-番外編- その頃の彼ら
日に日に元気がなくなっていくオフェリアを見るのは、非常に辛かった。
初日こそ姉の誕生日パーティーを準備するとはりきっていた彼女だが、三日経っても姉から手紙が来ず、数時間おきに郵便受けを確認しに行ってはマリアからの手紙がないことに落胆する姿は、とても可哀想で。
五日目には笑顔が少なくなり、大好きなヒューパート王子からの手紙でなんとか誤魔化すという苦肉の策で、ベルダがご機嫌取りをしていた。
一週間が経った頃には流石に異変に気付き、姉はどうしているのか、どこに行ったのかと、オフェリアは色んな人に聞いて回っていた。
十日が経つ頃には夜泣きが始まり、ベルダからヘルプ要請がホールデン伯爵のもとに届いた。
そして二週間が経ち、ついにマリアとオフェリアのおじでもあるオルディス公爵領の領主殿から白旗宣言が出た。
マリアはキシリアへ行ってしまった――フェルナンドの要求で。
それを知ったオフェリアは泣き叫んだ。
自分もキシリアへ行くと手がつけられないほど泣きじゃくり、ベルダやマサパンをはじめ色んな人間が彼女を必死でなだめたが、疲れたオフェリアが泣き寝入りするまでおさまることはなかった。
――泣き出してしまったオフェリア様をなだめることができるのは、マリア様だけです。昔から。
デイビッドは、主人と共にキシリアへ行ってしまった恋人から、そんな話を聞かされていたことを思い出した。
オフェリアが泣きはじめたら、マリアを呼んで落ち着かせてもらう。キシリアにいた頃からそうだったとか。
侍女ではとても手がつけられず、実の父親でもかなり手こずるらしい。母親代わりにオフェリアに接してきたマリアだけが、オフェリアをなだめることができた。
マリアが行ってしまったことを知ったオフェリアは、笑わなくなってしまった。
マリアがいなくなって落ち込んでいる人間は、オフェリアだけではない。
ガーランド商会の皆も元気がなかったし、ベルダや領主殿も沈みがちで。メレディスなんか、一枚も絵を描いていない。スケッチブックを手にしてはいるが、ぼんやりとするばかりで手を動かすこともなく。
そしてオフェリアより重症な人間がいることを、デイビッドは知っていた。
マリアがエンジェリクに来たばかりの頃。マリアはガーランド商会から離れ、伯母のもとへ行ってしまった。
あのときも伯爵は上の空になることが多く、いつも誰かのことを気にしているようだった。そして地方へ出張に行くと言って、結局はマリアが気になってオルディス領へ行ってしまい……。
今回はあの時以上に心ここにあらずいった様子で、商談にすらほとんど興味を示さない。
「伯爵、この案件についてご意見を頂きたいのですが」
デイビッドが渡した書類に目を通した伯爵は、すぐにそれを突き返す。
「私が口を挟むほどのことでもあるまい。君に一任する」
デイビッドを見ようともせず、伯爵はそう言ったきり背を向けてしまった。
ホールデン伯爵は、年相応にそれなりの人数の女性と付き合ってきた。
古くから彼を知るノアによると、本人は至って真面目なお付き合いだったらしい。ただ、いつも相手に利用されてきた。
「金に困っている落ちぶれた貴族令嬢だとか、野心と上昇志向の強い女性とかが近寄ってきて、伯爵の金や力を利用したがるんです」
気に入った相手には気前がいい人ですからね、とノアは付け加えた。
利用されていることを分かっていても、伯爵は彼女たちとの関係を受け入れた。いずれ捨てられることも承知の上。
金に困ってすり寄ってきたご令嬢が、伯爵を結婚相手に選ぶはずがない。
伯爵の爵位はあくまで養子によって得た称号。本物の貴族のもとへやがて嫁いでいく。酷いときは、身売りを強要させられた悲劇のヒロインを気取って伯爵を捨てる。
それに比べれば後者の女性はまだましか。少なくとも、自分の意思で伯爵に近付き、自分の野心のために置き去りにしていく自覚はある。
野心が満たされれば次なる高みへ。新しい場所へ彼女たちは去っていってしまう。
「そう考えると、マリアさんなんか伯爵の好みそのものだったんですね」
頼れる大人を失った貴族令嬢で、野心と上昇志向の強い気質。伯爵の女性遍歴で、これ以上ないほど条件が合致している。
「ですが伯爵が自ら追いかけて手を伸ばしたのは、マリア様が初めてです」
去っていく女性たちを追いかけることもなく、自ら誘いをかけたこともない。そんな伯爵が、初めて執着を見せた唯一の相手。
「マリア様が伯爵を利用しようとはしないからでしょうね」
デイビッドも同感だった。
実力不足ゆえ伯爵を頼る場面も多いが、伯爵を利用する相手としてではなく、対等に並び立つ相手として見なしている。
マリアが伯爵に求めるのは金や力ではなく、精神的なもの――安らぎや、甘えを許してくれるおおらかさ。
「金や力は頼りにされず精神的なものだけを求められる経験は初めてなので、伯爵はマリア様に振り回されっぱなしです。王子や、王妃の座より伯爵がいいと言われた時の浮かれよう……いま思い出しても、抱腹絶倒ものです」
にこりともせず、ポーカーフェイスでノアはそう言いきった。
浮かれる伯爵よりも、抱腹絶倒するノアのほうが見てみたいかもしれない――デイビッドは密かにそう思った。
「伯爵は、マリアさんが可愛くて愛しくて堪らないでしょうね」
「良いことです。商人としては傲慢なほど自信家なのに、妙なところで卑屈で、いつも諦めることしかしない人でしたから。マリア様に振り回されつつ、大切にしてもらえばいいんです」
貧乏な貴族の令嬢が、経済的支援を狙って伯爵に近づくのをデイビッドも目撃したことがあった。
伯爵は彼女に対して極めて誠実で、気前よくおねだりも叶えていた。
ある程度伯爵に貢がせたところで、その令嬢は伯爵を捨てた。もともと婚約者がいて、彼と結婚するための結婚資金を伯爵に出させたのだ――しかも悪質なのは、それを男の側も了承していたこと。
その二人は伯爵を金で女を思い通りにしようとする卑劣漢と罵り、真実の愛とやらに酔いながら結婚した。
伯爵はよくあることだと笑って受け流していたが、伯爵の力があればあんな連中容赦なく潰してやれるはずなのに、とデイビッドのほうが悔しく思ったぐらいだった。
ちなみに、その二人はさっさと離婚したらしい。
伯爵の甘やかしと贅沢を享受したご令嬢は、婚約者の男がいかに無能で無神経か、夫婦として過ごしてようやく思い知ったらしい。伯爵に復縁の要請をしにこっそり商会に来ていたのを、従業員が一同となって追い返した。
「それにしては、ノア君は少々伯爵に厳しいようですが。マリアさんとの関係に苦言を呈したり」
「それとこれとは話が別ですから。寄る辺のない少女の不安につけこんで、強引に関係を結ぶなど。尊敬する主人であっても、その点についてはどうかと思います」
「……ノア君って、実は女性としてマリアさんのことが好きだったりしません?」
少しばかり、個人的な思い入れが強いような気がする。
デイビッドもマリアのことは人として好きだし、あどけない年頃の少女に手を出したことについては、いくら尊敬する伯爵相手でもどうなんだと思ったことはある――自分も他人のことを言えたものじゃないが。
それでも。
主人の女性関係を静観してきたノアがはっきりと口出ししたのは、マリアが初めてではないだろうか。
「すみません!詮索する気はないんです!不愉快な質問だったのなら謝罪します!」
沈黙するノアに、デイビッドは平謝りした。
「いえ、怒ったわけではなく。その質問、答えてしまうと、かえってデイビッドさんを困らせてしまうのではないかと思いまして」
「うっ……確かに」
たぶんノアは、マリアを慕っているのだろう。ただそれ以上に、甘やかしているようで甘やかされている伯爵とマリアの関係を大切にしたいのだ。
ノアは、ガーランド商会が設立される前から伯爵と個人的な知り合いだったらしい。どんな過去があったのかはこれまで詮索しようとも思わなかった――詮索する必要もないのだから。
デイビッドは、野暮な問いかけをしてしまった自分を恥じた。
精彩に欠ける伯爵を横目にデイビッドが仕事に励んでいると、短いノックのあと、領主殿が血相を変えて入ってきた。
杖をつきながら、反対の手に手紙を持っている。
「オフェリア宛に、マリアから手紙が届きました。勝手に読むのはルール違反だと分かってはいるんですが、内容によっては見せないほうがいいかと思って……。読んでもらえませんか。自分で確認する勇気はないんです」
領主の言葉に、伯爵が急いで手紙を受け取る。ペーパーナイフで丁寧に封を開け、読み上げた。
「オフェリア、元気にしていますか。この手紙が届く頃には、貴女は私がキシリアへ行ってしまったことを知ってしまったことでしょう。私はキシリアで、ロランド様のもとにいます――」
「ロランド王にお会いできたんですか!」
デイビッドは安堵しながら言った。
キシリアの王ロランドの庇護下にあるのなら、とりあえずは安心だ。デイビッドたちがしていた最悪の想像は、フェルナンドの手に落ちたマリアの遺言……真逆にも近い内容に、一同はホッとしていた。
内戦がどのような終結を向けるかはまだ分からないが、マリアがエンジェリクに帰って来る希望は強まった。
手紙を読み上げる伯爵の顔にも、いつもの余裕のある笑みが浮かんでいる。
「これ以上は、確認する必要もないな。この続きはオフェリアが読むべきだ」
「そうですね。悪い内容ではなさそうなので、安心してあの子に渡せます」
開封を気付かれぬよう丁寧に手紙を閉じ、伯爵は領主に手紙を返す。
この手紙を読めば、オフェリアもいくらか落ち着くに違いない。メレディスにも、あとで知らせてあげないと――。
デイビッドがそんなことを考えていると、メレディスのほうからやってきた。
「伯爵、リースさん、ノアから手紙です!」
「そっちが先に届いていれば、無駄な詮索をせずに済んだというのに」
苦笑する伯爵に、メレディスがきょとんとする。領主やデイビッドも苦笑していた。
今度は遠慮なくペーパーナイフで開封し、ざっと内容に目を通した伯爵が要点だけを話した。
「引き渡し要求は、ロランド王とシルビオによる謀だ。マリアは無事ロランド王に保護され、内戦はロランド側の勝利に終わった」
フェルナンドも処刑されたそうだ、との一言に、誰もが安堵した。
これでマリアにとって、最大の脅威が消え去った。マリアたちも、晴れて故郷に……。
「やっぱり、キシリアに帰っちゃうんでしょうか……?」
デイビッドが肩を落として呟くと、一同の視線が集中する。
マリアやオフェリアがキシリアへ帰ってしまうのは寂しいし、キシリア出身の恋人は、主人と共に故郷へ帰ってしまうことだろう。
笑顔で見送れる自信が、デイビッドにはなかった。
「何を気にすることがある。そうなればガーランド商会もキシリアに支店を作り、そこを本拠地とすればいいだけのこと。支店長は、当然デイビッドだ」
「あっ、なるほど。そうですよね!そうすればいいだけですよね!」
「それに、オルディス領もマリアにとって故郷であることには変わりあるまい。財政の立て直しがようやく実を結び始めているのだ。結果を見届けるまでは、エンジェリクに留まるだろう」
領主が密かに胸を撫でおろす。彼も、マリアがキシリアへ帰ってしまうのは辛いはず。
無事ではあるがそのままキシリアに留まり、エンジェリクに戻って来ることはないのではないか――無事でいてくれればそれでいいと思っていたはずなのに、彼女の無事がわかった途端、次の欲が出て来る。その気持ちは、デイビッドにもよく分かった。
手紙を読んでいた伯爵が、封筒からもう一枚便せんを取り出す。いままで読んでいた味気ないシンプルなものと違い、女性好みの綺麗な紙だ。
「マリアからだ」
やっぱり。
伯爵の短い説明を聞き、デイビッドは心の中でにんまりと笑う。
「行きの船で嵐に遭い、私が買い与えたドレスを全て失ってしまったらしい。ドレスのおかげで、命拾いしたと……」
マリアからの手紙を読んだ伯爵が、デイビッドを見た。
「新しいドレスを買い揃えておかなければ。すぐ手配するように」
「冬が来たばかりだというのに、もう春物が出回っているそうですよ」
メレディスが冗談めかして言うと、それも買っておくか、と伯爵が相槌を打つ。
マリアが無事と分かるなり、伯爵は商談に精を出し始め、デイビッドの仕事は一気に増えた。
やれやれと溜息をつきながら、デイビッドも嬉々として書類を乱舞させる。
マリアやナタリア、それにノアが帰って来る日が待ち遠しい。
日が過ぎるのを楽しんで待つのは、久しぶりの感覚だ。




