裏切りの王子様 (1)
エンジェリクに帰る船の中、マリアは自分でロープを登り、見張り台を目指していた。
波に揺れ、風に煽られ、意外と大変だ。自分を抱えてすいすい登っていく水夫やノアが、いかに普段から鍛えているのか思い知った。
「頼むから、手だけは離さんでくれよ」
のろのろと登っていくマリアについて、ブレイクリー海軍提督もロープを登っていた。不安そうに彼に声をかけられたが、軽口を返す余裕もない。
最後は結局、先に見張り台についた提督に引っ張り上げてもらった。
「思った以上に大変なのですね……。いつか、妹をおぶってでも自力で登れるよう鍛錬しておきます……」
「そないなこと鍛えてどないすんねん」
提督が豪快に笑う。
見張り台からの眺めは相変わらず美しく壮観だ。心なしか、空も以前よりずっと青く澄み渡っている。
「あちらにキシリア……そしてこの先に、エンジェリクがあるのですね」
果てしない水平線を見つめて言えば、せや、と提督が頷く。
「こんなに急いでエンジェリクに戻ることも、なかったんちゃうんか?親父さんの墓参りすら行ってないんやろ?」
「妹と一緒に行くと決めていましたから、もともと行くつもりはありませんでした。あの子には黙ってキシリアへ来たので、早く戻って顔を見たくて。私のほうこそ、申し訳ありませんでした。私が帰国を急いだばかりに、提督はお母様のお墓にも赴くことができず……」
キシリア王からも滞在を延ばすようすすめられたが、残してきたオフェリアがどうしても心配で。船の応急修理が終わるなり、マリアはエンジェリクへ引き返してもらった。
「そんなん気にせんでええ。ワシは船乗りや。その気になったら、自分で船出してキシリアへ行ったらええねん。いざ船出すと、海に夢中になっていっつも忘れてしまうだけや」
「今度キシリアへ行く時は、私も提督のお母様のお墓へうかがわせていただきたいです。提督にはすっかりお世話になって……。あの、内戦に関わったこと、大丈夫なのですか?」
水夫が指摘したように、エンジェリクの軍人であるブレイクリー提督が、エンジェリク王の許可なしに外国の戦争に関わることは禁止されているはずだ。それも船や部下も個人的なものではなく、軍に所属する公式のもの。
彼のおかげでロランド王の勝利が決定づけられたところはある。マリアとしては、彼の加勢が非常に有り難かったが……。
「たぶん謹慎か、一時的な降格処分は喰らうやろうな。そんで、しばらくは王都での待機ってことになって、船には乗れんようなる」
「そうなのですね……。本当に申し訳ないです」
「ワシがやりたくてやったことや。それに、提督の地位にこだわりがないのも事実や。なんや気付いたら、そんな偉い立場になっとっただけで」
しかし提督は言葉を切り、少し気まずそうにマリアを見た。マリアが首を傾げて見つめ返すと、わざとらしく視線を逸らす。
「ただ、ワシ……エンジェリクの王都に、ほとんど知り合いがおらんのや。せやから王都におる間は、暇で暇でしゃーなくなると思うねん。その……時間があったら会いに行ってもええか?話し相手ぐらいになってくれたら、助かる……」
照れたように話す提督に、マリアは微笑んだ。
「もちろんです。エンジェリクに戻ってからもブレイクリー提督と親しくさせていただけるのなら、私もとても嬉しいです」
「そ、そうか。おおきに……」
顔がニヤけるのを誤魔化すように提督はそっぽを向き、強引に話題を変えた。
「そろそろ下りるで!風も強なってきたし、あんたのお供がハラハラしながら見守っとる」
「はい。あの……」
下をちらりと見ながら、マリアが言い淀む。
「下りるほうは、提督にお願いしてもよろしいでしょうか……?」
下を見ながらロープを降りていくということを考えると、さすがのマリアも足がすくんだ。一瞬目を瞬かせ、それから、提督が呆れたように笑う。
「あんたにも怖いもんとかあるんやな」
「面目ないです。自分から言い出したのに」
下りは提督の身体と自分の身体を命綱で結んで、おぶってもらうことになった。
悔しいから、しっかりトレーニングを積んでから再挑戦しようと思う――と意気込んだらノアとナタリアに叱られ、提督と水夫たちにも大笑いされた。
帰りは穏やかな航海が続き、凱旋する船を見ようと港はエンジェリクの民衆で溢れかえっていた。
そんな人混みを必死で掻き分け、船から降りる自分に近づこうとする少女に、マリアはすぐに気付いた。エンジェリク人ではない背の高い少女は目立つ。
見覚えのある彼女の視線の先には、這って人々の足元をすり抜けて行くオフェリアが――。
「お姉様!」
民衆を整列させる地方の騎士に阻まれながら、オフェリアが必死で姉に向かって叫ぶ。
マリアが急いでそちらに駆け寄ると、自分を止める騎士の腕をくぐり抜けてオフェリアが飛びついてきた。
マリアの胸に顔を埋め、ぎゅうっと力いっぱい抱きしめてくる。顔を上げたオフェリアは、大粒の涙を浮かべていた。
「バカっ!お姉様のバカ!バカバカバカバカバカバカ――うわああああああんっ!」
姉を罵倒しながら大泣きしてしまったオフェリアの頭を優しく撫で、ごめんね、とマリアは呟く。
ようやく追いついたベルダもマリアに抱きつき、オフェリアを諌めることも忘れて自分もわんわん泣き始めた。
オフェリア様を潰してるわよ、と苦笑しながらも、ナタリアもベルダを咎めなかった。
「いやあ、無事に帰ってきてよかった」
地方の騎士の足止めなど食らうはずもなく、王国騎士団副団長ウォルトンが陽気に声をかけてきた。ドレイク警視総監も一緒だ。
「お二人とも、わざわざ出迎えに来てくださったのですか?」
「期待を裏切って申し訳ないが、実は僕たちはお供としてついてきただけなんだ。この御方の依頼がなければ、城で待っているつもりだった」
背の高いドレイク卿の背後に隠れるように、頭から深くローブを羽織る青年がいる。白金の髪を纏め、日の下に晒さないようにしている彼は……。
「ユベル!ユベルもお姉様に会いに来てくれたの?」
ヒューバート王子が、慌てた様子でしーっと合図する。オフェリアもぱちん、と自分の口を押さえた。
ヒューバート王子が離宮から出ていることを、周囲に知られるのはよろしくない。
「城で大人しく待っておくべきだとは分かってはいたんだが、少しでも早く、自分の目で無事を確かめたくて」
おずおずと、ヒューバート王子が微笑む。
「ありがとうございます。このように、無事戻ってくることができました。オフェリアと一緒に、また殿下の離宮へ伺わせていただきます」
「うん、楽しみに待ってる。それでは――ドレイク卿、ウォルトン卿。無理を言ってすまなかった。これで僕は城に戻るよ」
もう行っちゃうの?と寂しそうにするオフェリアに、王子は優しく微笑みかけ、また城でね、と返す。
ヒューバート王子は、自分の意思で城を離れたことを気付かれる前に離宮へ戻らなければならない。言葉を交わす余裕すら本来はないはずだ。幽霊のように生きてきた王子にしては、ずいぶんと危険を冒している。
フォレスター宰相を通じて、ドレイク卿とその友人であるウォルトン副団長に護衛の依頼が来た、というところだろうか。
「マリア」
エンジェリク軍艦を見ようと詰め寄せる人混みを離れるマリアのもとに、ホールデン伯爵とガーランド商会の皆がやって来る。
メレディスが一番にマリアに抱きつき、リースもナタリアを抱きしめた。そしてノアを労った伯爵が、マリアに笑いかける。
マリアも笑顔で返し、伯爵の腕の中に飛び込んだ。
「ただいま戻りました」
「無事で何よりだ。それに、エンジェリクに帰ってきてくれて安堵した。このままキシリアに奪われるのではないかと心配していた」
「オフェリアとベルダを置いて、キシリアに残れません」
そこは私じゃないのか、と伯爵に笑われた。
「キシリアに残ることになっても、ヴィクトール様なら追いかけて来てくださるでしょう?」
マリアが笑って言えば、当然だろうと伯爵が頷く。マリアを抱きしめたまま、伯爵が小声でささやいた。
「……マリア、今夜時間を空けておいてくれ。オフェリアと過ごしたいのは分かる。だがどうしても、話しておかなければならないことがある。ヒューバート王子のことだ。下手をすれば、フェルナンドがドラードに入ったことよりもまずいことが起きたかもしれん」
伯爵の背に回した手に、わずかに力がこもる。
オフェリアに動揺を悟られないよう、マリアはさりげなくヒューバート王子たちが去って行った方向を見た。
港から少し離れた小さな町の宿屋。建物ごとガーランド商会が貸し切り、マリアたちはそこに泊まることになった。
オフェリアはマリアにぴったりくっついて離れず――それはいいのだが、やたらと熱い視線を送ってきた。
薄手の寝衣に着替えると、オフェリアはマリアに抱きつき、姉の身体をベタベタと触っている。
「ねえ、お姉様。私もいまのお姉様と同じ年になったら、本当にお姉様みたいに美しくなれるの?」
「私と同じに、とはいかないかもしれないわね。私はお父様、オフェリアはお母様に似ているから、そういった点では違うかもしれないわ。でも美しい女性になれるのは間違いないわよ。あなたは本当に、お母様にそっくりだもの」
「胸も大きくなる?」
「なるわよ、きっと」
マリアの胸にオフェリアが興味を持っているのは前からだ。自分と違うものが気になるのは当然の心理だと思う。
ただ、以前と意味合いが違っているように感じるのはマリアの思い過ごしだろうか。
ヒューバート王子について不穏なことを聞いてしまったから……。ヒューバート王子絡みとなると、どうしてもオフェリアとの関係を切り離せないような気がしてならないのだ。
その夜のオフェリアは、いつもと変わらない時間に眠った。マリアは夜更かしを許し、オフェリアも遅くまで姉と一緒に遊ぶと豪語していたのだが、マリアに会えた安心感からか、襲い来る睡魔に勝てず眠りに落ちてしまった。
マリアが不在の間夜泣きが続き、あまり眠れていなかったのだとベルダから教えられた。
たった一人の肉親を喪う恐怖に怯えていたオフェリアが不憫で、本当ならマリアもこのまま一緒のベッドで眠りたかったのだが……。
「お待たせしました、ヴィクトール様。お話とは何でしょう」
同じ階の客室に泊まっている伯爵を訪ねると、手紙の束を渡される。オフェリア宛てに、ヒューバート王子が書いたものだ。
ホールデン伯爵は浮かない表情をしている。
「君が不在の間、王子とあの子の手紙は私がチェックしていた」
それは何も問題ない。もともと、マリアのほうから頼んだことだ。
王子がオフェリアに危害を加えるとは思っていなかったが、王子を利用したい第三者の手にオフェリアの手紙が渡る危険性はある。オフェリアを守るためにも、伯爵には手紙の検閲を依頼していた。
ベルダはエンジェリク語の読み書きが完ぺきではない。彼女を除いてオフェリアの手紙を読むことを許せる相手は、ホールデン伯爵しかいなかった。
「最初の内は何気ない話題なのだが……オフェリアが君のキシリア行きを知って混乱しだしたあたりから、王子の書く内容が変化している。落ち込むオフェリアを励ます彼の言葉が――私には、情熱的な恋文にしか見えないのだ」
伯爵の言う通り、最初は親しい人に送る何気ない手紙だ。だが次第に、マリアから見ても恋文にしか読めないものに変化していっている。年頃の男性が、未婚の女性に他意なく送るものではない。
「お姫様を夢見る少女が、憧れの相手から愛の言葉を囁かれてはひとたまりもないだろう。しかし、相手がヒューバート王子では……」
手紙に目を通したマリアは、絶句した。
――あの男は、何を考えているのだ。
ヒューバート王子とて、オフェリアが自分にほのかな想いを寄せていることに気付いていないわけではないだろう。
そんなオフェリアに恋文を送り続けたら、取り返しのつかないほどオフェリアの気持ちは強く、大きく育ってしまう。叶えてあげることのできない恋なのに。
「……城へ赴き次第、ヒューバート王子を問い詰めます。返答次第では、王子であっても容赦しません」
オフェリアの恋の相手に、ヒューバート王子は最悪だ。
後ろ盾を何も持たず、弟王子の一派からその存在を危険視される王子。そんな男と、公爵の妹。二人の交際が許されるはずがない。
二人が結びついて、子どもでもできたら。弟王子の一派が黙っているはずがない。自分たちの立場が危うくなるのだから。
例えヒューバート王子が、子は作らない、王位継承権は放棄してただの市井の人間になる、と宣言したところで、そんなものが認められるはずがない。エンジェリク王族の血が流れる子供がいる、子供が生まれる可能性がある。それだけで王子は排除される――オフェリアを巻き込んで。
それが分からない男ではないはずだ。それなのに……。
フェルナンドの脅威が去り、ようやく平和が訪れるはずだった。しかし新たな男が現れてしまった。自分たちの命運を大きく左右する最悪の男。
ヒューバート王子の裏切りは、マリアに大きな衝撃を与えた。
彼に友情や親愛の情を感じ始めていただけに、その裏切りは、マリアを生涯に渡って悩ませるものになるのだった。




