キシリアの王は (2)
尼僧院は小規模なもので、林の中にひっそりと建っていた。扉を叩くと、年老いた尼僧が強く警戒した様子で顔を出す。
マリアは、セレーナの家紋が入った指輪を差し出した。
「クリスティアン・デ・セレーナの娘マリアです。どなたかに、この指輪を見ていただけませんか」
指輪を丁寧に受け取り、尼僧は扉の向こうへ姿を消した。もう一度扉が開いた時、見覚えのある女性が出てきた。
「マリア様!あの小さな女の子が、こんな美しい女性になって」
王妃アルフォンソの乳母だった女性だ。マリアのほうはおぼろげに覚えていただけだが、向こうはマリアをはっきりと覚えてくれていたらしい。
「ええ、ええ!忘れるはずがありませんわ。お父様そっくりですもの――どうぞ中にお入りになって。アルフォンソ様も、マリア様を見れば力づけられることでしょう」
「王妃様は、それほどお加減が悪いのですか?」
中に案内してもらい、暖炉の前で冷えた体を温めながらマリアが聞いた。乳母の表情が曇り、目尻には涙が浮かんでいる。
「……病気ではないの。アルフォンソ様は……流産なさって」
乳母がワッと泣き出した。
「王は、そのことを……?」
「ご懐妊されたことすらご存じありません。戦に赴く王の足枷になってはいけないからと、王妃様から固く口止めされ……」
嗚咽を上げ、乳母は話を続ける。
「逃亡の旅を続ける疲れから伏せがちになり、ついに、先日……。お身体の傷はもちろん、お心の傷も大きく……。とても、他へ移ることもできない状態なのです」
王妃は尼僧たちの厚意で匿われ、手厚い看護を受けていた。清潔なベッドに横たわる王妃は美しくも儚く、痛々しい様子であった。それでも、マリアを見て微笑む。
「マリア、本当に来てくれたのね。貴女が来てくれたのなら、エンジェリクからも加勢が……」
「エンジェリク最強と呼ばれる海軍提督が、ライバルを倒した男への闘志を燃やしてロランド様に加勢いたします。必ず、ロランド様が勝利されることでしょう」
「ああ……良かった。本当に……」
力なく伸ばされた王妃の手を、マリアも握りしめる。
「御子のこと、うかがいました」
「……そう。私……王から賜ったお命を守り切れなかった……」
涙を堪え、王妃が声を震わせた。瞳を伏せる王妃に、マリアがはっきりとした口調で告げる。
「すべてフェルナンドのせいです。あの男がロランド様を苦しめ、多くの者を奪いました。王と王妃様の大切な御子も、私の父も、王に仕えた臣下たちも」
ひとつの王冠を巡って、多くの男が命を落とし、多くの女に不幸をもたらした。
――実に下らない争いだ。きっと多くの人が、愛する人の命を奪われるほどの価値のないものだったと呆れるだろう。
でもマリアも分かっている。
あのちっぽけな王冠に、自分の存在意義がかかっている者もいるのだ。そしてそれを、支えてあげたい、ともに戦いたいと心から願うこともあるのだと……。
「ですから、必ずロランド様に勝って頂きましょう。もう終わりにしてもらわなくては。私も、これ以上失いたくありません」
「そうね……その通りだわ。私はキシリアの王妃として、王の勝利を信じ、王の帰りを待つ使命があるのよね。いつまでも悲しみに伏せていられないわ」
そう言った王妃の瞳には、力強い光があった。その光は、王が持つものと同じ。やはり彼女は、偉大なるキシリアの王が愛する女性だ。
王妃は、翌日にはずいぶんと良くなっていた。
マリアが話してくれるエンジェリクでの話がとても面白いからよ、と笑う彼女の笑顔は、穏やかなものだったと思う。戦場から届く朗報も、王妃をいっそう力づけた。
王妃の侍女たちは、笑顔でロランド王の勝利を語る。
「戦況は王の軍が優勢だそうです。この分だと、夜を迎えるまでには決着がつくかもしれないと。私たちも、避難ではなく、王との合流になるかもしれませんね」
さらに次の日の早朝、夜も明けきらぬ時間。
にわかに尼僧院が騒がしくなった。
王妃の侍女の一人がマリアの寝室にかけ込んで来て、恐ろしい来訪者が侵入してきたことを告げた。
「大変です!フェルナンドが――フェルナンド・デ・ベラルダが、この尼僧院に押し掛けてきました!王妃様を出せと、尼僧の方々を脅しております!」
尼僧院のどこにフェルナンドがいるか、探す必要もない。侍女の話したように、王妃を出せと怒鳴り散らしながら敷地内を闊歩している。
フェルナンドは、彼の息子だったフリオとよく似ていた。ふと、そう言えばシルビオは、父親にも兄にも似ていないことにマリアは気付いた。
どちらかと言えばロランド――もしくはロランド王の父トリスタンに似ている。王位を奪われた弟によく似た息子。
なるほど。弟に負けた過去を思い起こさせる下の息子。フェルナンドがシルビオを冷遇しているという噂も事実だったのかもしれない。
「なんという罪深いことを!ここは聖域ですよ、王であっても立ち入りを許されない場所です!」
院長らしき年配の尼僧は、怯むことなくフェルナンドに立ち向かう。
しかしすでに剣を抜いているフェルナンドの顔は、正気を失っているようにも見えた。
「黙れ!ロランドに肩入れをする尼僧の説教など聞くつもりはないぞ!早く王妃を出せ!さもなくば、尼僧を一人ずつ斬り捨ててやる!」
脅しではない。追い詰められた様子のフェルナンドは、その恐怖と怒りのはけ口を求めている。これ以上苛立ちを募らせれば……危険だ。
「マリア様、何とかできませんか?王妃様は、自分がフェルナンドのもとへ行くと……侍女たちが全力で引き止めてはいますが、このままでは……」
王妃の侍女がすがるようにマリアを見る。
王妃を差し出すわけにはいかない。絶対に。だがこのままでは、尼僧たちは本当に皆殺しにされてしまう。
王妃を差し出すことなく、フェルナンドを満足させられるもの――マリアには心当たりがあった。王妃よりも殺してやりたい女が、いまここにいるではないか。
「ナタリア、貴女はすぐに尼僧院を出て、ロランド様にお知らせして」
「マリア様――」
ナタリアも、マリアが何を考えているのか薄々察しているようだ。引き止めるように腕をつかみ、無言で必死に訴えている。
「早くしてね。私がそう簡単に殺されたりしない女だってことは、よく知ってるでしょ。でも時間がかかり過ぎたら、さすがの私もやられるわ」
安心させるように笑いかけ、マリアはフェルナンドの前に飛び出した。
「フェルナンド・デ・ベラルダ!王妃様にお会いしたければ、私の屍を越えていきなさい!」
マリアの声に、フェルナンドがきょろきょろとあたりを見回す。そしてマリアの顔を見て、目を見開いた。
「私の顔に見覚えがあるでしょう。私は、クリスティアンの娘よ!」
「クリスティアン……やつの……」
敵であったクリスティアン・デ・セレーナに瓜二つのマリアを見たフェルナンドは、少しだけ落ち着き、冷静さを取り戻したようだった。
このまま、せめてこの男を尼僧院の外へ連れ出せれば……。
マリアはナイフを取り、フェルナンドに向かって振りかぶる。それをあっさりと避け、フェルナンドはマリアの腕をひねり上げた。
「……はは、ははは!これは勇ましいお嬢さんだ。奴に似て美しく、生意気な顔をしている……!」
フェルナンドが本当に憎んだもの。
それは、王子に生まれただけで自分から王位を奪っていった実の弟トリスタン。そしてそのトリスタンに仕えてフェルナンドと戦い続け、彼の一族を滅ぼした宰相クリスティアン。
直接の敵。ロランド王などよりずっと、憎い相手。
その男にそっくりな娘であれば、王妃よりもよほど強く食らい付いてくるのではないか。マリアの考えは正しかった。
「そうか。貴様をエンジェリクから呼び寄せていたのだったな。逃げ出さず遥々海を越えて私のもとへ来てくれたのだ。何か褒美を取らせねばな。キシリア王族の子を生むという栄誉を、貴様に与えてやろう!」
年を取っていても長年戦場で戦い続けた男だ。マリアの抵抗を完全に封じ込め、軽々と担ぐ。
「離しなさい!お前の子など……そのようなおぞましいこと、絶対に嫌よ!」
「大人しくしていろ。父の仇を討つ前に、私に首をへし折られたくはないだろう!ははははは……!」
マリアを連れ、フェルナンドは尼僧院を出ていこうとしている。抵抗を続けながらも、マリアはフェルナンドに従った――屈辱に耐えるふりをして。
この男の子を生むなど絶対に御免だ。だが状況は悪くない。フェルナンドは王妃から離れ、マリアもすぐには殺されない。
逃げ出すチャンスは必ずある。
見せつけるようにナイフを振り回したおかげで、フェルナンドは完全にマリアを侮っている。他にも武器を持っているかもしれないと疑おうともしない。浅はかで無謀な小娘だと思い込んでいる。
「乗れ!」
地面にマリアを放り出し、剣を突きつけてフェルナンドが命令した。
目の前には大きな馬が一頭。
寝衣のままでは馬に乗るのも一苦労だ。マリアが跨ぎきらないうちにフェルナンドも馬に乗り、走り出した。
フェルナンドは容赦なく馬を走らせる。不安定な状態で乗っているマリアは、振り落とされないよう馬の首に必死でしがみついていた。
雪が積もり、吐く息は白い。指先が冷たくなり、手がかじかんでいく。
どれぐらい走ったのかは分からない。尼僧院が林の向こうへと完全に姿を消したことだけは確認できた。
「どこへ行くつもりなの?この方角は……まさか、山越えするつもり?」
キシリアの地図を頭に浮かべ、マリアは必死で考えた。
このまま進めば山。その山の先には――。
「このままフランシーヌへ引き返すのだ!よい手土産ができた。エンジェリクの公爵を捕らえたとあれば、フランシーヌは私を歓迎するに違いない」
フェルナンドの言葉に、まさか、という思いがマリアの頭をよぎった。
「おまえ、戦場から逃げ出してきたのね?部下を見捨てて、一人で!なんて男なの!」
「うるさい!私が生き残ることが重要なのだ!私さえ生きていれば、キシリア王家の尊い血も生き残る!」
どこかで部下と合流するものだと思い込んでいた。だがフェルナンドは卑怯にも、指揮すべき部下を見捨てて自分一人だけ逃げ出していたのだ。
だから王妃を連れ去ろうとしていたのか。自分の体裁を少しでも保つために。
――その卑劣さで、自滅するがいい。
部下がいないのなら、もう大人しくしている必要もない。
マリアは馬の手綱を強く引っ張った。
「うわっ!」
突然引っ張られた馬が、前足を上げて嘶く。虚を突かれたフェルナンドは地面に放り出された。
マリアは必死で手綱をつかんでいたが、もともと不安定な体勢に寒さで手がかじかんでいて、耐えることができない。タイミングを見計らい、地面に転げ落ちた。
地面に積もった雪のおかげで、大したダメージはない。ヨロヨロと起き上がり、マリアは落ちたフェルナンドを振り返る。
奴もまだ地面に横たわったまま――走って逃げれば、なんとか……。
「ま……待ってくれ……頼む……」
走り出そうとしたマリアは、我が耳を疑った。まさかフェルナンドが、マリアに命乞いをしている――?
「体が動かないんだ……頼む、助けてくれ……」
横たわったまま視線だけマリアに向け、フェルナンドが言った。
嘘か本当か……。いまはそんなこと、どうでもいい。とにかく逃げて、ロランド王かナタリアと合流しなくては。雪に残った足跡をたどれる間に、早く。
フェルナンドの命乞いも無視してマリアは走った。
深く息を吸うたび冷たい空気が胸の内を切りつけたが、マリアは息も絶え絶えに走る。
東の空が明るい。フェルナンドに連れ出された時はまだ日も昇っていなかったはずなのに。
蹄の音を聞き付け、マリアは足を止める。木の陰に隠れて向かってくる相手を確かめた。
――どうか、ロランド様の部下であって。
息を潜めているマリアが見たのは――数名の部下を連れた、ノアとシルビオだった。
「ノア様!シルビオ!」
声を張り上げて叫び、二人に向かって全力で走る。倒れ込むように抱きつくマリアを、馬から降りたノアが抱きしめた。
「よくご無事で――」
少しだけポーカーフェイスを崩したノアが、安堵したように言った。シルビオも馬から降り、マリアのそばに駆け寄る。
「フェルナンドが、この先にいる。馬から落ちて……動けないと。そのまま倒れていたわ」
ノアとシルビオは互いに目配せし、馬に乗ったままの部下たちにシルビオが確かめてこい、と指示を飛ばす。
フェルナンドの様子を確認に行った部下の一人が、数分と経たず戻ってきた。
「フェルナンド・デ・ベラルダが倒れていました。落馬した際に受けたダメージで、どうやら身体が動かなくなったようです」
部下からの報告を聞いたシルビオは、一瞬言葉を失っていた。
「……生きたまま王の御前に引き出せ。ロランド王は、自らの手で沙汰を下したいはずだ」
ノアの腕の中で、マリアは部下と共にフェルナンドのもとへ行くシルビオを見送る。
まだ現実のものに感じられなくて、ノアにすがりつき、その暖かさに支えられていた。
「……終わったのね」
ぽつりと呟くマリアに、ええ、とノアが頷く。
「終わりましたよ。一年に渡るキシリアの内戦も。トリスタン王の時代から続いていた因縁も。全て」
「そうね。終わったわ。全部……終わったのよ」
ノアの胸に顔を埋め、マリアはそれきり黙り込んだ。
そんなマリアを、ノアもただ静かに抱きしめていた。




