますが、最後にした要求は絶対に呑みませんからね!あれは本当に嫌です!」
恥ずかしいのか、ジェラルドの視線から逃れるように顔を伏せている。
あのチェス勝負。マリアに本気を出させるために、彼女にとってかなり屈辱的な行為をジェラルドは要求した。
いささか変態じみたものではあったし、翌日は不機嫌だったので彼女にとっては不本意だったのだろうと思っていたのだが……。
そうか。意外とマリアにも、気に入っていたものがあったのか。
「その口ぶりだと、他にも気に入ったものがあるのだろう」
「……もう言うつもりはありません」
「ならば尋問するまでだ」
ひっ、とマリアが小さく悲鳴を上げた。ちらりとジェラルドを見て戦慄している。
たぶんいまの自分はかなり悪辣な顔をしているだろう――ジェラルドも自覚していた。
ジェラルド・ドレイクという男が優秀な警視総監であることを、マリアも思い出したようだ。隠し立てする相手を追い詰めて白状させる――それは、ジェラルドが非常に得意とすることである。
何だかんだ、結局マリアのほうも乗り気だった……と思う。そう思い込みたいジェラルドによる、都合のよい解釈なのかもしれないが。
目が覚めた時のマリアはちょっと拗ねたようなそぶりを見せたが、詫びも兼ねて次の望みを聞いてみたら、チェンバロを弾いて欲しいとねだり、ジェラルドの演奏を機嫌よく聴いている。
母親が愛用していた楽器。幼い頃、自分も毎日のように弾いていた。
母が亡くなってからは滅多に弾くこともなくなっていたが、オフェリアがチェンバロの練習を始めた頃からジェラルドもまた弾くようになっていた。
幼い頃に身に着けた感覚を取り戻しつつあるが、さすがにまだ指の動きが硬い。
連弾をしてみれば、妹の練習に付き合っているマリアのほうがよほど優美に演奏している。
「お前が演奏している姿は、久しぶりに見たな」
曲の合間に声をかけられ、ジェラルドは内心酷く動揺した。
自分のガウンをマリアに羽織らせる――マリアもジェラルドも、まだ着替えをしていない。マリアなど肌着のままだ。
「おはようございます。父上がこちらにいらっしゃるのも、久しぶりのことで」
「オルディス公爵が訪ねてきてると聞いてな。私からも挨拶に伺わねばと思ったのだ」
おはようございます、とマリアが宰相に向かってに頭を下げる。
「宰相閣下がいらしてくださったのなら、私、ジェラルド様にお話しすることがございます。閣下がいらっしゃらないところですと陰口になってしまうのではと思い、いままで黙っていたのですが……」
困ったようにジェラルドを見上げ、マリアが切り出した。
「実は、ニコラス・フォレスター様に口説かれております」
思わずチェンバロを派手に鳴らしてしまったことにも構わず、ジェラルドは父を睨みつける。
息子と同じ、ポーカーフェイスを得意とする男は、動じる様子も見せない。
「どうした、ジェラルド。私とて男だぞ。若く美しい女性を目の前にして、何の反応も示さぬ石像だとでも思っていたのか」
「……彼女は、私の愛人ですが」
「だから口説いたのではないか。私の妻は、生涯アイリーンただ一人だけ。最初にそう宣言しておいたにもかかわらず――宰相の妻の座というものはよほど魅力があるらしい。女性たちは、いずれ私と結婚できるのではないかと期待し出す。おまえの愛人ならば、そんな期待は持つまい。オルディス公爵はその性格上、特にな」
都合がいいから口説いた。言い分は分かるが、納得できるかと言えば話は別だ。
「すみません。父子の仲を険悪にするつもりはなかったのですが、さすがにジェラルド様にお話ししないのも不誠実が過ぎるかと……」
困ったように話すマリアを見て、父に怒るよりも先に彼女を着替えさせるべきだな、とジェラルドは判断した。
「先に朝食を始めておくぞ」
「ご自分の屋敷に戻って召し上がればよろしいでしょう」
ジェラルドが父に冷たく言い返せば、マリアは心配そうな表情をする。
……最愛の父と死別している彼女の前で、父親を邪険に扱う姿を見せるのはよろしくないか。ニコラス・フォレスターは、息子の冷淡な態度に傷つくような男ではないとしても。
「……分かりました。食事の席でマリアとのこと、きっちり話をつけましょう」
そうしないと危険だ。放置しておいたら、マリアはあっさり父に口説き落とされる。
彼女が強引に求められることに弱いのは、自分との一件ですでに証明済みだ。
妻を亡くした父は、いわば独身。過去の経験から妻帯者は嫌がっているが、独身の男は基本そういう対象らしい――父親への憧れが強いせいか、年齢の上限幅も広い。
「節操なしな私でも、ジェラルド様のお父様とまで関係を持ちませんよ」
「本当にか?息子が特殊な性癖の持ち主で、実はそういうことを望んでいると父が騙して口説いてきたとしても?」
マリアの目が泳ぐ。やっぱり、という思いで睨めば、マリアに反論されてしまった。
「日頃のジェラルド様の行いが悪いのです。それが事実に思えてしまうようなことを、いままで散々なさってきたから」
ぐっ、とジェラルドも黙りこんだ。
――心当たりがあり過ぎて、反論できない。




