幸せを運ぶツバメの献身
目を開けたヒューバート王子は、ぼんやりとした表情で、それでもその瞳は自分を覗きこむオフェリアの顔をはっきりととらえていた。
「ユベル!良かった……良かった、目が覚めて……うわああああん……!」
王子に抱きついてオフェリアが泣きじゃくる。王子は状況を理解しきれず、部屋のあちこちに視線をさ迷わせていた。
「お姉様、ユベルにちゃんと謝って!でないと、もう一緒に遊んであげないんだから!」
「はいはい。申し訳ありませんでした、殿下。私のせいで、とんだ目に遭わせてしまって」
マリアが悪びれることなくにっこりと微笑んで言えば、オフェリアが目を吊り上げて怒る。
「もう二度と、毒料理作っちゃだめだからね!」
「反省してるわ。もう二度と、間違えて他の人に食べさせないようにする」
反省してない!と泣きながら怒るオフェリアを、マリアは癇癪を起こした小さな子を見守るようにニコニコと受け流す。
「オフェリア……いいんだ。マリアは何も悪くない……」
かすれた声で、ヒューバート王子が言った。
「僕が自分から言ったんだ。危険だと分かっていたのに、どうしても手を伸ばさずにはいられなくて……自分で選んだことだから……。マリアのせいじゃない……」
力の入らない腕を動かし、ヒューバート王子もオフェリアを抱きしめ返す。オフェリアが泣きやむまで、彼は優しく抱きしめていた。
目を覚ました王子は医者による診察を改めて受けた。マリアの予想した通り、宰相の息がかかった医者は王子に盛られた毒については言及せず、黙々と王子の体調を調べていた。
別室で王子の診察が終わるのを待っているオフェリアは、マリアの陰に隠れながらちらちらと宰相をうかがう。
宰相はオフェリアの視線に気付きながらも、相変わらずのポーカーフェイスで気付いていないふりを決め込んでいる。
「……このおじさまが、ジェラルド様のお父様なの?」
ひそひそと。宰相には聞こえていないつもりの小さな声で、オフェリアが尋ねた。
「そうよ。彫像みたいに表情が動かないところなんか、ジェラルド様そっくりでしょ。ほら、あの眉間のしわの具合もそっくり」
本当だね、とオフェリアが相槌を打つ。ベルダが笑い出すのを必死で堪え、それを肘で小突きながらナタリアも苦笑していた。
宰相は表情を変えず、眉間に深くしわを刻みつけている。
医師が診察を終えて出て来ると、宰相と共にマリアとオフェリアもヒューバート王子の寝室へ入った。
「殿下、お目覚めになられて安心いたしました」
宰相の言葉に、王子は笑顔で答える。
「心配をかけてすまなかった。丸一日眠っていたと聞いたのだが」
「はい。昨日オルディス公爵とお会いになっている途中でにわかに倒れられ、医師が駆けつけた時にはすでに意識がございませんでした。そのまま今日まで目を覚ますことはなく」
そうか、と王子が頷いた。
毒のことは、とうに宰相も把握しているに違いない。オフェリアはマリアが作った危険な創作料理を誤って食べてしまったと信じ込んでいるようだが、宰相にそんな作り話が通じないことはわかっていた。だが宰相は、毒について触れようとはしなかった。
「目が覚めたとはいえ、まだしばらくは回復に努める必要がございます。いかがでしょう、殿下。離宮を離れ、どこか空気の良いところでご療養なさっては」
マリアも王子も宰相を見た。宰相は相変わらず、真意の読めないポーカーフェイスで話し続ける。
「オルディス領などが良いかと。治安もよく、王都からの交通路も整っておりますゆえ、病み上がりのお身体での移動にも難くはありません」
ユベルがオルディス領に来てくれるの!?
と、言いたげな顔でオフェリアがマリアを見つめる。姉の言いつけを守って沈黙しているが、期待に満ちた表情がオフェリアの素直な心をありありと語っていた。マリアも、王子もそれに気付いてくすりと笑う。宰相だけが表情を変えなかった。
「そうだね。医師がここを頻繁に出入りする姿を見られるのも危険だ。あらぬ疑いをかけられてしまう。宰相の提案を受けよう」
「御意に」
頭を下げ、宰相は退出した。なるべく大事にならないよう、ヒューバート王子の療養を進めに行ったのだろう。
「オフェリア、貴女は先に屋敷に戻りなさい。少し長居が過ぎたわ。目立たないよう、私たちは時間をずらして帰るべきよ」
姉の言葉を疑うことなく、うん、とオフェリアは素直に返事をする。
「またオルディスに帰ることになったから、旅支度をお願いね」
「今度はお姉様もちゃんと一緒に来る?」
慌てたようにマリアの腕にすがり、オフェリアが必死な面持ちで問いかけてくる。
オルディスに行くと騙されて、姉に置いてきぼりにされたばかりだ。オフェリアが不安がるのも無理はない。
マリアは優しく微笑みかけた。
「今度は本当に一緒よ。用水路の修復工事も終わることだし、領の視察はしないといけないもの」
マリアが頭を撫でれば、まだ疑うような目をしてはいたが、オフェリアはマリアの腕を離した。
こちらを何度も振り返りながらベルダと一緒に出ていくオフェリアを見送ると、マリアはヒューバート王子に振り返る。
「ご自分が何をすべきか、ご理解頂けていると期待してもよろしくて?」
「分かっている……つもりだ。オフェリアへの想いが断ち切れないというのなら、僕は王になるしかない。誰にも僕の決定を覆すことのできない、強い力を持つ王に」
「安心いたしました」
オフェリアへの想いが断ち切れないヒューバート王子に与えられた選択肢はふたつ。
王になるか、死ぬか。
だから宰相も、マリアの殺意を見逃したのだ。これで第二王子が立ち上がるのであれば、荒療治として黙認すると。
「辛くなったり挫けてしまった時は、遠慮なく仰ってください。私がすぐ、楽にしてさしあげますから」
「……もしそんな時が来たら、今度はなるべくすぐに死ねる毒で頼むよ」
苦笑する王子に、一応致死量の三倍は盛ったのに、とマリアはこぼした。
殺意はあった。助かる可能性も考えてはいたが、これで王子が本当に命を落としたとしても構わない。
そんなマリアとの命運を賭けた勝負に、王子は勝利した。
王子が毒に耐性があることは分かっていた。毒を持つ花を育て、熱心に研究し……。
以前薬物検査を依頼した時、すぐに王子はネズミを連れてきて調査した。あの手慣れた様子から、王子が普段から薬物や毒物を研究していることをマリアは察していた。
身近な動物で研究していれば、やがてその対象は人に移る。人を遠ざけているヒューバート王子が誰の身体を使うかなど、考える必要もない。
だから宰相の息がかかった医師は、王子の毒に驚くこともなかった。普段から死なない程度に自分で試し、時折失敗しては医者が呼ばれる――それを繰り返して、ヒューバート王子は毒への耐性を身に着けていたのだ。
「僕が王になるために、チャールズ王子は邪魔だ」
「私も同意見です。ですがいまの殿下では、対立するまでもなく簡単に消されてしまいます。ヒューバート殿下には、力をつけていただかなくては」
そしてマリアも。
オフェリアは王妃には向かない。権謀術数蠢く貴族社会を生き残れる性格ではない。
――だったらマリアが力を持てばいい。誰にも逆らえぬ姉の権威をもって、オフェリアを守ればいい。
オフェリアから、あの無邪気さと優しさを失わせたくはない。おとぎ話を信じて、夢の世界を愛する可愛いお姫様でいいのだ。
それが、マリアとヒューバート王子が愛した少女なのだから。
「……僕は、何をしたらいい?」
「殿下には、私の傀儡になっていただきます。チャールズ王子との婚約がある限り、私は自由に動けません」
チャールズ王子との結婚。何が何でも阻む理由ができた。
オルディス公爵としてマリアは力を得ていくが、それをチャールズ王子に利用させるわけにはいかない。すべてヒューバート王子のものとして使えなければ、兄王子を王太子にすることができないからだ。
チャールズ王子がマリアの夫になってしまえば、弟王子もその力が使える条件は同じ……。
だがいまのマリアでは婚約を解消させることはできないし、解消された場合不利な立場に追いやられるのはマリアのほう。
いずれ、この立場を逆転させてやる。
決意を新たに、マリアはヒューバート王子に挨拶して離宮を出た。
後日改めて立ち寄ろうと思ったジェラルド・ドレイク警視総監の執務室。しばらくオルディス領に滞在するのなら、ドレイク卿にも挨拶をしておくべきだ。そう思い訪ねた部屋には、王国騎士団副団長ウォルトンもいた。
「おっ。さっそく挨拶に来てくれたのか。今夜僕のほうから訪ねようと思ったのに。手間が省けたな」
相変わらずな副団長に、マリアもくすりと笑う。
「今夜は私のほうから、レオン様のお屋敷を訪ねさせて頂けませんか。キシリアから戻ったばかりなので荷解きもできておらず、とてもお客様をお迎えできる状態ではありません。すぐオルディス領へ赴くことになってしまいましたし」
「用水路の工事が、間もなく終了するのであったな」
用水路の修復工事の一件を記憶してくれていたドレイク卿は、得心がいったように話した。
「そういえば、部下からもそんな報告が届いてたな。部下への労いも兼ね、王国騎士団から祝いの酒を贈っておこう。僕も休暇を取って、またオルディス領に遊びに行かせてもらうかな」
ウォルトン副団長の厚意で、王国騎士団の新米騎士たちも工事を手伝ってくれている。彼らを始め工事に携わった者たちには、追加報酬を出すことになっていた。
公爵領の財政はまだまだ厳しい状況――副団長の心付けは有難い。
「私も祝いに赴きたいが、少し難しいかもしれん。祝いの寄付を募る必要がある」
寄付を募る――その言葉の意味を悟って、マリアはまたくすりと笑った。
オルディス公爵領の用水路は、十四年前の大火災で破損した。その火災には、貴族の子息が複数関わっている。
その身内から、善意の寄付という名目で金を出させること――ドレイク警視総監は、率先してその役割を引き受けてくれていた。
「オルディス領へは、ヒューバート王子と共に参ります」
「ヒューバート王子か。大丈夫なのか。君はチャールズ王子の婚約者になったのだろう。あまり彼と親しくすると、あらぬ疑いをかけられるのではないか」
身を案じてくれる副団長に、実際にやましいことがあるのですから仕方ありませんね、とマリアは答えた。
副団長が眉をひそめる。
「殿下は、どうやらオフェリアと結婚したいようなのです。私は妹の幸せのため、邪魔者はすべて葬り去る決意を致しました。そういうわけですから、ジェラルド様、レオン様。一度私たちの旗色をはっきりさせておきましょう」
ドレイク卿の眼差しが鋭くなった。父親と同じポーカーフェイスではあるが、透き通ったガラスのような瞳は、強くマリアを見つめている。
「私はヒューバート第二王子を王太子に推し、チャールズ第三王子を王太子に推す王妃派とは先陣を切って対立する腹積もりです」
宰相派どころか、マリアそのものが王妃派と直接対立することになる。いまはまだ、その真意を腹の中に隠していることしかできないが。
いずれ遠くない未来、どちらかが倒れることになるになるだろう……。
「我々に、味方になれと?」
ドレイク卿の声は冷たい。だがマリアも怯むことなく言葉を続ける。
「味方になってほしいわけではありません。中立派を貫くからと言って、お二人と縁を切るつもりは私にはありませんから。ただ私は、中立派という立場を明確に捨てました。それだけはお二人に伝えておきたかったのです。私、ジェラルド様のこともレオン様のことも好きですわ。曖昧な立場を取って、見せかけの信頼を示したくなかっただけです」
マリアが言い終えると、短い沈黙が落ちた。そして、ドレイク卿がかすかに笑う。
「どちらが王になるかは興味がない。私が望むのは、自分自身の力を得ること。そして私は、貴女との共犯関係を終わらせるつもりはない」
つまり、ドレイク警視総監はマリアに協力してくれる、と。マリアはにっこり笑った。
ウォルトン副団長は、いつもの陽気な笑顔ではなく、複雑そうに苦笑していた。
「生憎と、僕はジェラルドほど君の味方をすると断言するつもりはないね。君やジェラルドと対立するのは御免だ。内容によっては協力してもいい。だが中立派から動くつもりはない――いまのところは。僕が欲しいのなら、しっかり口説き落としてもらわないとな」
「ではこれから、心してレオン様を口説かせていただきます」
マリアがそう言えば、副団長は楽しみにしておこう、といつもの笑顔に戻った。
城を出ればホールデン伯爵のもとへ。
王都にあるガーランド商会の本店はまだ休業中。オルディス領に建てた支店を本格的に開店させることになったので、従業員の多くがオルディス支店を開くための業務にかかりきりらしい。
「メレディスがお休みを?」
「君の安否がわかるまで、気もそぞろでな。ろくに絵を描いていなかったのだ。その反動か、いまは絵を描きたくてたまらぬそうだ。見過ごしてしまったオルディス領復興の様子を描きに、休みを取って一人で行ってしまった」
メレディスらしい、とマリアは笑った。
「それにしても、オフェリアを王妃にするとは。君も大変な役目を引き受けてしまったものだ」
「まだ道を定めたばかりです。いまから重責を与えないでください」
「重責か。果たして君がそんなものを感じる人間か、怪しいものだ」
今度はマリアがホールデン伯爵に笑われてしまった。酷いです、と拗ねるふりもせずにマリアも一応は反論しておいた。
「オフェリアが王妃になるのであれば、彼女との縁をもとにガーランド商会は王妃御用達の名誉を得られるな」
「そのように悪ぶったことをおっしゃって……」
言いかけて、マリアは口をつぐんだ。伯爵の厚意に水を差すような真似はやめておこう。
ホールデン伯爵の協力が、マリアにはどうしても必要だ。これからも、ずっと。
「工事の件、色々とお世話になりました」
用水路の修復工事という大規模な公共事業が行えたのも、伯爵から工事のための資金と人材提供があったからこそ。受けっ放しの恩をどのように返していくか……マリアの永遠の課題になりそうだ。
「無事に終わりそうで何よりだ。おかげで、ガーランド商会オルディス支店を正式に開店することができる」
「伯爵とガーランド商会の援助あってこその復興です。何か、改めてお礼ができればいいのですが」
「今夜、私の部屋に来て礼を尽くしてくれても構わんぞ」
冗談めかして伯爵が言ったが、思わずマリアが目を逸らしたのを見て雰囲気を変えた。
「……先約を入れてきたな」
「申し訳ありません。ヴィクトール様には、オルディス領にてたっぷりと尽くさせて頂こうと考えていたものですから、しばらくお会いできない方を優先してしまいまして……。一緒に来てくださらないとは思ってもいなかったのです!甘えていた私が悪かったです、どうかご容赦くださいませ!」
じりじりと後ろに下がって距離を取るマリアに、伯爵が大股で近寄って来て腕をつかみ、長椅子に押し倒してくる。
「本店のほうの業務が片付いたら、すぐ追いかけるつもりだ。覚悟しておけ」
「覚悟しておきます。それはいいのですが、ならば何もいまここで――」
「前払いとして、一部を先に受け取っておくのは基本だろう。私は別に、怒っているわけではない」
「そんな明らかに笑っていない目で言われましても!」
抗議しつつも、覆いかぶさって来る伯爵の背にマリアも腕を回した。
「ヴィクトール様のこと、蔑ろにするつもりはありませんでした。私も離れ離れで寂しかったです。だからこそ、適当な逢瀬で済ませずに、ヴィクトール様のための時間を取り、たくさん愛していただこうと思っておりましたよ……?」
甘えたように言えば、伯爵の雰囲気が少しだけ和らいだ。
「……相変わらず、浮気をした途端、憎らしいほど可愛らしくなるな」
「そういう趣向が大好きなくせに」
「ほう、面白い指摘だ。君がそう認識してくれているのなら遠慮することはないな。存分に楽しませてもらおうか」
「余計なことを言いました、どうか手加減してください。でも、ヴィクトール様に求められるのは嬉しいです……」
最後の一言で、マリアを抱きしめる伯爵の腕が優しくなった。
自分の不誠実さは自覚しているが、やはりホールデン伯爵は手放せない。彼の存在は、マリアにとって大きく強い支えだ。ヒューバート王子にとってのオフェリアのように。




