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紫色のクラベル~傾国の悪役令嬢、その貴種流離譚~  作者: 星見だいふく
第三部03 人魚姫は短剣を振り下ろす
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裏切りの王子様 (2)


「チャールズ王子との婚約が正式に成立したとは、どういうことですか?そのようなものにはなりたくないと、最初にはっきり申し上げたはずです」


隠すことなく怒りをぶつけるマリアに、フォレスター宰相も眉間にしわを寄せていた。

息子と同じポーカーフェイス――その息子から、宰相の言葉などと信頼するなと警告は受けていた。それでも、約束を違えたことにマリアは怒る権利があるはずだ。


マリアは、チャールズ第三王子の婚約者候補であった。大勢いる候補の中の単なる一人。

しかしキシリアから戻るなり、その地位は大きく変わってしまった。




キシリアから戻ったマリアは、即座に城に呼び出された。それについては不満はない。

どうせこちらから帰還の挨拶をしに行かなくてはならなかったし、エンジェリク海軍が勝手に動いた件で、マリアも温情を請うつもりであったから。


「オルディス公爵、よく戻られた。すでにキシリア王より事の顛末は聞いておる。キシリア王は公爵とエンジェリクの友情にいたく感謝し、いずれ改めて礼にうかがいたいと話しておる。キシリアから謝礼の品々も届き、エンジェリクとキシリアの友好はより一層深まった。二国間の友好に、公爵は大いに貢献してくれた。大義である」


エンジェリク王の言葉を、頭を下げてマリアは聞いていた。


正直なところ、半分ぐらいは上の空であったと思う。

このあと、何としてもヒューバート王子に会わなくてはならないという思いが強く、王への挨拶はほとんど形式的なものであった。


「何か褒美を与えよう。何を望む」

「それでは、ブレイクリー提督とその部下たちへのご寛大な処置を。彼らはエンジェリクに仕えるべき軍人でありながら、王のお許しもなしに船を動かしました。しかしそれも、ひとえにエンジェリクを思ってのこと。彼らの活躍がなければ、私は生きて帰ってくることもできなかったでしょう。なにとぞ、陛下のお慈悲を賜りたく」


マリアの要求に対し、処罰は避けれぬ、と近衛隊長が口を挟む。


「陛下に申し上げます。軍規に反した以上、お咎めなしとは参りますまい。それでは軍の風紀が乱れる。しかしオーウェン・ブレイクリー提督のこれまでの功績と貢献を考えれば、数ヵ月の謹慎と減給処分。それで十分かと思われます」

「余としても、優秀な海軍提督の才覚を封じてしまうようなことは望まぬ。ブレイクリー提督の一件については、公爵、そなたの懇願なくとも悪いようにはせぬ、安心するがよい」


王も近衛隊長に同意した。

これでマリアがここですべき仕事は終わった。密かに胸を撫で下ろしていたが、次に出た王の宣告に戦慄した――。


「公爵個人への褒美は別にとらせよう――余は、マリア・オルディス公爵をチャールズ王子の妃にすることを定める」


宰相、近衛隊長、居並ぶ大臣たち――そしてマリア。この場にいる者全員が動揺がする。

たったいま、マリアが王子の婚約者となることが正式に決定した。事実上の王太子の妃に、マリアが選ばれた。


「この決定は後日改めて公に宣言する。オルディス公爵よ、下がるがよい」


内心の激しい動揺は隠し、マリアは退出した――そして即座に宰相に抗議に行った。




「私も非常に驚いておる。我々にもそのような相談はなかった。つまり、陛下の独断によるものだ」


鉄のポーカーフェイスから真意を読み取ることはできなかったが、恐らくそれは嘘ではないだろうとマリアは思った。宰相が、そんな嘘をつくメリットがない。


「貴女は少しばかり、力を持ち過ぎたようだ」

「……と、申しますと」

「陛下は貴女に執着し始めたということだ。王子の妃に定め、エンジェリクに縛り付けようとしている」


マリアは黙り込み、怒りを引っ込めた。どうやらただ腹を立てている場合ではないようだ。思っていた以上に、厄介な立場になっている。


「陛下は為政者としては凡庸な御方だ。ただひとつ優れていることは、人材の確保には余念がないということ。才覚のある者に、自由にその手腕を振るわせる度量の大きさがある。一方で、そういった人材は自分のもの――ひいてはエンジェリクのものにしたがる」


宰相が説明を続ける。


「オルディス公爵、貴女はキシリア王と強い繋がりを持っている。エンジェリクにとっては大きな財産と言えよう。だが貴女の忠誠は、エンジェリクよりもキシリアのほうへ向いているのではないか」


マリアは答えなかった。

母の生まれ故郷であるエンジェリクは嫌いではないし、親しい人たちが暮らす場所だ、それなりに思い入れはある。

しかしキシリアと秤に掛けてためらいなくエンジェリクを選べるかと問われれば、答えはノーだ。


宰相も、答えずともそれを見通しているようだった。


「それゆえ、陛下はオルディス公爵をエンジェリクに繋ぎとめる確実なものを求めておる。あまり陛下の執着心を侮らぬ方がよいぞ」


チャールズ王子と結婚。

すでにヒューバート王子という厄介事を抱えているというのに、新しい問題が発生してしまった。

とにかくいまは、ヒューバート王子だ。チャールズ王子との結婚は、そちらが片付いてからでいい。どうせすぐに解決できることでもないのだから。




離宮にマリアが顔を出すと、ヒューバート王子がぱっと顔を明るくした。

マリアをもてなそうと新しい花茶を用意する王子を横目に、すすめられた席につく。そんなマリアを、ナタリアが血の気の失った顔で見つめる。

マリアは、顔色ひとつ変えなかった。


「殿下、私がキシリアへ行っている間、オフェリアが大変お世話になったみたいですね」


マリアの前に花茶を差し出す王子が、ぴくりと動きを止める。マリアが何を言おうとしているのか、察したようだ。


「オフェリアと殿下の手紙は、私もすべて目を通しております。心苦しいことではありますが、妹が迂闊なことを書き、それが悪意ある者の手に渡れば一大事ですから。オフェリアを守るためにも、無礼は承知で確認しておりました」

「……そう。それは、僕もそうなんじゃないかとは思ってた」

「そうですか。ではお話が早いですね。私が殿下を殺してやりたいほど恨みを募らせていることも、すでにお察しでしょう」


ナタリアが息を呑む。ヒューバート王子も顔色を変えた。

ただ、王子に動揺は見られない。安心した。王子も、自分の立場をよく理解しているようだ。本当に何も分からず、やらかしてしまったのかという心配が消えたのはよかった。


「殿下、ご自分の立場を弁えてくださいませ。幽霊の分際でオフェリアに恋をするなど、身分不相応です。オフェリアまで幽霊にするつもりですか」


笑顔を貼り付け、マリアが言った。極めて冷静な声で話していたが、目の奥で怒りの炎が燃えている自覚はある。

彼の裏切りに、マリアは冷酷であった。


「……僕はずっと、全てを放棄してきた。心も、感情も、望みも、全て。何一つ持つことのないよう努めてきた。それなのに……。オフェリアと一緒に生きたいんだ……僕には、たったひとつの願いを持つことも許されないのか……?」


声を震わせる王子を、マリアは鼻先で笑い飛ばす。


「泣き言は見苦しいです。貴方に他の道がなかったとは言わせませんよ。ご自分で幽霊になることを選んだのでしょう。ならばせめて、それを徹底なさいませ」


諦めたくなかったのなら、最初からあがくべきだった。マリアはそうしてきた。そんなマリアからすれば、自分に都合が悪くなった途端にこんな道を歩きたくはなかったと憐れに振る舞うことなど、到底許せることではなかった。


「どうして、僕をオフェリアに会わせたりしたんだ。あの子はいつも真っ直ぐで、自分の感情と心に素直で……。あの子を見ていると、持っていないはずの心を動かされてしまう……人間として、あの子のように生きたいと思うようになってしまう……」

「それについては私にも落ち度があったと認めましょう。ですから、自ら始末をつけます」


持ってきた小瓶を取り出し、目の前の茶にすべて注ぐ。それを、ヒューバート王子の前に返した。


「オフェリアと共に生きたいというのでしたら、美しい思い出となり、あの子の心の中で生き続ければよろしいのです。どうぞ」


マリアはにっこりと微笑む。王子はすべてを諦めたような表情で、青い瞳を伏せた。


「もし僕が王子でなければ、オフェリアと何の憂いもなく結ばれただろうか……?」

「もし、などという話は好きではありません。それを想像したところで、いまが変わるわけではありませんから。ただ、エンジェリクの王子であったからこそ、殿下がいままで生き残ることができたのも事実。そうでなければ、とうに祖国フランシーヌに呼び戻され、一族と命運を共にしていたはずです」


ヒューバート王子の母親の祖国では革命が起き、母親の一族はすべて処刑されている。エンジェリク王のもとに嫁いだからこそ王子の母親は助かり、エンジェリク王室の保護を受けていたからこそヒューバート王子は生き残ることができた。

王子という立場が不幸でしかなかったなどとは言わせない。彼は十分に、王子という立場から得られる恩恵を受けていたのだから。


「……これだけは信じてほしい。キシリアへ行くことを心配したのは、君がオフェリアの姉だったからじゃない。純粋に、君のことも心配だったんだ」


危険を冒してまでマリアに会いに来てくれた、ヒューバート王子のあの姿。気遣うような表情――帰って来たことへの安心したような様子――あれが偽りや見せかけだったとは、マリアも思わない。


「私も、そこまで殿下の誠意を疑うつもりはありません」


そうか、と呟いて王子がかすかに微笑む。

そして、毒の入った茶を手に取った。


誰も、一言もしゃべらなかった。王子は茶を飲み下す。そして、にわかに喉を押さえて倒れ込んだ。

息が詰まって苦しむ王子は胸をかきむしり、短く浅い呼吸をしながら立ち上がることもできずにいた。


「ナタリア、宰相閣下に声をかけてお医者様を呼んで来て。この離宮に来れる医者など限られているでしょう」


口を押さえて恐怖に怯えていたナタリアは、マリアの言葉に慌てて部屋を飛び出して行った。


ナタリアには、何が起きるかあらかじめ話してある。散々反対され、泣きながら止められたが、マリアは王子を殺すことにためらいはなかった。


優しく、良い人間であったと思う。

だが彼によってオフェリアが破滅させられるのなら話は別だ。


――ヒューバート王子がただの市井の男で、オフェリアもただの女であれば。


たしかに二人は、幸せになれたかもしれない。

だがヒューバートが王子ではなく、オフェリアがセレーナ家の令嬢でなければ、出会うことすらなかったかもしれない。異なる国で生まれた二人が出会う確率――それは奇跡に近いものだろう。


だから、もしなんてことを考えるのは無駄だ。


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